丁寧にそれは机の上に置かれていた。閉ざしたままのアタッシュケース、正面には革張りのソファーに腰を落ち着かせている峯、向かい合うように座っているのは、ちらちらと隙を見て峯の表情を見ているなまえ。それだけがこの部屋にある全てだった。居心地は決して良くはなかった、寧ろ緊張や峯から感じる重圧のようなものに潰されてしまいそうなほど、この部屋の空気は重く沈み、なまえにのしかかる。
「これは、一体…、」
「みょうじさん、私はあなたの価値を知らない。」
「価値……?」
「ええ、そうです。きっとこの部屋にあるコレクションのように安くはないと思いますが。」
峯がいる、この白峯会の事務所には飛び抜けて高額なコレクションが多数飾られている。それは壺であったり、オブジェであったり、絵画であったりと彼の感性に合うものが皆礼儀正しく並べられていた。そして先程の会話から察するに、峯の持ち出した天秤にはなまえ一人分の体と、数億円相当の札束が乗せられているようで、なまえ自身としてはコレクションの方が断然、当然の如く、重いのだろうと思っていた。
「なに、そんな身構えなくてもいい。これはただの気持ちだ。」
「気持ちですか…?」
「みょうじさん、あなたの価値を知り得ない私ではこうする他にない。」
たったそれだけですよ、と無表情を崩さない峯の視線は鏡のように表面的なものに思えた。鋭い眼光であるくせに、その鏡は曇っている。人を人として見ていないのか、人として見ることをやめたのか、もう随分とこの手を使い慣れてきたのか。天秤が傾く、重きはどちらへ。なまえと言う成人女性一人分の重量が、それと同等のものがアタッシュケースに詰め込まれていると言うのなら、なまえは一度ケースの中身を覗いてみたいと思った。
恐る恐るケースを自分の手元へ引き寄せ、ロックを外し、沈黙を貫いたまま、中を覗く。想像していたものはそこにあった、帯に包まれて綺麗に収められた札束が威厳のある面持ちでこちらを見つめている。それ以上は見つめられないとなまえは早々にケースを閉ざし、元あったようにロックをかけ、手を離す。
「まるで、おぞましいものでも見たような顔だ。」
何か恐ろしいものでも見つけましたか、と冷淡に問い掛ける。愉しそうでもつまらなそうでもない無表情はなまえの返事を待っている。
「…はい、」
「それは申し訳ない。だが、あなたには私の気持ちを無下にして欲しくない。」
一度出したものを引っ込めるなんて真似、あなたの前じゃしたくないんですよ。と、そこでようやく口元を歪めた峯の言葉も相まって恐ろしさに拍車がかかる。試されている、釘を刺し、思考や選択の幅を狭められ、自由を少しずつ切り取られていく。許されているようで何も許されてはいない、選ぼうとしているようで本当は選ばされているのだ。小難しい駆け引きで満たされた部屋は、なまえにとって不利な状況を生み出す罠のような空間だった。
「それで、どうなんです。みょうじさん、あなたはこれを受け取ってくれるんですか。」
天秤がぐらぐらと揺れる。もうどちらが重くて、どちらが軽いかなんてどうでもいい。答えを急かすような発言も、なまえの弱った心に爪を立てる。
「あの、…わたし、」
そこまで言いかけて言葉が出て来なくなった。恐ろしさに喉が潰れてしまい、なまえは上手に視線を定められない揺れる瞳で峯を見ながら、首を横に振った。喉が潰れ、話す事の出来ない女に返ってきたのは、そうか、という淡白な声だった。取り乱さず、怒りなんて感情も微塵も感じさせず、峯はその場を立つ。そして、何を思ったのか峯はなまえの正面、テーブルの端に腰掛けた。見下す視線は未だ鏡、何かを吟味しているように、瞳はなまえをゆっくりとなぞっている。
「怯えていますね、あなたの瞳はとても正直だ。」
厚みのある唇が寄り添い、労りの言葉をなまえに投げ掛けているのに、どうしてか温かみを感じることが出来ない。ぐっと前のめりになり、なまえとの距離を分かりやすく、明らかに詰めて見せる。
「そんな顔、して欲しかったんじゃないんですがね、」
自然な動作で峯はなまえの頬に手の甲を寄せた。手のひらや指の腹とは違い、骨張っているそれが何度もなまえの頬を撫でる度、なまえは妙な感覚に陥った。今までの会話や態度からは決して察することの出来なかった、何かを感じている。表情の変化は見られない、しかし、今こうしてなまえの頬を撫でる峯は無表情ばかりの男では無いのだと知り、徐々に緊張がほつれていく。
