互いに心乱されるほど思いを寄せる
女の子と真島吾朗 女はまるで肌が爛れていくような心地だった。真っ赤な炎に肌を少しずつ焼かれ、酷く膿み、傷口ばかりが増えていく。いつからだろうか、有り得ない程に執着した思いを抱くようになったのは。少し前の自身がとても恋しい。あの日々に満足していた女は確かに美しかった。だが、たった一人に抱く純愛はいつまでも美しく綺麗では居られなかった。叶わぬ望み、与えられぬ喜び、歯止めの効かなくなった恋慕、薬指に括っていた赤い糸でこの首をきつく絞め上げる。鱗のようにひび割れ、毒づいた心を隠しては理性という名の血清を流し込んで事なきを得る。
「あまり思い詰めない方がいい」
まともな言葉が理性を強くする。首を絞め続ける赤い糸の結び目が微かに綻び、数グラム程度しかない空気を肺に取り込む。中道通りの喫茶アルプスに二人の姿はあった。あまり思い詰めるなと助言してくれた男は桐生一馬と言う男で、桐生の言葉に救われていたのがみょうじなまえと言う女である。なまえにとって桐生は自身の失くした良心であると考えていた。だからこそ、桐生の言葉は神聖であり、救済であり、なまえ自身の理性そのものだった。
「ごめんなさい、いつも桐生さんに迷惑をかけてしまって」
「気にするな。こんな話、俺にしか出来ないだろう?」
「……ええ。こんな話、桐生さん以外には話せる内容じゃあありませんから」
「真島の兄さんは読めねえ人だ。長年、同じ組織にいた俺でさえ、未だに分からねえ」
先述の会話の通り、なまえと桐生がアルプスで対面して話をするのは今回が初めてではなかった。ただ、最近になってその頻度は増えつつある。桐生はなまえの口から明かされる胸の内を耳にする度、背筋が凍る思いをしていた。まさか、自身を通じて二人の人間が正気を失ってしまったなどと、認め難い事実を知ってしまったのだから。そして、二人が正気を失うきっかけを作り出したのは、紛れもなく自分自身である。桐生一馬はみょうじなまえと真島吾朗を引き合わせた張本人で、一種の責任を感じていた。
なまえとは刑務所を出所して間もない頃に街で出会った。服役中の肉体の衰えを嘆く真島に頻繁に付き纏われていた桐生を上手いこと逃がしてやったり、匿っていたのがなまえだった。しかし、桐生が全盛期と寸分違わない実力を取り戻してから大人しくなった真島に友人として紹介したのが、全ての始まりである。真島吾朗が読めぬ相手だと口にしたのは、真島がなまえを気に入ってしまったが故に。なまえも初めは無差別に桐生に襲い掛かる過激なヤクザだと警戒していたものの、日が経つにつれて真島の人柄に惹かれるようになったのだと言う。
「分かってます、相手は一般の方じゃありません。きっと未来を描くことも現実的ではないって」
「極道だって身を固めることはある。それでも、カタギにとっちゃ、簡単に決められることじゃない」
「だから、……だから、私は友人のままで良いって思ってたのに、」
どうして、こうなっちゃったかなあ……。と幾度となく泣き濡れた夜があると明かされた時の胸の詰まりようを言葉には出来ず。自身の思いを明かそうにも、そうしてしまえば、二度と今のような居心地の良い関係には戻れないことを恐れていると知った時の憤りを呑み込み続ける。なまえが囚われているのは、理想と現実のギャップだった。誰にも強いられてはいない未来に進むのに怯え、自身の支えを見失った挙げ句に盲目的な恋慕に視界を塞がれてしまった。
知らず知らずの内に毒牙に胸を刺し貫かれていたのだろう。夜な夜な見悶えるほどの痛みに疼く胸を人知れず隠し続けている。出口のないトンネル、終わりのない悪夢、先の見えない道、底に届かぬ水面。果てることのない執着が着実になまえを蝕んでいく。桐生は止める術を持ち合わせていなかった。病めるなまえの相談に付き合っているのは、桐生なりの贖罪だった。かの女はかつて蛇に唆され、楽園を追放されたと言う。これはその再来なのかもしれないと思えば、未だに何も知らぬ目の前の女を憐れむことしか出来なかった。
***
あれから食事を共にした二人は薄暗くなり始めた大通りに出て、それぞれの帰路に着く寸前だった。なまえも幾らかは顔色の良くなった様子で、桐生は彼女を補修することに成功したのだ。相談事を終えたなまえはいつもの状態に戻ることがある。あまりにも一時的だが、桐生はその姿を目にするだけで内心救われる思いだった。しかし、綺麗に別れられる寸前の所で気紛れに姿を現した男がいる。
「お、桐生ちゃんやないかァ」
「……兄さん、」
「なまえちゃんもおまけで付いとるっちゅうことは、」
「いや、ただ一緒に飯を食ってただけだ」
「ほぉん、ホンマかいな?……そうなんか、なまえちゃん」
「えっと、はい、そうです。私が桐生さんに相談したいことがあって、それで」
