スナック街にあるサバイバーになまえの姿があった。普段、なまえは似たような別の店に勤めているのだが、今回はとある事情があって他店であるサバイバーで働いていた。なんでも、看板娘であるいろはが体調を崩し、その間の店の手伝いをいろは直々に頼まれたことがきっかけだった。飲み屋の横の繋がりは想像以上に広く、なまえの店の店主もそういう事ならとなまえを出してくれたのだ。

「お疲れさん」
「お疲れ様です、マスター」

 本日も無事にサバイバーは営業を終え、店内はなまえとマスターの二人きりで片付けが行われていた。客席側の照明を落とし、必要最低限の明かりで二人は店じまいを進めていく。伊勢佐木異人町でも安全に飲める店と言えば、真っ先に名前が挙がるほどこの店はトラブルとは無縁だった。当店のマスターはガタイが良いだけでなく、顔の中心を真一文字に走る傷があり、中々の強面である。サバイバーの手伝いに入ってから、一度も客による迷惑行為も客同士の諍いも見たことがなかった。期間限定のシフトでありながら、なまえはサバイバーの居心地の良さに、ここで働きたいと思うようになっていた。環境の良さという外的要因が第一だが、他にもここに留まりたい理由があった。
 なまえとマスターは既に面識のある相手同士だった。なまえが働く店を上がる時間帯に、マスターはいつも外で一服しているのだ。丁度、なまえの帰路にサバイバーがあり、その前を通る時には軽く挨拶をして、時には立ち話に興じたりと前々から知り合いという関係に収まっていた。マスターはよく帰り際に今日の日を労ってくれることが多かった。立場は違えど、同業者ということには変わりない。まるで自分の店の従業員のように声をかけてくれるマスターに、いつも支えられていた。だからこそ、今回人手が足りないと聞いて真っ先に動いたのがなまえだった。

「そう言えば、いろはちゃんの具合はどうですか?」
「今日もまだ熱が下がらねえって連絡が来てた。当分は辛いだろうな」
「早く良くなるといいですね」
「ああ、まさかお前に手伝いに来てもらうことになるとはな」

 すまねえな、迷惑かけちまって。と頭を下げようとするマスターを止めに入り、好きでやっていることだと無用な気遣いをさせぬように繕う。これはなまえが言い始めたことであり、マスターや体調を崩したいろはに何の非もないのだと言い切った。すると、その言葉と勢いが意外だったようで、マスターは目を丸くしてすぐに寡黙な口元が笑みに歪んでいくのを隠さなかった。

「そこまで必死になんなくて良いだろうよ」
「そ、そうですよね、へへ」

 数日間、共に働いてみて気付いたことがある。それはマスターの器用さと仕事の精度だ。サバイバーはただカラオケが出来るバーではない。勿論、ある程度の飲食も可能なのだが、その料理の提供もマスター自身で行っている。客の要望に合わせて何かを見繕うこともある。たとえば、手頃な花束を用意したいが、おすすめの店が分からないと相談してきた客に、マスターが花束を作ってやったりと何でも器用にこなしてみせるのだ。勿論、それだけではない。店外にあるプランターでは家庭菜園ならぬ、バー菜園をしており、提供する料理の材料もある程度、自力で確保出来る状態になっていた。ここまで来ると、本当にカラオケバーなのかと疑いたくなるが、多彩なサービスを提供してくれるこの店は確かに唯一無二であると思えた。

「そうだ、今から何か軽くつまむか」
「今からですか?」
「なまえがいるおかげで、最近客足が多くなった」
「そんな、大袈裟ですよ」
「それに、この時間になると小腹が減っちまってな。なまえはどうする」
「……わ、私もいただいていいんでしょうか」
「今はウチの従業員なんだ、遠慮せず食ってけ」

 簡単なありものしか作れねえが、と前置きし、マスターは背面にある冷蔵庫を漁り始める。その間になまえは布巾を濡らしては各席のテーブルを拭いて回る。マスターが自分の為に何か作ろうとしてくれているのだ、何もしないままで待つことは出来ないと先に拭き掃除だけでも済ませようという思いだった。

「悪いな、気遣わせちまって」
「働かざるもの食うべからずですよ」
「何言ってんだ、一番働いてくれてただろうに」
「私はいつもみたいにお客さんと話し込んでただけです」
「それが助かってんだ。俺とじゃ、誰の会話も弾まないからな」
「そうですかね……?私はどうしてマスターが花束を作れたりするのか、不思議で仕方ないのに」
「ま、人は見かけによらねえってことだ」

 もしかして、ここのバー始める前はお花屋さんだったり、して?とテーブルに布巾を置き去りにしたなまえが首を傾げる。俺が花屋か。この見た目でそれは無理があんだろ。と笑われ、謎はより深まっていく。しかし、マスターの前職が花屋ではないことが分かり、なまえは余計に混乱していた。そのぐちゃぐちゃに絡まった思考を振りほどくかのように、忘れていた拭き掃除へと戻る。
 やがて、全てのテーブルを拭き終え、カウンター内へ戻ると、慣れた手つきで料理をしているマスターの姿があった。軽く布巾を洗おうとしていたのだが、マスターが何かに打ち込んでいる姿から目が離せない。やや俯きがちの横顔、紳士然とした装い、捲られたシャツの袖から覗く男性らしい太い腕。まるで見落としていたかのように、たった一人の男の細部に目を奪われていた。