「分かっています。あなたが金じゃ動かない人だってことは。」
分かっていたつもりだったんですが、と伸ばした腕を戻す。そして、峯の膝元で両手は組まれ、黒い睫毛は下を向いている。
「それでも俺の周りは皆、俺の持っているものに惹かれてやって来るんですよ。俺がどんな人間であるかなんて、どうでもいいと言うように。」
「俺が持っているのは金だけです。でも、もしそれでみょうじさん、あなたがここに居てくれるなら、どんなに高額になろうとも、俺はあなたの目の前に持てうる限りの札束を積むつもりです。」
俯きがちの瞳が再びなまえへと向けられる。眉間に寄った深い皺も、寡黙に結ばれた唇も、鏡のように相手を映す瞳も、頬に優しく触れた指先も。何もかもが寂しそうに見えた、漠然としていて、直感的なものではあったが、峯の素顔を覗き見た瞬間でもあった。胸には大きな穴が空いているのだろう、峯自身が言い放った言葉の節々から色褪せた感情の欠片を手にした。
「…気持ちだけ、いただくことは出来ませんか、」
偏っていた天秤がゆっくりと大きく傾き始める。重きは一体どちらへ。
「私は、その、…峯さんのお気持ちだけで充分です。」
「まるで定型文のような返事ですね、」
「あ…、でも決して悪い意味じゃなくて、」
「それじゃあ、ご説明いただけますか。」
みょうじさんの言葉の意味を、と委ねられた峯の声に、なまえは頷き、胸に抱えているものをゆっくり、誤解を招かぬように丁寧に並べて行った。否定的な意味で気持ちだけで充分だと言った訳では無いこと、峯から必要に思われていることが嬉しいと言うこと、峯が持つ物は金だけでは無いこと、それからあといくつか。途中で言葉足らずになってしまったり、良い表現が思い浮かばなかったり、となまえはしどろもどろでその旨を伝えることに懸命になっていた。
なまえの話を聞き終えた後の峯は、眉間を緩めてなまえを見ていた。理解し、納得し、なまえの思いを汲み取った峯は、一つ大きな溜息を吐いた。もしかしたら、ただの一息かもしれない。
「…必死になる事でもないでしょうに、」
「で、でも、…誤解して欲しくなくて、」
「最初はあんなに怯えていたのに、今じゃすっかり親しい顔をしている。」
「御迷惑でしたか…?」
「いえ、それが良い。あなたは無条件に人をその懐へ入らせてくれる。…例え、俺でも。」
「…峯さんはとても素敵な方です。ですから、初め仰っていたお気持ちをありがたくいただきたいと思います。」
「好きにしてください。…全くおかしな人だ。」
酷く偏っている天秤に遂に重きが定められた。札束でしか埋めることの出来なかった皿より、圧倒的な重みを持っていたのは、とある成人女性一人分の重りが乗せられた皿。
「みょうじさん、あなたを手に入れるにはどうすればいい。」
驚きはほんの数秒後、なまえは峯の発言に目を丸くしている。峯はなまえの返事を待ち、沈黙を選んでいる。なまえが数分かけて絞り出した返事は意外なものだった、それは峯が彼女の返事に口元を微かに歪めてしまうほど。
「えっと、その、良ければ、まずはお友達から始めませんか…?」
「それはつまり、行き着く先を見据えて言っていると解釈しても?」
「…そ、それは、」
今度は代わりになまえが俯き、睫毛の行き先を決め付けていた。俯く隙間から峯を見れば、こちらへ雰囲気の変わった視線が向けられ、不意にそれが重なる。鏡のように表面的な瞳は既に無く、ちょっとした野心が垣間見えるその瞳になまえは一時だけ機能不全に陥る。悩み抜く思考や素直な感情、体の微々たる運動も何もかも、その時だけは忘れ去られ、存在しなかった。単純に見惚れていた、だからこそ、再度距離を詰めてくる峯の企みに気付けない。
腕を取られ、肌と肌が重なる。吐息が手のひらに触れ、なまえと目を逸らすことなく、峯はふっくらとしたそこへ唇を寄せた。ほんの数秒で唇は離れたものの、未だなまえの手はしっかりと握られている。
「俺は友人なんて関係で満足するような男じゃないですよ。覚えておいた方がいい、あなたの為にも。」
なまえは次にどんな行動を取るべきか、分からなかった。まともに動かない頭で頷けば良いのか、このまま峯の手を握り返せば良いのか、それとも覚悟を決めて『はい』と答えれば良いのか。ぐるぐると回り出す選択肢の中に否定的なものは何一つ無い。それに気付けないのは、なまえがまだ機能不全に陥っているからである。
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