どうしてもあの子が欲しい青木遼



 青木遼は時折、悪夢に魘されることがある。これは自業自得なのだろうか。夢にまで姿をチラつかせ、実に鬱陶しく目障りな男だと歯を食いしばる。しかし、どれだけ恨めしく夢に這いずり出たところで現実は変わらない。お前の愛し子を手にした俺に纏わりつく哀れな亡霊だと、青木は自身が掴み取った女の価値を噛み締めた。彼女は、みょうじなまえは今までに関係を持とうとした女達とは違い、権力や地位などに目を眩ませ、欲を出すような女ではなかった。元々、彼女自身の父が政界に属する人間と言うこともあり、無頓着だったのだろう。それ故に、青木遼という渇望する常闇に勝手に魅入られてしまった。
 しかし、青木がなまえを気に入ったところで障害となったのが、なまえの父だった。政界の大御所である彼は新進気鋭の若手である青木に難色を示していた。飛ぶ鳥を落とす勢いで頭角を現した青木に、何かしらの公に出来ない黒い繋がりがあると見抜いた聡い男でもあった。青木遼を危険視する人物との対立は避けられず、それは秘密裏に行われたのだ。それが青木遼を常闇と比喩する由縁だ。何も命までは取らない、今は。ただ、息の根を掴んでおきたかったのだ。その代わりに望むものを差し出してくれれば良いと、とある事件に見舞われた実父を思い、傷心するなまえの傍へと歩み寄った。

「……あなたは青木遼さん、ですね」
「ええ、今回は非常に残念でした。まさか、みょうじさんがこのような事態に巻き込まれるだなんて」
「青木さんが真っ先に父を助けてくれたそうで、」

 青木の探し求めた理想が目の前に、女の形となって現れ、そして、今は自分自身だけを見つめている。まるで心の拠り所であるかのように。その男の無事を共に安堵出来る相手だと思っているかのように。この日、初めて青木遼はまともになまえと言葉を交わし、なまえの意識に自身を植え付けることに成功したのだった。それからと言うもの、事は全て順調に運んで行った。彼女の父の見舞いに病院に立ち寄れば、待ち合わせたかのようになまえと顔を合わせ、彼女の胸の傷口に植え付けた種を育てていく。いつだって彼女のことを思い、寄り添う姿勢であり続けた。
 すると、やがて雪解けを迎える。徐々に軟化していた関係がその時を告げたのだ。彼女の胸に根付いた種が芽吹き、茎や蔦を伸ばして、手塩にかけた美しい花の蕾を蓄えたのだと。だが、困難と言うのは、人が一番幸福に満ちる瞬間に姿を現すのだと思い出した。今まで意識不明だったなまえの実父が意識を取り戻したと知らされ、青木は真っ先にあの男の元へと急いだ。彼の病室へは一番に辿り着き、久方ぶりの邂逅に打ち震えていた。

「みょうじさん、ようやく意識を取り戻されたそうで」
「君をここに呼んだ覚えはないがね、」
「まあ、そんなことを言わないでいただきたい」
「どの面下げて、私に会いに来た」
「純粋に貴方の顔が見たかったからですよ、みょうじさん。それに、一つ伝えておかなければならないことがある」

 怪訝そうに傾聴する哀れな亡者の男に、青木はなまえとの婚約を告げる。当時の彼にとっては死の宣告と同意義だったかもしれない。今となっては確かめる術が無いのだが。

「貴方の娘は私が苦労して見つけた、最愛の人なんです。ですから、どうかお許しを」

 目を見開き、絶句する男に笑いが止まらない。腹の奥底から湧いて出て、止むことを知らない。綺麗に取り繕った言葉の裏に真意が滲み、男は聡いが故に気付かずにはいられない。お前が人生をかけて育んだ白薔薇は既にこの手の中にあるのだと。そして、何も知らぬ世間は祝福することだろう。その祝福が大きければ大きいほど、この男は絶望に首を括られるのだ。

「お嬢さんは既に私のものですよ、お義父さん」

 ──── あなたには持って生まれた知性と品性を感じます。
 体の何処からか忌々しい声が響く。自身を赤の他人だと信じて疑わない軽薄な女の綺麗な言葉だった。白々しい程に聞こえの良い世辞に刹那、青木は目の前で力なく頭を垂れる男にかつての自身を見た。未だにこの体には呪詛がこびり付いている。それを払拭出来るのは、彼女だけだと青木は無言で義父の病室を後にする。逃げるように病院を後にした青木は自然となまえの元を訪ねていた。一刻も早く、この悪趣味な幻を消し去ってしまいたかったのだ。


