不思議と眠れない夜、何かが少し足りない夜。布団に入る気にもなれず、なまえは冷蔵庫の寒色の光の中へ手を伸ばす。手頃なペットボトル、中身は水、曲線の影が静かに揺れる。キャップを外し、口内へ無色透明の冷ややかさも曲線の影も流し込む。微かに潤った喉に一息吐いた所で、携帯の振動が聞こえた。静寂の部屋では振動さえも音となり、耳へ届く。着信、携帯に登録された名前を見てすぐにその電話を取った。

 画面から聞こえてきたのは、彼の声。今から会えねぇか、と真っ直ぐな問い掛けだった。いいよ、と返事をすれば、ベランダの方来いよ、と誘われ、その言葉通りにベランダ、窓際へと駆け寄る。カーテンを掻き分け、施錠されていた窓を開ければ、一階道路に面した道端に彼の姿があった。今の自分と同じように耳に携帯を当てながら、こちらを見つめて手を振っている。その姿のおかげで明るくなった表情のまま、画面越しに今行くね、と続けた。眠れない夜、時間なんて気にせずになまえは彼の待つ外へと飛び出して行った。


「どうせ寝れなかったんだろ、」
「どうしてわかったの、」
「俺もどうしてか寝れなくてよ。ぼーっとしてんのも退屈だからなまえに電話したんだよ、」

 開口一番、彼は、力也はそう口にしては、電話して正解だったな、と勝気な笑顔を見せた。紺の青ざめた影に染まっていても、彼の暖かさを感じる。

「なんか、嬉しい、」
「おう、そりゃあよかったな、」
「わたし、多分、力也に会いたかった。」

 力也は勝気な笑顔から驚きの表情へと変える。やめろよ、小っ恥ずかしい、とがら空きの手のひらで何かを払う仕草をする力也になまえは、そうだね、と頷いた。


「で、こんな夜に誘ってくれたわけだけど、予定はあるの?」
「ああ?そんなもんねぇよ、」
「じゃあ、ぶらぶらしよっか、」
「最初からそのつもりだっつうの、」

 どちらかが、と言う訳ではなく、自然と二人の手はお互いの手のひらに触れた。夜に包まれた道は二人を悪戯に冷やかさず、ただ見守るようにそこにあるだけだった。ざくざくと砂利を踏む音、二人の衣服が擦れる音、内緒話のようにいつもより小さな声で充分な程、静かな夜道を歩いていく。どの家の明かりも既に消灯されていて、屋根も壁も地面さえも夜闇に染まる。黒に似た深い青の影が道に伸び、見慣れた風景はどこも同系色でまとめられていた。闇の中では薄い青に濃い青が重なり、深く沈む。しかし、ぽつんと置き去りにされた自販機の近くでは、薄い青に明るい青が重なり、淡く白ける。


「ねぇ、」

 青い風景画の中でなまえがぽつりと呟く。

「コンビニ行ってさ、アイスとお酒買おうよ。」
「…なんだよ、急に。て言うかいいのかぁ?女の子はそう言うの太るって気にするもんだろ、」
「口が何となく寂しいから、」

「じゃあ、チューしてやろうか、」

 あまり大袈裟に驚きはしなかった。ただ自然と目を丸くして、力也の方を見つめ、繋いだ手のひらが密かに汗ばんでいく。隣の顔は酷く余裕そうで、こちらの出方を窺っているようだ。緊張しているのは自分だけなのだろう、と思うと悔しくて、その場で足を止め、体ごと彼へと向けて軽く背伸びをした。
 彼は有言実行出来なかった、不言実行したのはなまえだった。重なる藍色の狭間で微かに笑みが零れ、なまえはその場で固まる力也を置いて駆け出した。えっ、あ…、待てって!となまえより数秒遅れて力也も駆け出す。きっとすぐに追い付かれてしまう、青白い唇の重なる感触が消えるまで、この腕を掴まれるまでなまえは走り続けていた。



 それからなまえの思った通り、あっという間に力也に追い付かれ、腕を取られた後は近くにあるコンビニへとやって来ていた。買い物を済ませた二人は、がさがさと膨らむ袋の擦れる音を連れて、なまえは再び力也の手を握りながら自動ドアを抜けた。お目当てのものを一つずつ詰め込んだ袋はそれなりに軽く、行先の無い散歩は続く。

