まだ薄らと早起きがこの身に冷たく、厳しい時間になまえは自分より朝の早い男の元へと、布団を抜け出していく。何も、彼の為に早起きをした訳ではない。ただ、目が覚めたのだ。薄明かりの灰色の部屋を抜けて、ぼんやりと明かりの漏れ出す洗面所へと辿り着く。悟られぬように、今になって足音を殺し、そっと壁から顔を覗かせる。すると、全くこちらを見ずに、今日も早えな。と男は口にする。

「悪いな、今ここ使ってんだ」

 寝起きで未だ重たい瞼を擦り、首を横に振る。そうか、とだけ返す男は顔にかかるほどの前髪を持て余しているようだった。洗面台にはドライヤーやブラシ、整髪料などが並べられており、これからいつもの髪型を作っていくのだと知る。込み上げるあくびを噛み殺しながら、壁にもたれかかっては鏡の中の自分と対峙する男、東の姿を眺めていた。みょうじなまえは東徹が好きだった。好きだった、と言うより、好きなのだ。
 たとえば、元々はヤクザのくせに子どもに優しい一面があったり、困っている人間がいれば突き放すような素振りで助けてやったり、愛を囁く時に言葉を選び過ぎて上手く伝わらなかった時の慌てぶりだとか。本職がヤクザであることを忘れてしまうくらいに、東という男は良い人間だった。本職の相手にそんなこと思うべきではないのだが。

「つうか、何で最近朝早いんだ?もっと寝てりゃあ良いだろ」
「……内緒、」
「まあ、早起きは良いことだけどよ」

 視線だけが時折こちらに向けられる。東は肌寒い朝の空気を気にして、なまえへ何度か問い掛ける。寒くねえか。うん、大丈夫。体冷える前に向こうに戻れよ。うん、ありがと。と何気ない会話を交わし、朝の多忙な時間が過ぎていく。東は下ろした髪を後ろに流し、ドライヤーの熱でクセをつけていく。丁寧に前から後ろへと髪をブローすれば、いつもの彼の姿が見え始めてくる。綺麗に揃えられた眉と切れ長の瞳。ぱっと見ただけでは強面な印象を受けるが、なまえにとっては見慣れた素顔だった。
 頭頂部の髪は手で持ち上げて浮かせながら、後ろへやんわりと引っ張ってボリュームを持たせるように。側頭部の髪は逆に押さえつけるようにして控えめに。慣れた手つきは迷いなく、東徹のトレードマークであるオールバックを形作っていく。ドライヤーの熱風で熱を帯びた髪に今度は冷風を当て、しっかりとクセを固定させる。時折、あちっ、と小さな悲鳴が聞こえてくるが、それすらも見ていられるほどになまえは東の朝のヘアセットが好きだったのだ。

「あんまりジロジロ見んな」
「私のことは気にしなくていいよ」
「ンなこと言ってもな、視界に入ると気になんだよ」
「……緊張するの?」
「するかよ、今更なんでなまえに緊張しなくちゃいけねえんだ」
「だって、東くん、」

 わたしのこと、大好きでしょ?と平気な顔して答えるなまえに、東はその場で取り乱す。決して間違いではないが、本人に面と向かって言うには勇気のいる言葉なだけに、お、お前なあ……!と照れ隠しで語気を強める。……ちがうの?と悪気なく問い掛ければ、い、いや、そうじゃねえ!と更に声を張った返事が飛んで来る。ほんの少し、からかいたくなる気持ちが込み上げ、わざとらしく眉を下げて見せれば、黒目を小さくしてこちらを見た。そして、次の瞬間には。

