生まれて初めて、誰かにとっての一番でありたいと思った。酷く強欲であることは分かっている。しかし、自身は彼にとっての一番にはなり得ないのだろう。聞くまでもない、分かり切ったことだ。たとえ、この心の居場所が彼であると証明しても、それを彼は望んでいないのだ。あの人の視線の先には必ず青木遼がおり、全ては青木の為に物事を収束させていくだけだ。
 みょうじなまえは沢城丈を慕っていた。なまえは青木に気に入られているものの、青木との密会を重ねるにつれて、次第に沢城へ惹かれるようになっていた。密会の日には必ず一番に迎えを寄越し、この身柄を青木の元へと運んで行く。車内の沈黙でさえ、恋焦がれるなまえにとっては貴重な二人きりの時間だった。弾まぬ会話であろうと、たった一言や二言だけを交わす挨拶であろうと、なまえは沢城への思いを募らせていくばかりだ。

「みょうじさん、これは一体、」

 なまえが滞在するホテルに沢城を呼び付けたのは、今日が初めてのことだった。部屋を訪れた沢城は眉根一つ動かさずに、閉ざされた扉の前で佇んでいる。部屋の明かりはまともにつけなかった。テーブルランプ一つの暖色が薄暗がりの寒色の中を小さく照らす。

「ごめんなさい、いきなり呼び出して」
「いえ、構いませんが、一体何の用です?」
「……そばに来てくれませんか、」

 望まぬ婚姻を結ばれた日、この胸は焼け焦げるような絶望を覚えた。自身が今まで大切に培ってきたもの全てが焼き払われたような感覚に涙が止まらなかった。心を模した肉の塊に焼き印を押されるほどの痛みを飲み込む術を知らない小娘を宥めてくれたのは、あの青木遼ではない。この部屋の薄暗がりから出て来れないでいる影、沢城丈だった。温もりの感じない革が何度も震え、嘔吐く背を撫でてくれた。所詮は棚に並べられたトロフィーと変わらなかった。生まれ育った家でも、一人立ちした先で出会した人間達も、勝手に見初めた青木遼にとっても。美しく輝くことだけを望まれた、形ばかりのトロフィー。建前で施された飾りばかりが増えてしまい、この身は随分と酸化して黒ずんでしまった。

「沢城さん、……お願いします」
「あなたにとっても明日は大切な一日になります。お戯れは程々に、今夜はもう休まれた方が」
「どうして、誰も私の声を聞いてくれないの」
「みょうじさん」

 籠の中の鳥を憐れに思う人間など、この世の中にほんの一握りしかいない。恐らく、大半は安穏とした日々を過ごし、他者を介して満たされる裕福で幸せな生を謳歌しているなどと思っていることだろう。鎖に繋がれた犬、標本となるべく薬品で命を奪われてピンで突き刺された蝶、ホルマリン漬けの蛙。まるで見世物小屋の展示物だった。誰も自由を許さず、上げた声を掻き消し、心を切り捨てていく。

「明日なんて来なければいいのよ」

 結婚前夜、マリッジブルーなどでは説明がつかないほどになまえの精神は不安定だった。体さえあれば済むような生き方にはうんざりしていた。一人立ちしたことで、その呪縛から解き放たれたと思っていたのに再びこの足に纏わりついては、深淵へと引き摺り込もうとしている。それが幸せであると善人面して、勝手に人の心を土足で踏み躙る。限界だった、叫び出したいほどになまえは疲弊していたのだ。

「沢城さん、私はずっとあなたのことを、」
「それ以上、あなたの言葉を聞くことは出来ません」
「私の言葉を聞けないと言うのなら、いっそのこと私を殺してください」
「それも聞けない頼みです」
「私は青木遼よりも、あなたじゃないと駄目なんです」

 あの人は私が啜り泣いている事実も知らないで、私に愛していると口にするのよ……!となまえは語気を強める。上辺だけしか見ていない人間と一緒になると言うことは、かつてなまえが囚われていた籠の中の日々を受け入れると言うことだ。出来ない。たとえ、心を殺しても自分らしく生きていくことを知った今のなまえでは。

