重たい感情を抱く花輪喜平 二つある肺の内、一つを失くしてしまった。まるで上手く呼吸が出来ない。いくら酸素を胸いっぱいに取り込めど、胸に虚空があるのか、全く満たされることがなかった。いつからこの虚空は胸に渦巻くようになったのか。分からないと白々しく書き綴ったところで、花輪喜平は嫌と言う程に理解していた。一切の光を通さない、黒に身を包んで故人を悼む姿は、彼女の伴侶である男の葬式の日に見た姿だ。零せど零せど尽きぬ涙に瞼が赤く腫れ、薄づきの化粧も目元から徐々にひび割れて剥がれていく。込み上げるものを衆目に晒さぬよう、真白のハンカチで何度も目元や口元を覆ってはその身に響く悲しみをどうにかして抑えようとしていた。
彼女の伴侶は大道寺の協力者たる人間で、花輪もどのような相手かは知っていた。若くして財を成した聡明な好青年である彼は、最愛である彼女を娶っては順風満帆な人生を歩んでいく筈だった。全てに祝福され、これから始まるだろう素晴らしい日常は叶わないばかりか、今回の訃報である。元々痩身である彼女の顔付きがやつれているように見えるのは、この訃報がかなり堪えたからだろう。若くして未亡人となった彼女のことを思えば、酷く胸が痛んだ。こじんまりと執り行われた葬儀は彼女に一体何を残したのだろうか。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
一通り葬儀が終わり、花輪は組織の計らいでなまえの自宅に滞在していた。失意の底にいる彼女が後を追わぬように監視の意味も込めて、遣わせた人間が偶然にも花輪喜平だった。組織にとっても、彼の死は多大なる損失だったのだ。この訃報に心を痛める幹部もどれほどいたことか。彼女の心情を察するに余りあると感じた人間の遣いとして、花輪は彼女の傍にいる。決して、寂しさに彼女が殺されてしまわぬように。
「心中、お察しします」
それ以上の言葉が見つからない。死を悔やむ声をいくら集めたところで故人は帰って来ない。彼女のやつれた頬に色を添えることは出来ない。命は平等に与えられるが、その実、価値まで平等かと言われれば全くそうではない。たとえば、ここにある一つの命を彼女の為に捧げるとする。しかし、それに価値はないのだ。ただ、愚かな男が不必要に命を捧げたに過ぎない。釣り合わない、天秤に同等の心臓が二つ掛けられようとも、失われた彼の人の皿の方が何倍も重たく、沈んでいくのだ。
「みょうじさん、今夜はもう休まれた方が良いかと」
明日も忙しくなります。と心にも無い言葉を定型句のように並べる。この世は死を悼む者に傷を癒せるだけの充分な時間を与えてはくれない。生きることを強要され、無理矢理にでも明日へ運ばれていく。そして、傷を癒す代わりに記憶から、日常から、営みから、 故人の思い出を少しずつ奪っていくのだ。人間の一番弱く脆い、胸を切り開いて柔らかな心臓に宿る、心に勝手に触れては予告なく攫ってしまう。
「分かりました。せめて、シャワーを浴びようかと思います」
「ええ、その方が良い。明日、また迎えが来ますので」
「花輪さんも、ありがとうございました」
「……いえ、私は何も」
では、と彼女の部屋を後にする。戻るも進むも、何処も暗闇に包まれており、ぼんやりと薄明かりが頼りなく闇を照らすばかりだ。用意された一室に戻っては明かりを点け、消化し切れない後味の悪さをいつまでも抱えていた。何故、彼だったのか。失われるべきは他にもたくさんあるだろうに、何故、彼でなければならなかったのか。やはり、上手く呼吸が出来ない。みょうじなまえが精神的に疲弊しているのは明白だ。明日があると口にした後悔が今になって押し寄せる。やり場のない感情を持ったまま、ベッドに腰掛けるとそのまま横になった。間違えてしまったかもしれない言葉選びに、痛々しく目を伏せては自身でも気付かぬ内に疲労していたのか、そのまま眠りに落ちてしまったのだ。意識を手放す直前、何処かで誰かの諦観の声が聞こえた気がした。
***
──── 深く水底に沈んでいく感覚。いくら身を削げど、足りぬと持ち上がり続ける天秤の皿。目に焼き付いて離れない喪服の黒。声を押し殺して泣く女の姿。肺が押し潰されるように息を吐き出していく。泡の塊のように水中に吐き出されては、無慈悲に砕けて消える。
