真島吾朗に片想いする 本心を包み隠さずに明かすならば、心から羨ましいと思った。今にも泣き出してしまいたいくらいに、胸は引き裂かれそうな悲しみでいっぱいだった。女は神室町で出会った男を人知れずに愛してしまった。さながら、それは不慮の事故で、変哲のない女が愛した男は極道という裏社会に生きる相手だった。他と一線を画す男へ女が抱いたのは苦労の見える男への献身で、日常のふとした時には惜しみなくそれを与え、その時ばかりは確かな手応えに満たされる。だが、女は男の胸の中に別の相手を見た。今まで大阪の蒼天堀を拠点としていた男は何気なく語ってくれた。大阪で起きた事の全貌を。当時、身を挺してまで守り抜かなければならなかった大切を。過ぎたことだと口にするものの、言葉の節々や視線、昔を懐かしむ表情の柔和さは全て、彼女に向けられたものだと知る。
男の話にある彼女は不遇に遭い、いつまでも晴れぬ闇に人生の光を奪われていた。飼い殺しの野良犬だった男が彼女に出会い、健気に生きる様を真隣で見つめ続けたのならば、思いを寄せるのは至極当然のことだと思えた。それ程までに真っ直ぐ想われることの一途さが酷く残酷に感じられた。思えど、結ばぬ潔さを男は成し遂げたのだ。誰にも他者が触れてはならない聖域がある。男にとっては彼女がそうなのだろう。自身の浅ましさに反吐が出た。いつから献身を報われるものだと思い込んでいたのだろうか。既に男が成し遂げた潔さの欠片すら持ち合わせていなかったくせに。確信する、そこに横たわる報われぬ恋の亡き骸を見た。決意する、何故、男の傍に居たいと思ったのかを思い出した。
「どないした、なまえちゃん」
恋焦がれる男の、真島の声が遠くにあった意識を呼び戻す。誰にも言えぬ独白と過去を羨ましげに覗いていたことを隠すように、少し考え事をしてました。と女は、なまえは上手くやり過ごした。大阪での過去が真島を別人へと変えたのだが、なまえは真島が神室町に戻って来てから出会った女だった。見た目の奇抜さに臆することなく接してみれば、人柄の良さが垣間見える真島に対して、なまえが好意を寄せるのに時間は掛からなかった。
「たまに考え込んじゃうこと、ありませんか」
「まァな、」
「心配してくれてありがとうございます」
「ええ、ええ。普段からなまえちゃんには世話になっとる、こんなもん大したことやない」
真島の暮らす質素なアパートになまえは度々訪れ、荒れた生活を支えていた。一方的な通い妻状態を真島は咎めず、寧ろ助かっていると感謝すらしている現状で、未だに二人は恋愛関係ではなかった。ただの気の良い友人か、それともただの隣人か。真島がなまえのことをどう思っているのかは定かでは無いが、なまえはなれることならそうなってしまいたいと思う時期があった。しかし、冒頭にある通り、なまえは真島吾朗に対して自身の欲を出すことをしなかった。求めれば与えられたかもしれない、だが、その場凌ぎで傷を癒したところで、また別に傷を負うだけだ。
「残りは冷蔵庫に入れておきますから、お腹が減ったら温めて食べて下さいね」
なまえは今日の為に作り置きの料理を真島の元へ持って来ていた。なまえは真島の支えとなるべく献身を裂いているが、決して重荷にならないようにと自身の行動についても配慮を欠かさなかった。誤った判断をしてしまわぬようにと、一種の戒めの如く私心を見せず、ただ真島の助けになる。真島からしても、神室町で生きる極道としてなまえの助けにはかなり助けられてきた。しかし、どれほどなまえが献身さに配慮をした所で、真島のなまえへの感謝は尽きない。
極道と呼ばれる街の厄介者である男を、私利私欲を見せずに助ける女。何度もその腹を探ろうとしたが、いつも探った先にあるのは心根の優しく清らかな理由だけだった。健気さを我儘と呼び、迷惑ならばいつでも身を引くと言い切る潔さに、真島はカタギの人間の偉大さに触れた気がした。いつ、全てが誰かの描いた絵に変貌してしまうか分からない世界で生きる極道からすれば、無害で清らかな献身など手に入れることは困難であると知っていたからだ。
「なまえちゃん、何かあったらすぐに俺に言えや」