***


「青木さん、どうされたんです?こんな時間に、」

 手負いの弱り切った獣がその身を隠して生きるのに適した夜更けに、青木はなまえを酷く恋しく思い、最愛の懐へと潜り込んだ。女は獣を拒みはしなかった。何も知らないのだ。自身の実父を巻き込んだ事件を引き起こしたのも、なまえに並々ならぬ執着を秘めていることも、何も知らないのだ。

「……きみに会いに来たんだ、」
「わ、私に、ですか、」

 室内の拙い明かりに照らされた部屋の暗がりで、獣はぐずぐずに崩れた体で女に触れていく。何も知らぬ女だからこそ、それが与えられると信じていた。相手にしてきた女達は皆、薄汚い欲に塗れており、その体の何処にも真実の愛は無かった。幾度となく確かめれば、その度にそれが見つからぬ現実に心を殺される。からっぽだった。どこを覗いても、探しても、確かめても、みつけられなかったのだ。ならば、彼女達は自身の何に惹かれて、何を求めて、何を考えていたのだろう。
 虚しい。待てど暮らせど、この胸の穴は塞がらない。随分前に大きく傷付けられ、抉り取られてしまったのだ。どうして傷を癒すのに、誰かの許しを乞わなければならない。今にも息絶えてしまいそうなのは、この自分だと言うのに。だが、もうその心配には及ばない。手にしたのだ、ようやく。手に入れたのだ、長らく耐え抜いてきた。乱れた前髪に触れようとしたなまえの指先ごと握り締め、無垢な女の瞳に訴える。やはり、お前こそが探し求めていた最愛だったと。

「聞いてください、青木さん。……父が。父が意識を取り戻したんですよ」
「もしかして、これから病院へ……?」
「そのつもりでしたけど、今の青木さんを放っておくことも出来なくて、」
「……なまえさんはどうしたい、」
「え?」

 青木の予期せぬ問いかけになまえは、顔を曇らせる。続ける筈だった言葉も忘れ、不安を隠すことなく、なまえは口にする。

「一緒に行きませんか。父に伝えたいんです、青木さんが命の恩人だって」

 途端に不安さが掻き消え、頬を染めるなまえの姿に青木は胸の大きく開いた穴が少しずつ元に戻っていくのを感じていた。すると、先程まで怯え切っていたのが嘘だったかのように、心の底から晴れ晴れとした気持ちを抱かされる。忌々しく鼓膜に張り付いて離れなかった女の声は二度と聞こえることはないだろう。返事を待つなまえに、青木は頷いて見せると再び禁足地であるあの男の病室へと向かった。
 だが、病院に到着すると事態は急変しているようだった。まず、青木と接触してすぐにあの男の容態は悪化してしまったらしく、病室には慌ただしい雰囲気と嫌な緊迫感が流れていた。次に、事の重大さを鑑みた医師達は一命を取り留めるべく、手を尽くすことを決めた。そして、最後にあの男は帰らぬ人となってしまった。手を尽くしてくれた医師達も頭を抱え、自身のやり切れなさを責めていた。なまえはショックのあまり、その場に泣き崩れ、幼い子どものように嗚咽を漏らしながら為す術もなく、泣き続けた。

「どうして、こんな、いきなり……。やっと目を覚ましたっていうのに、」

 遂に一人きりになってしまった最愛を、優しく抱き締める。細い体が酷く震えており、青木はなまえの気が済むまで抱き締め続けた。今はこうする他にないからだ。やっと全てが許されたのだ、もう青木の障害となり得るものは何も無い。あとは彼女と共に人生を歩いていくのみだ。なんと呆気ないことか、愛し子の為に生き、愛し子のことを哀れんで命を投げ出すとは。その代償に愛し子は獣の手中に下ると考えもしなかったのだろうか。いや、諦観を滲ませた人間に思慮深さを求めるのは酷だと青木は口元の笑みを隠すことすらせず、密かに歪んだ口元でなまえへ安寧を説いていた。


