『喰らう、ここは欲望の腹の中』の続編「忘れられなかったのでしょう、」
私のことが。と男の紡いだ言葉がこの胸のベールを一枚ずつ手荒に剥いでいく。明け透けだったつもりはないが、すっかり見通された心中に女は次の言葉を編めずにいる。その間にも男の手が本心を求めて、胸の奥へと腕を伸ばしていくのを止めることも出来ず。束ねて捨てられたベールはまるで抜け殻のような、やるせない残骸だった。まだ大切にしていたのに。しっかりと体が、足が、翅が出来るまで触ってはならなかったのに。目の前の男が不出来な蛹を悪戯に引き裂き、頭の先までを満たしていた恋慕の全てを引きずり出してしまった。こんな、このような、未熟な状態で生まれてきた恋心がまともに育つ筈がなく、折れた翅で、足らぬ足で、欠損した体で、もうどうすればいいのか分からない。
なまえはあの日と同じく、スターダストのフロアでハン・ジュンギと対峙していた。人気のない店内に残されていたのは、オーナーである彼と来客である彼女の二人だけ。忘れられなかったのだろうという問い掛けに、なまえは反論するでもなく狼狽している。ハン・ジュンギの見立てに狂いはなかった。みょうじなまえはあの夜を過ごしてからは常に心の行方を探していた。何でもない時間にぼんやりと脳裏に浮かぶのは、ギラついたネオンライト。女と男の嬌声が入り交じった薄暗いフロアの湿った空気感。未だにあの夜は続いている。
「また会えて嬉しいですよ、みょうじなまえさん」
明かした覚えのない名を彼は知っている。それはあの夜と同じで、不思議と追求する気にはなれなかった。柔らかに表情を変えていく男を前にして、女は建前だとか、理屈だとか、つまらない言葉を並べたくなかったのだ。忘れられなかった、そうだ、忘れられなかったのだ。たった一夜、言葉を交わし、唇を重ねただけの男をみょうじなまえは忘れることなど出来なかった。過ぎた時間が幾度となく物語る、自身の心変わりを。終わらぬ夜に閉じ込められている自身を。
「忘れられるはずがありません、だって、」
他の異性が気にならないほど、あなたのことばかりを思い返していましたから。
なまえはようやく口を開く。囚われの日々を、たった一人の男のことばかりに囚われた女の話を。あの時、確かにそう望まれたのだ。決して忘れてくれるな、と。決して余所見をしてくれるな、と。そして、自分でなければならないはずだと、解けぬ呪いを唇を通じてこの胸に流し込んだのだ。
『あなたにまた会える日を楽しみにしています』
『ですから、また必ず』
ほんの数秒でも、足を止めた言葉。ただひとえに困らせてみたかったと明かした内心。全てはこの唇が、肉の記憶が覚えている。喧騒の間に身を置いていながら、真の意味で満たされず、飢えも凌げないでいた。だから、男は女がまだ大切に隠し持っていなければならなかった蛹に手を出したのだ。正しく羽化してしまう前に、決して一人では、決してまともには生きていけないと刷り込むように嗾けて。
「私の術中に嵌ってくれたようで、嬉しい限りだ」
「本当に欲しいと思ってくれたんですか」
「ええ、勿論。あの夜、一人で時間を持て余していたあなたがとても目立っていた」
周囲は乱痴気騒ぎだったと言うのに、たった一人その場に馴染めないどころか、不快感や嫌悪感すら漂わせていた物珍しい来客。ハン・ジュンギがスターダストのオーナーとなってからは、一般的なホストクラブとは一線を画す店に変貌していた。人の欲望が渦巻く神室町という街に相応しい欲望が深まるそのような場所へと。男を求め、漁り、満たされ、犯し、情欲を貪る女達の中で、なまえのような人間は稀有な存在だった。如何に目の前に男女の欲望が渦巻いていようとも、自ら飲まれることを選ばず、ただただ侮蔑の眼差しを向けているなまえが。
「私の目には、眩し過ぎたのです。だから、奪ってしまった」
