あまりにもシンプルな呼び声に耳を疑っていた。今夜の彼は少し、いや、かなり酒を煽ったらしく、いつにもなく兄の仮面が剥がれ掛かっている。たとえ、生き写しのように姿形が同じであれど、その根本的な部分までは他者になり切れない。それが人間の定めだった、人間として生まれた者の定めだった。しかし、彼は生き写しのように酷似していることを望まれた人間だ。それを理由に命を落とそうが、何があろうが構わず、誰かの欲望の為に犠牲になった男だった。女は兄の恋人であり、弟にとってたった一人の姉でもあった。今夜、店を不在にする兄の代わりを務めた弟の様子を見に来てすぐ、呼び止められた。
「姉さん、」
なまえ姉さん、と拙く口にした、弟であるキム・ヨンスは煽られた酒に頬などを赤く染め、何処かしくじったような、ばつの悪い顔をしている。スターダストの控え室、今夜の営業は既に終了しており、店内に残っていたスタッフ達を皆、早々に帰したのは正解だったようだ。彼を模した身なりは姿のそれは本物と寸分違わないほどに酷似しており、実は双子の兄弟だったと明かされても納得してしまうほどによく似ていた。
「ほら、無理しないでいいから」
「分かっています、そこまで私はヤワな男じゃありませんよ」
ふらつく足で無理にでも傍に来ようとするヨンスを強引にソファーに寝かせ、なまえが一階のフロア、バーカウンター内へ水を取りに行こうとした瞬間だった。自身をまるで本物の姉のように呼ぶ弟の、弱々しく情けない姿になまえは何も言わずにその場を離れることが出来なかった。
「お水取りに行くだけだから、」
「いりません、そんなもの」
「もう、そんなこと言って……、」
それ以上は口を縫い付けられてしまって、次にどのような言葉を掛ければいいのか忘れてしまった。それほどに一人横たわるヨンスの姿が寂しげだったのだ。なまえの知るハン・ジュンギとは、生きる気力に満ち溢れた男である。ギラついた野心を内に秘めた、気高い獣のような男。獣であることを恥じることなく、己の美学を貫き通す。さながら、金剛石のような男だった。その身が欠けても真に欠けることを知らず、眩い輝きで人を強く惹き付ける男の影は、今何を思うのだろうか。
「姉さん、どうか傍に」
自慢のシルバーアッシュが乱れ、ほつれた前髪に視線を切られることなく、ヨンスはなまえを見つめていた。望んでいるのだろう、傍らに姉が来ることを。なまえはその視線に手繰り寄せられるがまま、ヨンスの傍までやって来ると下が床であることも構わず腰を下ろし、弱気な弟に問い掛ける。
「……大丈夫?」
「大丈夫だと言ったら、嘘になります」
「それじゃあ、私に出来ることある?」
「姉さん、私は……、」
……俺は、と続けられ、見ず知らずの声を聞いた。『私』という一人称を使うのは、ハン・ジュンギとその影武者であるキム・ヨンスだけだ。『俺』を口にした彼はなまえにとって初対面の男だった。思っている以上にヨンスの深酒は相当なもので、昔の顔を覗かせるほどに真っ青な胸中を隠しているのだろう。暗い過去は走馬灯のように気まぐれに姿を見せては、その後のことなど我関せずと言うように消えていく、迷惑な存在だ。みょうじなまえにもそれがあるように、ハン・ジュンギにも、キム・ヨンスにもそれらは存在する。人には言い出せない暗い闇を誰もが抱え、いつの日か眠らせたはずの闇に目を塞がれ、苦悩する。ヨンスのきっかけは今夜の深酒だったのだ、今のキム・ヨンスは闇に目を塞がれて、盲目のままに彷徨っているのだろう。
「俺は、本当にハン・ジュンギになれるんでしょうか」
「どうして、そう思うの?」
「……少し、昔のことを思い出してしまって」
「それは、自分がキム・ヨンスだった時のこと?」
