『恐怖に錯覚せよ』の続編 味がしない食事をしたのは、後にも先にも今回が初めてだった。得体の知れない不味い店に連れ込まれた訳では無い、寧ろその逆である。普段ならば敷居を跨ぐことすら憚られる、格式高い場所へと連れて来てもらったのにも関わらず、肝心の味覚はと言えばあまり役に立たないどころか、過度な緊張に一時的な味覚不全に陥ってしまった。正直に言えば、自分にとってこのような場所はまだ早いと言うのが結論である。だからと言って、あの夜に高額な包みを手にすることが正解だったとは思わない。
「えらくご緊張を、」
男の声が静寂の間を縫うように背筋をなぞって消える。厳格な声音に弾かれたようになまえは夕食を共にした男、沢城の方を向いた。普段とそう変わらない恰好だったが、いつにも増して紳士然とした振る舞いが目立った。常に傍を歩き、時に手を引き、束の間に読めぬ男の配慮を知る。寡黙な男だと一方的に思っていた自分を恥じる。何故なら、沢城丈は多くを語らない代わりに行動で物を語る男だったからだ。たとえ、目線を交えずとも。たとえ、言葉を交わさずとも。いつも一歩引いた場所からその双眸を向けている、そんな男なのだ。
「お口に合いませんでしたか」
「い、いえ、そんなことは……!」
「食事中、全く味が分からないと顔に書いてありましたが」
「……す、すみません、緊張のあまり」
「あの若の前で普通に立ち回れるあなたが、私を前にして、緊張のあまり、なんてご冗談を」
二人きりの個室で下げられていく皿を前にして、まるで荒川真斗に接するよりも、みょうじなまえと接することの方が容易であると言う口振りだった。確かに荒川真斗はヤクザの息子ではあるものの、なまえからしてみれば、たった一人の幼馴染であることに違いない。昔から付き合いのある荒川真斗よりも、組の若頭を務めている沢城丈を前に緊張するのは至極当然ではないだろうか。
「まさか、本当にこんなお店に連れてってもらえるなんて」
「なら、次はヤクザ相手に吹っ掛けないことです」
「ふ、吹っ掛けたつもりは、」
「ええ、そうでしょうね。ただ、あの時のあなたは、カタギにしては随分と思い切りのいい返しをしてくれた」
「……嫌、でしたか」
「嫌ならこの場に私も、みょうじさんも居ませんよ」
沢城はふとした瞬間に内心を明かす。しかも、感情の一端を掴ませないよう、さらりと言ってのけるのだ。そして、さっぱりとした透明で満たされたお猪口を傾け、寡黙な唇を薄らと濡らす。慣れた振る舞いをする沢城とは対照的になまえは慣れぬ装いに不自然さが目立っていた。色とりどりの美しい食器達が役目を終えて順に下げられていくのを目で追っては、ひたすらに手持ち無沙汰な自分に気落ちしてばかり。折角、沢城に連れられて来たと言うのに、気の利いた言葉一つ言えず、朗らかに談笑することもままならない。今のなまえに出来るのは、沢城が気を悪くしていないかどうかを密かに盗み見て確かめることだけだった。すると、再び沢城から話を切り出される。
「若に散々言われましたよ、今夜のことを」
「荒川くんからですか……?」
「ええ。あなたに変な気を起こすな、と」
「な、なんでそんな話になるんですか、」
「若は私に釘を刺したかったのでしょう」
そこまで話し込んだところでようやく気付く。真斗は今夜の沢城との約束を知っていた。前もって話をした時には、なまえに迷惑をかけぬよう、沢城に言い付けておくとまで言っていたのを思い出す。まさか、本当にそのようなことを言い付けていたとは。真斗の不器用な優しさに触れた瞬間だった。
「若はあなたのことをえらく気に入っている」
「本当にそうなら嬉しいです。でも、幼馴染だからって言うのもあるんじゃないかって」
「私もあなたには一目置いてるんです」
「沢城さんが?」
ええ、と言い残して、酒を煽る。途切れた会話の先が待ち遠しい。なんて言ってくれるのだろう、沢城のような正統派な極道である男がたった一人の小娘に対して。何を感じ、何を思ってくれているのか。この時、なまえは一つのミスを犯した。相手があの荒川組の若頭である沢城丈だと言うことをすっかり忘れ、人並みに期待を抱いていたのだ。
「あなたは極道との繋がりが出来ても驕らず、こちらの要求を飲んでくれる」
あまりにも事務的な言葉の羅列。望んでいた言葉はどこにも無い。すうっと指先の熱が逃げ、冷えていくのが分かる。一体、沢城に対して何を期待していたのだろう。耳触りの良い労いか、それとも聞こえの良い感謝か。欲をかいた自身を恥じる、ほんの少しだけ高望みをしてしまったと。逃げ場のない虚しさを、指先をきつく握り締めることでやり過ごす。浮かれていた、沢城の真意に自身は全く関与しておらず、あの夜に果たせなかった目的を済ませる為の場であったのだと。
