「こんばんは、立華さん」
「こんばんは」
他の客がいない店に顔を出したのは、神室町の不動産業界を裏で牛耳る立華不動産の社長である、立華という男だった。立華の来店にカウンター奥に佇む女は、好きなところに座るよう声を掛ける。立華は広い店内を一望した後、女の目の前の席に腰を落ち着けた。
「今日はいつもより早い時間にいらしたんですね」
「ええ、今夜ばかりはここでゆっくりと過ごしたいと思っていましたから」
「寂しくなりますね、」
「残念です」
昨今、神室町では再開発化計画が進められていた。立華のような不動産会社の人間だけではなく、東城会のヤクザでさえ、ここら辺一帯の土地を利権を争っているのだと言う。何でも、最近はとある土地を巡って、いつ抗争が起きてもおかしくはないという噂が流れているほど、土地の奪い合いは激化しているそうだ。そして、立華が訪れたこの店もまた、地上げされることが予見される土地だった。立華はこの店の主人に一介の不動産屋として、立ち退きを要求していた。通常であれば、不動産側の一方的な言い分に怒号を飛ばす店主が殆どだったが、この店の女主人であるみょうじなまえは立華の言い分を全面的に飲み、快く了承したのだ。立華の代理で店まで足を運んだ尾田が酷く驚いていたのを覚えている。
「今日は何にします?あまり、大したもの残ってないけど」
「私はなまえさんの作ったものなら、何でも構いません」
「それじゃあ少し待っててください」
なまえの店は飲食店だった。祖母の代から続く店で、なまえはここの三代目の店主だった。ヤクザとそう変わらない地上げに初めは驚いていたものの、数分考え込んだだけですぐに要求を飲んだ彼女に尾田も、立華も驚きを隠せなかった。協力的である店主に一目会いたいと立華はこの店へ足を運ぶことにした。彼女と対面し、言葉を交わし、同じ時間を共にすることで、なまえという女がどういう人間かを知った。
立ち退き要求についてはやはり初めは驚きが勝ったこと。しかし、最近の街の様子はどこか殺気立っていて恐ろしいと感じていること。そして、自身が耳にしたことのある噂が信憑性を増しているのなら、この街には長く留まってはいけないということ。勿論、共に育ったこの店を手放すのは惜しい。けれど、せめて自身の手で店を終わらせてやるのが店主の務めだと言っていた。
「最近はよく冷え込みますけど、立華さんはお体の調子はどうですか」
蛇口から水が流れ、食材を取り出した冷蔵庫の扉が閉まる音。濡れた手をタオルで拭いては、手元の確認をしている姿。ふと、遠くにあった意識を戻してくれるような彼女の声。立華はなまえの問いに少し遅れてから答えた。
「今のところは特に大丈夫です。なまえさんは?」
「私は見ての通り、元気ですよ。昔っから体だけは丈夫なんです」
「それは羨ましい限りです」
少しずつ手元が慌ただしくなっていくなまえの姿に、今夜をもってこの店が閉業するという事実を受け止めていた。望まれてそうなった訳ではない、聞こえてくるのは彼女達が作り上げたこの場が無慈悲に取り上げられるのを惜しむ声ばかりだ。それはここに通うようになった立華も同じだった。尾田が持ち掛けた要求を飲んだ翌日、立華は自らの足でなまえの元を訪ねた。書面上の手続きは進めていくが、土地と建物を譲渡するその日までどうかこの店を続けてほしいと伝えに。そして、その日まで自身をここに通わせてほしいと告げたのだ。呆れる物言いだとは重々承知の上だったが、なまえは二つ返事で了承してくれた。
今でも何故、了承してくれたのかは分からないが、最終日である今日まで彼女の元へ通って分かったことがある。彼女の店は神室町から失われてはならないものであったと言うこと。閉業の知らせに悲しむ客は食べ納めだとそれぞれのペースでこの店を訪れ、金を落とし、ありがとうと感謝を口にして退店していく光景を幾度となく見てきた。一番の新参者である立華にも、常連客達は気軽に話しかけては談笑に誘っていた。下町を思わせる賑やかな雰囲気が立華は好きだった。恐らく他の客もそうだったはずだ。
「時々、私は自身の判断が正しかったのかどうか、恐ろしくなります」
居場所を奪われることの辛さは誰よりもよく知っている。生まれた故郷から逃れるように日本へ来たものの、自身のルーツであるこの国の人間からも異国人だと冷たい視線に晒されたことのある立華だからこそ、その辛さが痛いほどによく分かる。だが、今の立華は奪われる側ではなく、誰かの大切な居場所を奪う側なのだ。ましてや、生きる為ではなく、野望を果たす為だけにこの手で奪い取っている。