「おい、変な勘違いしてんじゃねえ」

 ヘアセットも途中だと言うのに、それを放り出して傍に寄って来ては、前髪が疎らに解れて垂れた状態のことなど気にも留めずになまえの両肩に手を添える。

「素っ気ねえ態度とって悪かった。だけどな、俺がお前のことをどう思ってるかはちゃんと伝えてきたつもりだ」

 今度はこちらの黒目が点になる。まさか、ここまで胸の内を明かしてくれるとは思ってもいなかった。東の言う通り、なまえは日々東から大切な扱いを受けている。先程も会話に挙がった通り、朝は無理してまで早起きをしなくてもいいこと。朝食の時間になってもまだ眠っているようであれば、起こしてくれること。髪型や服装についてなまえよりも真剣に考えてくれること。具合が悪ければ、気にかけてくれ、時には看病してくれること。その行動の全ては東がなまえを大切に思っているからである。
 あまりに真っ直ぐこの目を見つめ、その場で取り繕うような、初めから選んだ形跡のないありのままの言葉を与えられ、なまえは不意に目を逸らす。邪な考えを抱いた自分が恥ずかしく思えるほどに、東はなまえのことをどう思ってくれているかを話してくれたのだ。それは時に行動で。時に言葉で。時に視線で。……だから、勘違いすんな。とまで言われて、なまえはいよいよ居心地が悪くなってしまう。そして、ただのからかいだったと言えなくなってしまった。

「じゃあ、もうそんな顔すんな」

 いいな?……うん、ごめんね。なんでなまえが謝ってんだ。と軽く笑われ、なまえも釣られて歯を見せて笑う。それに気を良くしたのか、東は骨ばった手でなまえの頭をくしゃくしゃに撫で付けると、そっちの顔の方が好きだぜ、俺は。とさらりと言い残して、自身のヘアセットへと戻ってしまった。彼はいつもそうだ。予期せぬ時に予期せぬ言葉を置いて、何も気付かないまま自身のことに取り掛かる。髪の毛がやんわりと鳥の巣になっていたが、それはそれで良しとして。なまえは東に髪をくしゃくしゃにするような撫で方をされるのが好きだった。その後、一人で髪を直す時にその時のことを思い出して嬉しくなるのだ。

「ねぇ、セット終わるまでここで見ててもいい?」
「なんだよ、見蕩れてんのか?」

 うん。だって、一番かっこいいもん。と大きく、少しオーバーに頷けば、だろ?とどこか得意げにヘアセットを再開させる。今度は軽めにブローし、次はアイロンでしっかりとクセをつけていった。ほどよい髪の束を挟んでは後ろへと流す鮮やかな手つきにはいつも目を奪われている。普段から愛用する整髪料を取り、両手に広げて伸ばしていけば、ようやく最後の仕上げとなる。前髪から順番に髪をかき上げながら、整髪料をつけていく。そして、いつも見慣れた髪型の東徹の出来上がりだ。

「どうだ、今日もばっちり決まってんだろ」
「うん、今日も一番かっこいいよ」
「そんで、なまえはどうすんだ?」

 また寝るのかと問われ、そのつもりだったのが途端に気が変わる。何故だか無性に二度寝するのが惜しく感じられた。確かにまだ薄明かりに包まれるほどの朝早い時間だ。いつもがルーズな起床なのだから、今日くらいはこのまま起きている旨を告げると、東は少し考えた後に口を開く。

「なら、少し外出るか?」
「いいの?」
「おう。折角、なまえが早起きしたんだ。いい傾向だろ」

 私、ミジョーレかアルプスのモーニング食べたい。と返せば、いいな、それ。と乗っかって来てくれる。なまえは急いで寝室へと戻ると、一気にクローゼットの戸を開け、中の服を物色し始めた。一番かっこいいと言ったのはお世辞でも建前でもない。心からの言葉だ。ならば、なまえもそんな一番かっこいい相手に似合うような装いをしたいと思った。肌寒い早朝、喫茶店のモーニング、サングラスの似合う恋人、その隣に立っても恥ずかしくない洋服。なまえは少しずつ自身のイメージを固めていく。クローゼットの内側に取り付けられている姿見を覗き込んでは、頭を悩ませている。今度はなまえが鏡と対峙しているのだ。
 悩ましいなまえを横目に、東は一張羅へと腕を通していく。自分自身を象徴する服装にきっちりと収まると、ベランダ付近の窓を開け、懐に忍ばせた煙草に手を伸ばす。その間にもなまえは暖かなパンツルックに合う小物やアウターを吟味している。東は煙草を口に咥えたまま、突然慌ただしくなったなまえの姿を追っていた。まだなまえには打ち明けていないが、なまえがヘアセットしている東が好きなように、東もまた服装を決めているなまえが好きだった。

「確かに見ていたくなるっつう気持ちは分かるな、」

 ぽつりと呟いた言葉はなまえの耳には届かず、やがて上る煙草の薄煙と共に消えていった。



| 撫で付けるはこの鬣を |


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