目が潰れるほどの強い光から逃れるには、これしかなかったのだと言う。それ故に未熟な蛹を切り裂き、流れ出た中身を喉の奥に流し込んで我が物とした。たとえ、不出来でも構わなかった。愛の始まりなど誰も知らないのだ。ならば、愛が先であろうと、後であろうとどちらでも構わないではないか。つまり、偶然にも供物として捧げられたのだ。ただならぬ欲望を孕んだ男の袂へ。
そして、次に語られたのは未熟なまま生まれてしまった恋心の不都合だった。その内の一つとして、なまえは以前から好いていた男のことを異性として意識して見ることがなくなっていた。今までならば、胸の奥をやんわりとくすぐっていたやり取りも、まるで事務的な日常の営みとして色褪せ、何も感じなくなってしまったのだと言う。
「あなたは自分のことを欲深い男だと言ったけど、」
ある夜、その男とキスをした。きっかけは相手からだった、何かを変えたかったのかもしれない。しかし、ただ触れ合うだけのキスの瞬間になまえが見たのは、美しく染め上げられた銀髪だった。知ってしまったから、夜の繁華街に似合わないほどの不敵な笑みを見せたハン・ジュンギという男のことを。自身も充分に欲深いのだと明かしてくれた、意外にも素朴さを持ち合わせた男のことを。
「私も充分、ずるくて欲深い人間だと思っています」
———— じゃなきゃ、ここに、あなたに会いに来ていません。
なまえは一度だけ後ろめたさに視線を切る。先程の男のことを思ってだろうか。しかし、その優柔さが垣間見えたことで図らずも男の、決して褒められないだろう感情を煽ることとなる。
「みょうじなまえさん、あなたはどうしたいのです?」
密やかに問われる。後ろめたさに揺れる女の本心が見えないと。
「今夜、あなたは私の元へやって来た。それは一体、何の為に?」
ゆるやかに首を絞められる。その問いはまどろっこしい建前などいらないから、今すぐにでも答えを明かせと迫っている心情の表れだ。
「……私は、ハン・ジュンギさん、あなたの、」
見えないと問われた本心を、不出来なこの胸を裂いて明かす。
「あなたのせいで、誰も愛せなくなってしまった」
ゆるやかに絞め上げる手に自身の手を重ね、容易く解けぬように強く結び付ける。
「あなたじゃないと駄目なんです、」
これ以上、なまえの本心を覆い隠すベールはない。全て毟り取ってしまった。それはハン・ジュンギの手で、時になまえ自身の手で。さながら、古い呪いの契りのようになまえはようやく胸の内の全てを、ハン・ジュンギに求められるがまま、吐露したのだ。何かが強く、強く結ばれた気がする。目には見えない深いところにある、何かが。もう戻れないと分かっていながら、なまえはそうなることを選んだのだ。対して、ハン・ジュンギも満足そうに含んだ笑みを見せると、あの夜の再来と言わんばかりになまえを自身の懐に収め、口付けを交わすのだった。
———— すべて私のせいにしてしまえばいい。あなたが私を欲しいと言うのなら、それが全てですよ。
優しく耳元で声が響く。甘い囁き、堕落への誘い。自由を捨ててまで、これが欲しかったのだろう?と響く。もう触れるだけの口付けは意味を成さず、唇や舌先で肉の記憶を刻み付けていく。息継ぎが困難なほど互いを貪り、どこまでも互いの欲望に溺れていく。そして、あとは残る全てを飲み干してしまえば、自ずと愛とは何かを知るのだ。折れた翅、足らぬ足、欠損した体を漏れなく平らげ、最後には酷く満たされた二人がいる。それこそが人間が長年追い求める幸せなのではないだろうか。離れた唇の先に待ち構えているのは、欲深い男越しに見る夜の世界だった。胃袋に落とし込まれた供物がどのような末路を辿るのかなど、この通り想像に難くないのである。
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