「自ら、そう望んだ訳ではありませんでした。それでも、もうその道を進んでいくしかない」
震える瞼を閉ざし、独白する。あまりにも痛々しい姿になまえはシルバーアッシュが余計に乱れると知っていながら、何の力も持たない手でヨンスの髪を撫でた。決して消えることのない過去の黒い霧を少しでも晴らせるように。
「私からしたら、あなたがジュンギさんになっても、ヨンスくんのままでもどっちでもいいの」
「そのようなこと、」
「でも、あなた達二人は答えを出さないといけない」
どちらが生かされるべき命か。どちらが必要とされるべき人間か。しかし、なまえはその運命を受け入れた上で、『ハン・ジュンギ』との関係を続けている。今ではすっかりどちらも大切な心臓の一部となってしまったから。今にも居た堪れなくて泣き出しそうな弟の手を取り、優しく握り締める。僅かに震えていたようで、手の震えが治まるまでなまえはヨンスの手を握り続けていた。
「なまえさん、すみませんでした。こんな情けない姿を晒してしまい、」
「あれ、もう姉さんって呼んでくれないの?結構、嬉しかったんだけどなあ」
「血の繋がりはなくとも、確かになまえさんは私の大切な、」
そうであると頼りなく口にする。なまえはそれがくすぐったく、嬉しいからと、ヨンスの前髪をそっと掻き分けて額にキスを落とす。眠れぬ子どもをあやす様に、懺悔しても晴れぬ胸の内を赦す様に、恋人の幸福を祈る様になまえは口付けを落とした。
「私の方がお姉さんなんだから、いつだって甘えてくれていいの」
前もそう言わなかった?となまえがやんわりと笑いかければ、そうでしたね。とヨンスは小さく頷いた。その顔が幼く見え、愛おしかったからともう一つ落とすと、やけに焦がれた声で名を呼ばれた。
「……姉さん、なまえ姉さん」
ぎこちなく編んだその言葉に、なまえは不覚にも満たされていた。そして、こうも思うのだ。自身の前でだけ晒した、かつての姿を弔うわけではないが、何かしら報われて欲しいと願う自身がいるのだと。なまえがヨンスに向けた言葉は全てが本心だった。自身が姉なのだから、いつだって頼りにしてくれて良いこと。目の前の弱気な男がハン・ジュンギになろうと、キム・ヨンスであろうとどちらでも構わないこと。ただ、二人を一遍に失ってしまうことだけは受け入れられない。
「なあに、ヨンスくん」
「……なんだか照れくさいものですね、」
「ふふ、可愛いじゃない」
「子ども扱いしないでください」
あまりの恥ずかしさからヨンスが顔を背けると、なまえは最後にシルバーアッシュを一撫でし、今度こそ水を取りに向かう。すると、再び冒頭と同じく呼び止められてしまった。今度は一体何だろうかと振り向けば、上体を起こしたヨンスが寂しそうにこちらを見つめている。
「勝手だとは承知の上ですが、今夜はここに居てくれませんか」
「帰って欲しくないってこと?」
「ええ、帰って欲しくない」
今にもソファーから離れてこちらへと向かって来そうなヨンスに、分かりやすく首を縦に振れば、心底嬉しげに顔を綻ばせた。ハン・ジュンギはあのように純朴な顔を見せない。この違いをなまえ以外で誰が分かると言うのだろう。可愛くて仕方ない弟に弱いとは自分でも知らなかった一面だ。なまえは水を取ってくるとヨンスに言い残して、今度こそフロアのバーカウンターへと向かう。
今夜のスターダストは無事に営業を終え、後は仲睦まじい姉弟が二人きりの時を過ごす場となるだろう。後日、兄である彼にその日の出来事を伝えると、どこか羨ましげな顔をしてあからさまに嫉妬して見せるものだから、二人が本当に赤の他人であることを忘れてしまいそうになった。
| 何度でも欲しいと鳴いて |back