「次、どこ行こう、」
「折角色々買ったんだ、どこか寄っていこうぜ、」
「じゃあ、海がいい。海に行きたい。」
「海っつったら…、ここからだとあそこが近いな、」

 連れてって、と繋いだ手をやんわりと握り締めれば、なまえだって知ってんだろ、となまえより強く手を握り返された。このまま手を引かれてどこかへ連れて行って欲しい気分だった。例え自分がよく知っている場所であっても、こうして手のひらの体温を分け合いながら、長すぎる夜の中を歩いていたい。明かりさえもまばらな道の先にあるのは、夜の海辺。

 砂浜が見えるまで二人は少しずつ言葉を交わす。沈黙が訪れる時もあったが、手のひらに伝わる温かさが間を繋いだ。ちらりと見た夜空は、姿の見えない月の代わりにささやかな星が小さく輝き、いい夜だと思った。コンビニで買った安酒とありふれた味のアイス、誰もいない道を眠れないからと言って飛び出した二人が海へと向かっている。待ち切れなくてなまえは先にアイスを齧った、力也も同じように袋からアイスを取り出すと一口齧った。


「夜の散歩っていいね、」
「賑わってる昼の時間も好きだけどよ、こういうのもたまにはいいよな。」
「また眠れない夜が来たら誘ってくれる?」
「別にそんなんじゃなくても、いつでも誘ってやるよ、」

 本当?と聞き返せば、力也は得意げにこう返した。

「会うのに理由なんかいらねぇだろ。俺が会いたいと思ったから、誘ったんだ。だから、なまえも会いたくなったら電話でもなんでもしてこい。」


 必ず顔見せに行ってやる、と繊細な夜の風景には似合わないくらいに強い言葉を放った。口元に添えたアイスの存在を忘れ、まともに二口目を食べられないまま、その言葉を胸の奥深くに落とし込んでいく。なまえとは対照的にガリガリと次を食べ進めていく力也は、不思議そうな顔でこちらを見ている。なまえはその視線があまりにも真っ直ぐだからと急いで視線を逸らした。

 濃紺の肌では色付く頬の赤みも分からない、顔ごと逸らしたなまえの感情も見えない。力也は顔を逸らすなまえにどうしたんだと声を掛けたが、なまえはただなんでもないと返した。力強い言葉に酔ってしまったらしく、なまえは視線を外へ泳がせてから忘れていたアイスの二口目を齧った。小さな一口分の冷たさが喉を通っていく、しかしそれだけでは胸の奥にある滲む熱を拭う事は出来ない。
 二人は互いが知らぬ何かを抱えて、徐々にその顔を覗かせる海を見つめ、目的地である青白い砂浜までの道をゆっくりなぞるのだった。



 柔らかな砂を踏みしめて、足の皮膚を、指の隙間を通り過ぎる波を感じていた。靴は砂浜に脱ぎ捨て、押し寄せる波と戯れる。不意に外した視線の先には黒々とした海があった。辺り一面は漆黒、しかし、その中でも微かな輝きを放つ光を見つけ、注視する。その光景に自然と目を奪われ、夜空が沈む海の水面は風に揺れ、何度も星の海を滲ませた。
 星が深く息衝く水面にはなまえと力也以外は誰もいない。それがとても特別な事のように感じられて、けれどどこか寂しくもあって、複雑化していく感情に溺れる前になまえは力也の傍へと戻って行った。

「もういいのか?来たかったんだろ?」
「なんか勿体なくて、」
「はあ?なんだよ、それ、」
「とても綺麗な海だから、見ていたくて、」

 よくわかんねぇけど、と力也は自分の元へ戻ってきたなまえの手を取り、砂浜へと歩き出す。

「俺は好きだけどなぁ、なまえが嬉しそうに海に入ってるのが。」

 その言葉に強く引き寄せられる。

「すげぇよく似合うんだよ、この景色になまえの姿が。」

 なまえの体は自然と動いていた。力也の胸に飛び込むように身を寄せ、背中に腕を回し、柔らかに抱き締める。しかし、想定外という事もあり、力也はなまえを受け止め切れず、今夜きりの小さな星の海に倒れた。大きな飛沫を上げながら、浅い底に尻餅を着いた力也の懐にはなまえの姿があった。どちらも海水に濡れ、服は肌にべったりと張り付いている。