「あともう少しだ」

 予期せぬ呼び掛けに、なまえは見蕩れていたことを誤魔化すように慌てて蛇口を捻った。慌てていたこともあり、勢いよく飛び出して来た水を弱めてから布巾を濯いだ。冷たい水が意識を冷静に保ってくれる。なまえは今回の件で自身を打算的な女であると嫌悪していた。初めは困っているマスターを助けたいという純粋な気持ちだったが、日を重ねるにつれて、全く別の思いが顔を覗かせるようになった。この店にいると、あのマスターの隣にいると、すこぶる居心地が良いのだ。
 たとえ、業務の内容であっても自身を必要として話をしてくれる。当たり前のことが特別なように思えて仕方がなかった。普段なら、サバイバーで働くことなどないだろう。いろはが体調を崩しでもしなければ、このような展開にはならなかった。彼女を心配する気持ちと、マスターへの思いが交錯する。どちらもなまえ自身の感情で、本心だった。すっかり冷え切った手で濡れた布巾を絞る。冷え過ぎたせいであまり上手く力が入らないのを見かねたマスターが、いつの間にか傍に立っており、貸してみな。となまえの手から布巾を取ると、容易く布巾の水分を粗方絞ってみせた。

「ごめんなさい、少し考えごとを」
「丁度、コイツが出来上がったところだ。飲んでみるといい」

 マスターに差し出されたのは、淡いイエローが注がれたゴブレットと呼ばれるグラスに土台と足が付いたものだった。見慣れぬ飲み物になまえが不思議そうに瞬きを繰り返していると、そろそろ新しいカクテルを出したいと思ってたんだ。よけりゃあ、感想を聞かせてくれ。と勧められ、なまえは可憐な黄色を一口飲む。すると、カクテルという割には口当たりが良く、酒であることを感じさせない爽やかな飲み口になまえはもう一口とグラスを傾ける。

「あんまり煽るな。こう見えても強い酒だからな、それは」
「こんなに飲みやすいのに、意外です」
「……それで、何を考えてた?」
「マスターには言えないこと、です」
「それは悩み事か?」

 一度頷き、続かぬ話題に手元のグラスに逃げ込む。オレンジやレモンなどのフルーティーな後味に甘えていると、マスターが真剣な顔でなまえを真っ直ぐ見つめていた。

「あんまりにも辛いなら、抱え込むな。俺で良ければ、話ぐらい聞いてやれる」

 眼鏡のレンズ越しの瞳が自身を貫き、目が逸らせない。それは体感としてやってくる。少しずつ速度を上げる脈、生まれた熱を逃がし切れないでいる頬、ぼやけた視界のように白けていく複雑な思考。柑橘系の甘味と酸味が薄らと残る唇は、勝手に素直さを露呈させていく。

「わたし、実は……、」

 素直さの一端を口にしようとした瞬間、大きく視界がぐらつくのを感じた。そして、その刹那、目の前が真っ黒に塗り潰される。自身の体の制御が効かない感覚と、鼻先に触れる好きな匂いに思考が追い付かないでいる。ひたすらに柔らかい感触に、頭上から声が降る。

「だから、言っただろ。あんまりこの酒を煽るんじゃねえって」
「あれ……?マスター、いま、わたし、」
「悪い、お前酒弱かったんだな」

 す、すみません。もしかしたら、さっきのお酒、飲み過ぎちゃったかもしれないです。となまえはマスターの懐に抱かれたまま、置き去りになったグラスを見た。既に半分以上無くなっているカクテルに、マスターはゆっくりとなまえを近くのソファーへと連れていく。ふらつく足元に気を配りながら、なまえはソファーの背もたれに体を預けた。マスターはその場で屈むと、なまえと同じ高さの目線で顔を覗き込んでいる。

「いいか、あのカクテルはな、スコーピオンって言うんだ」

 度数はおよそ十三パーセント。使用する材料のおかげで飲みやすいカクテルだが、その飲みやすさに釣られて飲み進めていくと、徐々に酔いが回る様がサソリの毒に喩えられることがあり、この強烈な一撃を連想させることから『スコーピオン』と名付けられたのだそうだ。なまえもこのカクテルの一撃を見事に受けてしまった。

「このカクテルは店で出さない方がいいな」
「すみません、マスター、わたし……」
「いいや、気にするな。少し落ち着くまでここで休んでろ」

 優しくソファーに寝かされ、なまえは重たくなり始めた瞼を閉じ、明かせなかった思いと共に意識を手放す。いつか、明かせるだろうか。土壇場になってサソリの毒にやられてしまった女の、独りよがりな思いを。そう思うと、再びあの懐が恋しくなってしまった。



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