***


 なまえの実父の訃報から既に数ヶ月が経ち、青木遼とみょうじなまえは籍を入れ、二人での生活を送っていた。なまえも今では青木の姓に変わり、新婚生活の初々しさも徐々に薄れて落ち着いて来たように思う。二人は仲睦まじい夫婦だった。激務の青木を支えるのは、家に入るようになったなまえで、互いが互いを尊重し、大切に家庭を築き上げている。

「遼さん、いつもお疲れ様です」
「ああ、ありがとう。きみも家のことで大変だろうに」
「外のお仕事に比べたら、こんなの」
「私も支えられてばかりじゃなくて、きみを支えたいんだ」

 仕事を終え、早々に帰宅した青木を出迎えたのは良き妻であるなまえだった。青木はこの家庭を築いてからと言うもの、酷く満たされていた。やはり、彼女の中には真実の愛が詰まっており、ようやく自身もそれを手にすることが出来たのだと実感が湧いてくる。

「にしても、きみはあまり不満を口にしてくれないね」
「不満だなんて、そんなものありませんよ」
「私もきみも同じ人間だ。疲れることもあれば、不満の一つくらい零したくなる時もあるだろう?」
「でも、本当にそんなこと、」

 冒頭にて、青木遼は時折、悪夢に魘されることがあると綴ったが、実は日常を侵食しているのはそれだけではない。時に朗らかだった胸の内が陰っていく感覚を味わったことがあるか。それは突然やって来たかと思えば、長いこと留まり、ありもしない幻影で惑わせ、この目を塞ごうとする。なまえはとてもよく出来た女だった。青木に近付いてきた女や、同性である男達よりもよく出来た人間だった。だが、その事実が青木遼を苦しめることがある。
 人は自身に足りぬものを、欠けたものを羨望する生き物だ。たとえ、いかに栄華を極めていようと、自身では到底手に入らないものを知った時、一瞬にしてその栄華は朽ち果て、色を失う。青木にとってはなまえがそうだった。だからこそ、なまえを手に入れることで再び栄華に色を灯そうとしたのだ。しかし、二つの感情が青木の中にある。

「遼さんって、本当に優しい人です。私には勿体ないくらい」

 青木が荒川真斗であった頃には与えられなかった親の愛。確かに注がれてはいたものの、自身が望む形ではなかったその愛を、彼女は彼女の望む形で満遍なく与えられている。渇望の果てに手に入れた愛と初めから与えられていた愛とでは、比べようがない。どちらが重くて、どちらが軽いかなど、比べるまでもないだろう。そして、その愛によって育まれた彼女から覗く片鱗に、親であるあの男の面影を見る。名だたる政治家の中でも最も聡い人間だった男が愛娘に注いできたのは、他を圧倒するほどに清く、美しく、極めてごく普通の、当然めいた唯一無二の愛だ。
 青木遼は本物になれない劣等感とあの男の面影に恐れを抱いている。皮肉にもなまえが素直で、純朴で、優しさの使い方を間違えない度に青木は複雑な心境に胸を掻き乱されるのだ。これが自業自得と言うことなのだろうか。貴重な女の価値を噛み締めれば、いつだって悪夢は場所や時間を問わずに視界にチラついた。時になまえの姿で、時にあの男の姿で。

「なまえ、時々怖くなるんだ」
「どうして、」
「きみを失いたくないという気持ちが日に日に強くなっているんだ」

 そして、なまえを伴侶に迎えてから変わったことがある。それは、

「大丈夫です、私は遼さんの傍に居ますから」

 青木自身が抱く執着の底が無くなってしまったように、なまえへの依存が悪化していた。愛を与えられていたくせに受け入れられなかった男が抱いた劣等感は、遂に自身に回る毒となってしまった。解毒薬を口にしては、恐ろしい悪夢に魘され、女の胸元に溺れる。哀れなことに、なまえもまた青木から与えられるそれを父親と同等の愛だと誤認していた。美しい世界の住人だった彼女が、愛に真偽あるとは知らず、青木の執着をありのままに受け入れた結果が、執着を助長させ、依存へと導いてしまった。

 結果として、青木遼はかけがえのない『最愛』を手にしたが、その代償として『正気』を失ってしまった。徐々に狂気は依存を加速させ、やがて青木遼の中心に彼女を据え置き、なまえもまた青木遼の毒を口移しで与え続けられるだけだ。



| 残るは常闇と君 |


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