「はしゃぎすぎだ…!服がびしょ濡れじゃねぇか…!」

 あーあ…、と自分の濡れた姿を見た力也は深いため息を吐いた。なまえはそんな力也の事はお構い無しに、更にぎゅっと回した腕に力を込めた。

「ったく、なまえも濡れちまって…。こんな格好じゃ、どこも行けねぇよ。」

 困った顔で自分やなまえに視線を飛ばし続けている力也に、なまえは帰りたくないと告げた。馬鹿なこと言ってんじゃねぇ、と軽くあしらわれてしまったが、なまえは次の瞬間、下から覗き込むようにして二度目の藍色の狭間を見た。もう悪戯に駆け出す事はなく、なまえはずっと許された時間の中で唇を重ねている。すると、なまえの背中や後頭部に腕が回され、より深く、より密に、藍色に塗り潰された。
 狭間を抜けた後の二人はじっとりとした視線でお互いを見た。二人の瞳にもいつの間にか星が宿っていたようで、共鳴するように瞳は揺れ、微かに輝く。


「…なまえ、お前帰りたくないって言ったよな、」
「うん、」
「それ、ちゃんと意味分かって言ってんのか、」
「…うん、」
「明日に響くかもしれねぇんだぞ、」

 本当にいいんだな?と切迫して、余裕のない声が降ってきた。なまえは顔を上げ、降ってきた声を受け止めると、再び狭間へ近付いて行く。だが、それを許さないと言うように、今度は狭間の方からなまえへ近付いて来た。触れ合う感触、理解は遅れてやって来るものの、唇は思いの外すぐに離れる。
 呆気ないキスだった。夜空の彼方で名も知れぬ星が落ちるのと同じくらいに呆気なく、たった一瞬にしか残らない、そんなキスだった。

「そんな顔するんじゃねぇ、風邪引かねぇ内に行こうぜ。」
「…どこに?」

 キスの余韻に浸ることの無いなまえは首を傾げる。

「帰りたくないっつったのはなまえだろ、」

 だったら、帰る家は一つしかねぇだろうが、とぶっきらぼうに言い放つ。相変わらず、余裕のない声のままだ。自分より先に立ち上がった力也は水辺に座り込むなまえの手を引き、その場に立たせる。

「着替えくらい持ってくりゃあよかったなぁ、」
「じゃあ、一回戻る?」
「でも、そのままの格好って訳にもいかねぇしな、」

 いいや、俺が後で着替え取ってきてやるよ、とずぶ濡れの足跡を砂浜に残して、二人は次の目的地へと歩き始めた。二人を手放した星の海は微かな煌めきを秘めたまま、夜明けを待つ。



***



 新しいシャツに着替えた力也は一人で、なまえを迎えに行った道を歩いていた。なまえを家に置き、力也は真っ先に着替えを済ませて、彼女の着替えを取りに今に至る。家にあるタオルで体を拭いておくように、と言い付けてきたが、少しだけ不安だった。時間も遅い、なまえがそのまま寝落ちてしまっていないかと考えると自然と足は駆け出して行く。その手にはなまえから預かった家の鍵が握られており、力也は不安が現実になってしまう前に、なまえの住むアパートへと急いだ。

 預かってきた鍵で家の扉を開ける。静まり返る玄関で靴を脱ぎ捨て、そそくさとお目当ての着替えを探す。脱衣所かクローゼットか、と考えた所で一つ気付くことがあった。


「そういや、なまえの着替えを取りに行くとは言ったが…。もしかして、俺がアイツの服装を決めるのか…?」

 それは、つまり、と想像を発展させていくと、また一つ気付くことがあった。

「……アイツ、全部濡れちまってたよなぁ、」

 どきり、と心臓が高鳴る。この部屋の中でクローゼットを探すのはそう難しくない。深い溜息を吐き、悩ましいとも、ちょっぴり嬉しいともとれるような表情で、なまえの着替えを調達するのであった。



| グラデーション・ブルー |


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