元通りだったなまえの声音が弱々しくなっていく。折角、綺麗に塞いで埋めた彼女の心が再び鱗状にひび割れ、なまえは物言えぬ人形に成り果てる。気紛れで桐生となまえの前に現れた真島は、なまえとの食事を口実に桐生へ喧嘩を売っていた。カタギのなまえちゃんに手ェ出すんはご法度や。と啖呵を切るも、桐生は今はそう言う気分ではないと一蹴され、真島は途端につまらなそうな顔でなまえの肩を抱いた。
「……ホンマに桐生ちゃんは融通が効かへんなァ。なァ?なまえちゃんもそう思うやろ」
「私は二人が喧嘩するところなんて、見たくありません」
「桐生ちゃんの心配か?それとも、」
「二人ともですよ。桐生さんも、真島さんも私の大切な友人なんですから」
「……友人、なァ」
なまえの言葉に黙り込んだ真島は何を考えていたのだろうか。元々の風貌が恐ろしい相手だが、この時の真島はあの桐生でさえも冷や汗をかくほどに恐ろしい雰囲気を纏った男だった。しかし、なまえはそれに気付いていなかった。ただ意中の男が自由気ままに、身勝手に自身の肩を抱いているとしか思っていない。そうだ、桐生一馬をきっかけに正気を失ったのはみょうじなまえだけではない。もう一人、同様の症状を発症した人間がいた。その相手こそが ────、
「兄さん、これから丁度帰るつもりだった。俺も、みょうじも」
「ほんなら、こないな所で足止めしたら、なまえちゃんに悪いわ」
「……真島さん、」
「あァ?」
「私はお先に失礼しますね。少しですけど、お話出来て嬉しかったです」
桐生さんも、今日はありがとうございました。と最後に付け加えたなまえは至って普通の様子で中道通りの人混みに紛れて消えて行った。その場に取り残されたのは騒々しい静寂、そして、一匹の龍と狂犬だった。既になまえの後ろ姿など見えない筈なのに、延々と人混みを刺し殺すような眼差しで見つめているのは、彼女の恋い慕う真島吾朗という名の狂犬、一匹だけだ。
「ええなァ、桐生ちゃんは」
「……兄さん、」
「俺の気ィも知らんとホンマに幸せなやっちゃ、」
一体、誰に向けての独白だったのだろうか。自身が如何になまえに肩入れしているかを知っているくせに、友人面をしてなまえの相談に乗っている桐生に対してだろうか。それとも、たかが肩を抱いただけで初々しい反応を見せてくれる無知ななまえに対してだろうか。真島の中に明確な答えなどない。あるのは、真っ黒に塗り潰された執着の塊だけだ。真島吾朗の胸には計り知れないほどのどす黒い執着が渦巻いていた。
初めは桐生一馬を庇う物好きな女と言う認識だった。しかし、日々なまえと接していく中で、手を尽くして桐生を庇う姿に胸の奥が嫌な疼き方をしたのだ。ただの擦り傷がやがて裂傷へと悪化していく。ぐずぐずに膿んだ傷口から垂れ流したままの膿を拭って欲しい。彼女の柔らかでいて、しなやかな指先で。優しく絡めとって、掬いとって、悪くなった傷口を塞いで欲しい。ただそれだけだった。
──── いや、決してそうではない。
真島の本心はその域を超え、水底の翳りのように果てしなく広がる尽きぬ欲望に犯されていた。無垢な女を唆し、美しきこの園に居られなくしてやりたいほどに蛇は渇望していた。自身の持つ恐ろしい毒を飲ませてやり、身も心も全て奪ってやりたかった。生きる理由と死せる理由の全てが自身と女であることを説き、満ち満ちた心を手に入れるのだ。全てが満たされた時、その時初めて邪な蛇は人となり得るのだろう。
行き過ぎた嫉妬は女の体に絡み付き、度を越した独占欲は女の子宮に牙を突き立てる。だが、真島はなまえを穢すことを望んではいなかった。人としての理性がいつだって真島を踏み止まらせた。そう、全ては真島吾朗という男が腹に隠し持った、目も当てられぬほどに悲惨な欲望だ。時折、夢を見る。それは無垢な女を力の限りに捩じ伏せ、組み敷き、己が毒牙に掛けている瞬間を。そして、最悪なことに夢の中の女はその瞬間を待ち望んでいるように見えるのだ。
「碌な死に方せぇへんやろなァ」
誰ともなく呟いた真島は振り返ると、口の端を持ち上げて笑ったかと思えば、穏やかな顔で桐生の傍を通り過ぎて、なまえ同様に人混みに紛れて姿を消した。最後の一人となった桐生がその場を離れたのは、なまえが去り、真島が去ってからだった。内心、生きた心地がしないのは、あの二人が徐々に良からぬ方向へと向かってしまっているからだ。なまえは夜を泣き明かすほどに真島と言う男を偏向的に慕っており、真島もまたなまえと言う女に並々ならぬ執着を見せている。
碌な死に方をしないと口にした真島の言葉が、二人の行く末でないことを祈る。なまえの塞がれた視界が真島によって、より深い闇へ沈んでしまわぬことを祈る。互いの心の在り処を突き止めた二人が、この世界から離れる理由を見つけてしまわぬことを祈る。桐生一馬はみょうじなまえと真島吾朗の歪んだ愛を知る、たった一人の人間だ。しかし、当の本人達は、互いを自身の抱える酷く湾曲した愛の犠牲にしてはならないと、日々口を噤んで生きている。だが、その日は確実に近付いて来ているのだろう。歪んだ愛の結末など想像するまでもないが、失楽園の時は近い。
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