「でも、立華さんはそうしなくちゃいけなかったんでしょう?」
なまえの言葉が胸の、一番脆い場所に突き刺さる。果たして、そうなのだろうか。誰かを何かの犠牲にしてまで成し遂げなければならないことなのだろうか。交わした約束、果たすべき野望、望んだ未来。そのどれもが立華を突き動かす原動力だったが、なまえを前にしてそうであると言えずにいる。本音を言えば、ここには通うべきではなかった。決意が鈍ると分かっていたのにも関わらず、立華は責任を果たすかのように今日まで通い続けた。贖罪のつもりだったのかもしれない。
「もういいんですよ、そんなこと気にしなくても」
「神室町の再開発が始まれば、ここら辺一体は更地となり、全く別の建物が軒を連ねるはずです」
「ええ、そうでしょうね」
「同じことなんです。その土地を明け渡すのが私であろうと、東城会のヤクザであろうと」
「……ね、やっぱりウチの店って良いところでしょう」
店内の照明が暖色に彼女を照らす。そのせいで彼女の顔が涙に赤く色付いているのかどうか、判断が出来なかった。それでも、なまえは自身の為に夕食を拵えてくれている。立華は日々ここに通うことで束の間に孤独を忘れることが出来た。時には店主であるなまえと、時には同様に来店した客らと。右腕が不自由であることを引け目に感じさせないほど、この店でのひと時は立華にとってもかけがえのないものだった。しかし、時代は、世の中は変遷を止めてはくれない。仮にここを特別視することで生まれる弊害や最悪の結末を避けては通れないだろう。
「立華さんにそこまで思ってもらえる店で、私は嬉しいですよ」
「申し訳ありません、私個人ではどうにもならないことです」
「謝らないでください。誰かに無理矢理奪われるよりも、今夜綺麗に店を畳めるんですから」
「それは本心から、ですか」
心地よいだけの雰囲気を刺すように立華は敢えて、他人行儀な言葉選びをした。なまえは本心を包み隠しているように思えたからだ。この店の寿命を縮めたのは明らかに立華自身だと分かっていたからこそ、罵倒や恨み言の一つくらいは聞いておきたかったのだ。綺麗事だけでは人間は生きていけない。彼女を自身の綺麗事にして済ませてしまいたくなかった。
「ウチはね、お客さんのこと悪く言わないの」
「都合の良い建前では納得出来ません」
「お客様は神様だって言うでしょう?商いをやっていた私がそれを無下にしたら、本当に罰が当たるもの」
「こんな得体の知れない人間でも?」
「ええ、立華さんはウチの一番の新顔さんだもの」
だから、安心してここを任せられるの。私の言ってること、おかしいかしら。といつもと変わらない様子に立華はこれ以上、人の心に土足で踏み入ることを止めた。きっと、これがなまえの本心で嘘偽りの一つもないのだろう。この店は日付が変わった瞬間に立華不動産が所有権を持つ。立華鉄はみょうじなまえの店を多額の金で買った。その事実だけが記録に残り、権利が移行した後も立華がいかにこの場所を大切に思っていたかは誰であろうと知る由もない。
「お待たせしました、ウチのお得意の……、」
湯気を立ててそれは立華の前に差し出される。鼻腔が食欲をそそる香りに刺激され、自身が空腹に喘いでどれほど寂しい思いをしていたのかを知らされる。湯気の熱にやられたのか、目頭が熱く感じるのは、やはり寂しい思いを抱えていたからなのだろうか。いただきます、と隣に添えられたフォークを手に一口食む。何度食べてもここの店の料理はどれも美味かった。彼女の料理で空腹を満たせることは貴重な体験だった。それが全て今日で失われる。
「最後に来てくれたのが、立華さんで良かった」
みょうじなまえは明日、荷物を纏めると実家のある地方へと戻るのだそうだ。ここを売り払った金を元手に新天地で何か始めたいと語ってくれたのが昨日のことのように思える。こうして、立華鉄はそう多くない心の拠り所をまた一つ失ったのだった。
***
そして、現在。一九九三年、かつて神室商店街であった場所にはミレニアムタワーと呼ばれる神室町を象徴する建物が鎮座している。遠方の地で偶然にもミレニアムタワー完成のニュースを見ていたなまえは、閉店間際の一番最後に出来た常連客のことを思い出しては、昔を懐かしんでいた。カラの一坪を巡る抗争に決着がつき、大量の死傷者を出した年から、実に四年後のことだった。
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