普段通りの自分では居られないと、沢城を前にして席を立つ。理由は何でも良かった。今、この胸に渦巻く悲しみを押さえ付け、飲み込めるまでの時間が必要だった。未熟であるが故に、感情を隠し切れないと分かっていたからこそ、この場に留まってはいけないのだと知っている。すると、沢城は次を注ぎ足さず、同様に席を立ってはなまえとの距離を詰めていく。意図の読めない沢城に詰められ、なまえは後退りしていき、遂には壁際まで追い詰められてしまった。男性的な背の高さから、沢城の影になまえはその身を覆われている。
追い詰められてからは無言だった。沢城も、なまえも一言も発せず、沈黙に口を塞がれたまま、視線だけを重ねていた。恐ろしい、男に迫られることに恐怖したのはこれが初めてだった。今までなまえが至近距離を許した相手は皆、揺るぎない信頼を築いていた。しかし、沢城には積み重ねた信頼の欠片が見えない。それ程までに沢城丈は自身を極道たらしめる男だった。
「怖いですか、俺が」
沢城はなまえに対していつも敬語で接していた。それは親である荒川真澄より直々に真斗の世話を任された相手であるからだ。礼儀を重んじるよう接して来た沢城が何故、この場で敬語を崩したのか。降り注ぐ視線に喉を貫かれ、どうしても二の句が継げない。怖くないと告げるつもりだった、しかし、それはこの場において不誠実であるような気がしている。いつだって、なまえは極道としての沢城に少なからず恐怖を抱いてきた。たとえ、幼馴染の身内である男だとしてもだ。
だが、もし、仮に、ここで。打ち明けてしまったならば、どのような展開が待ち受けるのだろう。怖くないと言えば、嘘になる。嘘になるが、全く別の感情をなまえは先に見出していた。自身に厚みのある封筒を押し付けた日のことだ、心の全てが恐怖に悴んでいるのではない。あの日、確かにこの胸は、奥底に沈むこの心は ──── 。
「怖いです、でも、私は、」
焦れったい言葉尻に沢城はまるで嫌悪しているような表情を見せる。だが、それはすぐに口元を歪めて歯を覗かせた。
「変な気を起こすな、か。若は俺じゃなくて、あなたに言うべきだった」
そう思いませんか、みょうじなまえさん。と名を口にした沢城の陰りの中で、なまえは不意に呼吸が出来なくなる。心臓が今にもこの胸から抜き取られてしまいそうで、なまえは前後不覚に陥る。不意に沢城の胸元に手を着けば、決して綺麗ではない沢城の手が掴んで離さない。
「時々、勘違いを起こす野郎ってのがいる」
押そうが引こうが、掴んだ手はなまえを解放せず、まるでその瞬間を待ち侘びている。男女の力量差が顕著な陰りの中で見上げれば、沢城はあの時と同じく不敵に笑んでいた。
「まさか、それがアンタだったとは」
もう抵抗する気はなかった。その気は沢城の一言で全て削がれてしまい、なまえは物言えぬ人形と成り果てている。だが、前後不覚であるなまえが何を錯覚したのかは分からない。誰にも分からぬまま、噛み付くような口付けを交わす。酒の余韻が残ったままの厚い唇に吸い付けば、拒まれるどころか、今になって手を離した沢城は貪るように後頭部を引き寄せ、酩酊を口移しする。
「これだから、馬鹿は嫌いなんだ」
一滴たりとも口にしなかった酒に酔う感覚、知ることのなかった男の感触、在り処を失った心臓に宿る感情。カタギの言い分に耳を傾けると、いつも面倒事になりやがる。と吐き捨てているものの、重ねて間もない濡れた唇をまともに拭わないくせに、不敵な笑みを崩さないでいる。
「ごめんなさい、私、こんなつもりじゃ、」
あまりの惨めさに泣けてくる。迂闊に触れるべきではなかったのだ、沢城丈という男に。知る必要のない相手だった、何せ相手はあの東城会の極道なのだから。込み上げる涙が止められない。その間にも沢城の獲物を嬲る視線は喉元を貫き続けている。恐れていた、確かに恐れていたのに。たった数分で自身の愚かさを知った。何の為に周りが一線を画してくれていたのか、今になって知ることになるとは。どうしようもない、浅はかさに涙が込み上げているのだ。
「これからも引き続き、若の面倒をよろしく頼みますよ。みょうじなまえさん」
さっぱりと淀みなく言い残した沢城は再び自席に戻ると、残りの酒をお猪口に注ぎ、その場に置き去りにした女のことなど目もくれずにいる。なまえは壁際にへたり込んでは瞬きの間に零れる涙を拭う。生殺しの制約、報われぬと知った思慕の亡き骸、心臓の在処は男の手元に。なまえに残されたのは、偽りの酩酊と濡れた唇だけだった。
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