「みょうじさん、どうか考え直してください」

 俺なんてどうしようもないヤクザです。あなたとは釣り合わない、とっくに人の道を外れた人間です。と沢城は淡々と自身のことを卑下する言葉を並べ立てた。この時、沢城がなまえのことをどう思っていたのかは伏せておくことにする。それをここで綴ってしまえば、沢城丈は青木遼に二度と生きる道を見い出せなくなってしまうからだ。

「その、どうしようもないヤクザがずっと私の傍に居てくれたじゃない」
「それは若の……、青木遼の命令に従ったまでのことです」
「だとしたら、あの人は何も分かっちゃいないわ」

 心に空いた穴を埋めてくれたのは、いつだって沢城という男の不器用さだった。たかが一人の小娘の為に慣れぬ振る舞いをしてくれていたこと。青木遼の命令であったとしても、必要とあらば傍にいて危険から守ってくれていたのも沢城だ。なまえを一人の人間として接してくれていたのは後にも先にも ──── 。
 椅子に腰掛けた女は顔を両手で覆い、身を丸くして泣いていた。どこにも救いがないこの部屋で、なまえは明日が見えずに震えている。青木遼へ抱く思いの中に沢城丈はどうしても割り切れないものがある。それは第一に若き日の自分に成り代わって、名も無き赤ん坊だった荒川真斗を実の息子として育ててくれたことへの恩義。第二に、自身が果たせなかった務めへの贖罪、もし、あの時、コインロッカーの鍵だけでも開けておくことが出来ていれば。

「あなたがあの人の傍に居てくれるなら、」

 ──── 俺はどんなことだってします。
 部屋の翳りに染まる男の声に、女は嘆く。それは何度も男の胸元を切り裂き、突き刺し、細切れにしても止まない。叶わぬ結末が愛情を呪いに変える。渇望していたものが決して手に入らないと知った女は取り乱し、手当り次第に周囲の物を蹴散らして、ただ一人泣いていた。ひっくり返ったテーブル、中身のぶちまけられたサイドチェスト、テーブルランプはコードに絡まったまま横たわっている。女が取り乱したことで、沢城は初めてなまえの傍で膝を着いた。
 今まで一度たりとも物に当たったことがないだろう、赤らんで血の滲む手の甲。誰の為に見繕われたのか分からないパンプスもどこかの暗がりに消えてしまった。へたり込み、呆然と床を見つめる女は唇を噛み締めていた。叶わぬ明日を呪うように。今になって、ようやく傍に寄り添う沢城に追い縋るように。あなたのせいよ、なにもかも。と呪詛を無理矢理、喉奥に流し込まれる。

「百も承知です。明日の婚礼をあなたが望んでいないことは」

 青木遼はみょうじなまえにかつての夢乃を重ねて見ていた。

「俺にとってはあの人だけが、生きる道なんです」

 しかし、どうしてあの人から目を背けることが出来ようか。

「分かってください、あなたは……」

 涙の匂いに触れる。目の前の泣き崩れていた女は、まるでマネキンのように美しいだけの表情で沢城の瞳の奥を刺し貫いていた。黒金が沢城を貫いて直ぐ、限られた酸素を千切る。女の顔は見えない、目の前の翳りに身を隠してしまったのだ。彼女の涙に沢城は自身の頬が濡れることを厭わずに、なまえの気が済むまで許していた。このような選択をした者の末路など考えるまでもない。しかし、いつ命を投げ出してもおかしくない女が明日を生きられるのなら。あの人の隣で笑ってくれるのなら。未来を約束してくれるなら、どうなってしまっても良かった。

「抱いてください、沢城さん」

 沢城丈は親の愛情を知らずに育った。ならば、彼がやがて辿り着く親の愛情が歪んでいることなど、初めから分かっていたではないか。青木遼こそが、沢城丈の唯一の生きる道なのである。



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