息が出来ぬ苦しさに、花輪は奇妙な夢から揺り起こされた。額には汗が浮かび、如何にこの眠りが寝苦しいものであったかを証明している。ふと、腕時計に目を落とす。何か大切なことを忘れている気がして、まずは時計を見たのだ。なまえと別れてから既に一時間が経過しており、嫌な胸騒ぎを覚えた。今すぐにでも彼女の部屋に行かなければならないと、危機感に駆られて花輪は部屋を飛び出した。
老いた体の消耗よりも嫌な想像が先行する。傷を癒すのには多くの時間を使うが、中にはそれまで待てないと命の灯火を吹き消してしまう人間がいる。違うと拒絶しても頭には悪夢がこびり付き、次第に強くなる不安を払拭出来ない。一目散に飛び込んだのは、彼女の自室だった。部屋を見渡しても何処にもなまえの姿はなく、次に花輪はこの家の浴室へと向かう。シャワーを浴びたいと口にしていたことを思い出し、手当たり次第に扉を開け、中を覗き、ようやく辿り着く。
細い光が漏れる扉を開けた先には、目当ての浴室があった。磨りガラスの向こう側に座り込む人影が見える。まるで、その場で事切れているかのような幻を必死に振り払い、一歩ずつ浴室に踏み込んでいく。一時間経っていると言うのに、未だにシャワーは出来る限りの温かな湯を垂れ流しており、人影は一切微動だにしていない。どうする、この扉を隔てた向こうで既に棄てられた肉体を見つけてしまったら。惰眠を貪ったせいで、彼女まで失ってしまったら、自身はどうすればいい。体が自然と震え、やけに冷たい手で目の前の扉を開ければ、濃淡の疎らな湯気に視界を遮られる。
「……みょうじさん!」
彼女は床に座り込んでいた。手首に果物ナイフをあてがったまま、ずっとシャワーの湯を浴びていた。目で見て分かるほどに手が震えている。いつだってそうすることが出来ただろうに、結局はそれを選べずにいたのだ。しかし、そんなことはどうでも良かった。嫌な予感は外れたのだ、それだけで充分ではないか。花輪は急いで、裸で座り込む女の手からナイフを奪い取り、浴室の外に投げ捨てる。そして、自身が濡れてしまうことも厭わずに死ねなかった女を強く抱き締めた。スーツに重たく湯が染み込んでいくのも構わず、黙って女を抱き締め続ける。
止まぬシャワーの水音、きつく抱き締めた女の震えた体、外から流れ込む冷たい空気、死ねなかったと腕の中で暴れる女の手。やがて、辺りに静寂が広がったかと思えば、女は声を上げて泣き出した。今まで噛み殺していたものを吐き出すように、花輪の腕の中で声を上げて子どもが喚くように泣いていた。温かいだけの水が視界を遮るようになっても、花輪はなまえが泣き止むまで抱き締めるのを止めなかった。不思議とこの時だけはまともに呼吸が出来るようになっていたからだ。そうだ、この時に初めて、この胸に穴が空いたのだ。真っ黒で底の見えない、ただただ広がるのは虚空ばかり。
「何も、……何も、あなたが命を投げ出す必要はないはずです」
喉が切なさに焼き切れそうになれば、意図せずそれが与えられる。気が触れたのかと思われてもおかしくない程に彼女は病んだ目をしていた。与えられたそれに甘んじていると、今度は行き場のない手に同じものが重ねられていく。しなやかで弾力のある肌に気が遠くなりそうになる。しかし、遠のく意識をしっかりと繋ぎ止めたのは、なまえの一言だった。
「……花輪さん、さみしいんです」
どうしてもこの胸の穴が埋まらないんです。あの人がこんなことを望まないって分かっているのに。どうしても、
罪を恐れて懺悔する愚かな女の胸の穴を塞ごうとしたのは、同じく罪を恐れるくせに愚かにも自身を宛てがおうとする男だった。手、腕、足、皮膚、目玉、臓物、神経、血液、骨髄、脳……、何でも良かった。一体どれほどこの身を削いで、彼女の胸の穴に詰め込めば、彼女は、なまえは元通りになるだろうか。その為なら、この肺が一つになってしまっても構わない。何故なら、なまえもまた、上手く呼吸の出来ない人間なのだから。
再び唇を塞ぐ。まともに呼吸が出来るようになるまで、二人は浴室を出て行くことはなかった。手狭な空間で互いを結び付ける。辺りには湯を吸って重たくなった衣服が散らばり、滑らかな肌を浅はかな男の手がなぞっていく。ふと、視線を外した瞬間、備え付けの鏡に映る男の姿が見えた。髪を振り乱した女の肌に溺れている男もまた、病んだ目をしていることに気付くと、目の前の現実から逃れるように息を止めて、女と共に水底へと潜っていくのだった。
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