「何かあったらって?」
「そやな、……例えば欲しいもんとか、」
「ふふ。ないですよ、そんなの」
狭い台所に置かれた冷蔵庫に、なまえは自身が持ち込んだ料理の詰まった保存容器をしまっている。長い髪が邪魔だからと適当に結って解れた首元、男とは違う華奢な骨格、そう高くもない身長、そのどれもが真島を懐かしい気持ちへ駆り立てる。胸の奥に留まり続ける心地よく小さい熱。隣にいることが当然であると許されたい心情。みっともなく焦がれた声で名を呼ぶ幻想。初めは、物好きの良い子としか見ていなかった。何故なら、真島の胸にはマキムラマコト、彼女への気持ちがあったからだ。彼女の未来を思い、考え、願い、彼へ委ねることを選んだが、密かに隠し持った思いは今でも尚、風化していない。だが、なまえと共に過ごして変わりつつある心もある。
真島はその場を立つと、手狭な台所にいるなまえの傍へと身を屈める。なまえは手にした保存容器を冷蔵庫の中に綺麗に並べており、その隣に居座った真島は覗き込むようになまえとの距離を縮めていく。真島の存在に気付いたのか、なまえは何の気なしに近くなった距離感のまま目線を合わせた。薄く引かれた口紅の淡い桃色、薄づきの控えめなファンデーション、色味の強い褐色の瞳に言葉を失う。綺麗な女だった、真島が思っているより何倍も美しい女だったのだ。理性が揺らぐほどに透明な女に男は一つの感情が芽生える。
「近いですよ、真島さん」
「……あ、いや、すまん、」
「ちゃんと好きなものも作ってきましたから」
そんなに待ち切れませんか?と可憐に微笑むなまえに、真島はぐらついた理性を強固にする。先程まで健気な献身を前に、怠惰な欲が芽生えていた。だが、なまえの微笑む姿を見てしまっては容易に手を出してはならないと知る。利己的な理由で可憐な花を摘んではならないように、極道である真島がカタギであるなまえに心を預けてはならないのだ。たった今、臆病に高鳴っている心臓は必ず宥めると決め、真島はいつものひょうきんさを気取る。
「なんぼ食っても足らんくらいやからな、」
「いつもたくさん作って持って来てるのに、すぐに無くなっちゃいますもんね」
「せや。ええ嫁さんになるで、なまえちゃんは」
「何で、そんなに褒めてくれるんだろう?」
「な、何にもあらへんで、ホンマに」
「変な真島さん」
なまえは容器を全て片付けると、しなやかな動作でその場を立つ。その傍ら、居間へと戻ろうと踵を返したなまえを目で追っているのは真島で、離れていくなまえの手を真島は咄嗟に握り締めた。真島の取った行動が予想外だったのか、立ち止まっては驚いた顔で振り返る。
「ど、どうかしましたか、」
「なまえちゃん、……俺、」
宥め切れなかった心臓が鼓動する。うるさいくらいに鳴り止まない。このまま雪崩込んでしまえば良かったのかもしれない。
「ほら、ぼーっとするくらい体が疲れてるんです。もう休んでください」
なまえの自身を気遣う言葉に、真島はようやく平静を取り戻す。結ばれた手を解くつもりはなかったが、私ももう少ししたら帰りますから。と告げられ、握り締めた華奢な手を放す。
「せやな、最近は何かと忙しかったからな」
「真島さんは最近、大阪から東京に来たんです。休める時に休まないと」
「……ああ、すまん」
告げられなかったのは、青臭い言葉。見つめ合ったあの刹那、真島の胸はなまえをただの友人と思えなくなってしまった。彼女へ抱いた感情と同じものを感じていながら、あまりにも普段通りに振る舞うなまえを前にして、それ以上が言えなかったのだ。ひたむきな献身を額面通りに受け取ることは、なまえの何かを疎かにしているようで。しかし、向けられた献身を一時の感情で愛情にすげ替えることは、なまえの心に土足で踏み入るのと同じようで。だが、あまり馬鹿げた感情を抱くべきでは無いのは確かだ。
この場で納得の行く答えを出せない真島は、帰り支度を始めたなまえに送ると申し出て、自身も遅れて身支度を始めるのだった。
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