ぐい、と傾けた安酒のアルミ缶が僅かに凹んだ音を立てる。真隣で同じ安酒を流し込んでいた海藤が、いつになく浮かない顔をしているように見えた。口内に広がるアルコールの後味だけが居心地悪く残り、まるで今の自分達のようだと思えた。海藤とはそれなりにの付き合いになるが、今までこのような表情は一度たりとも目にしたことはなかった。深くを聞くことは憚られたが、浮かない顔をした相手をそのまま放っておくことも出来ず、なまえはそれとなく話し始める。

「私、こうやって海藤さんとお酒飲むの好きです」
「なんだよ、いきなり。どきっとするじゃねえか」
「ふふ、私でもどきっとしてくれるんです?」
「ったりめぇよ。なんせ、可愛いなまえちゃんとサシで飲んでるんだからな」
「またそんなこと言って、」

 ほんの少しからかうように言葉を投げ掛ければ、いつも通りの言葉が返ってきて内心、安堵する。海藤が浮かない顔をしていた事情は気にはなるものの、付き合いがあるからと言って何でもずけずけと聞いていいものではない。適度な距離感。それは時々見失っておかしくなってしまうが、本当に大切にしたい相手とは意識し続けていきたいものだった。なまえにとって、海藤正治はまさにそのような相手である。自身が悩み事の解決に協力を仰ぐのは、あの八神ではなく、意外にも海藤であることが多い。そして、海藤もまた満更でもない様子で快く引き受けてくれる。そこから今の関係にまで発展することが出来たのだ、これからも居心地のよい関係を続けていきたいと思っている。
 時には海藤の部屋で、時には今と同様になまえの部屋で、幾度となくアルミ缶やスチール缶を潰してきた。酒にあまり強くないなまえに自分のペースで飲めばいいと言ってくれたのも、海藤だ。変に自分を飾らず、ありのままで居させてくれる海藤のことを慕っているのが本心だ。その思いのどこにも男女的な含みはない。いや、そのような含みを持たせてはいけないと分かっているからこそ、先述の適度な距離感を守っているのだ。つまらない一時の感情などで海藤との関係を破綻させたくないのだ。

「なあ、なまえちゃん」
「なんです?」

 二口目を煽った海藤もそれともなく口を開く。歯切れの悪い言葉は少量ずつ吐き出され、やがてその全貌が見えた頃、なまえは再び海藤の浮かない顔を目にすることとなった。活気に溢れた力強い瞳や勝ち気な笑顔を見せてくれる普段の海藤からは想像もつかないほどに、寂しげな表情を見せる。

「あんまりこういうこと、言わねえ方がいいって分かってんだけどよ」
「大丈夫ですよ、話してみてください」
「……なまえちゃんはよ、」

 三口目を煽る手を止め、下唇に触れる寸前でようやく海藤は胸の蟠りを吐き出す。今まで、ずっとこのようなものを抱えていたと知り、返す言葉がない。

「俺じゃあ本気になっちゃくれねえか」

 半ば諦めているかのように吐き出された言葉を無条件に掬い上げることは、海藤の独白を蔑ろにしてしまうような気がしていた。それでも、海藤の独白の傍に居てやりたい気持ちはあった。だが、今の自分は気の利いた言葉ひとつ見つけられずに押し黙っている。

「本気って言うのは、友人としての話じゃないですよね」

 当たり障りのない言葉を選んで投げ掛ける。同じく歯切れの悪い問いでも、海藤は気を悪くせず、あっけらかんと答えた。ずっと隣にいるというのに、どこまでも遠くに離れたように感じているのは海藤も同じなのだろうか。

「友人止まりってんなら、それでもいい。でもよ、聞いておきてえって思っちまった」

 なんて残酷な話だろう、なんて寂しい話だろう、なんて。海藤のことは八神や東の次によく知っているとばかり思い込んでいたが、まったくの勘違いでひどい思い違いをしていたのだ。何一つ分かっちゃいなかった、海藤のことも。そして、自分自身のことも。初めはただの信頼に過ぎなかった。何を頼むでも嫌な顔ひとつせず、体を張ってでも助けてくれる、まるで頼れる兄のような存在だった。だが、今になって知ったのは、海藤の胸に巣食う異性としての葛藤と、自身がいつまでもただ甘えているだけの現状。どこにも救いがないこの状況に嫌気が差すのも分かる気がした。もし、自身がそのような状況に身を置いていたのなら、すぐにでも身を引いていたことだろう。
 海藤のことは先程も述べた通り、慕っている相手だ。自覚はあるものの、まさか海藤の方からはっきりと意識させられるとは思っても見なかった。本人には決して明かせないが、日々の中に愛おしさは細部に宿っていた。短髪の黒髪、派手な柄のシャツ、人がごった返す街中でも目立つ高い背丈、不意に自身を見つけた時の嬉しそうに光らせた目など、挙げたらきりがないほどに海藤へ抱く愛おしさに際限はなかった。それでもなお、思いを口にしなかったのは、海藤の迷惑になってしまうのが恐ろしかった。好意というのは実に恐ろしい諸刃の剣だ。正しく作用すれば、困難を乗り越える活力となるが、誤って作用してしまえば明日を生きる理由を奪ってしまえるほど、扱いの難しい強い感情なのだ。

「悪い、困らせちまった」

 海藤は場の空気に耐えられなかったのか、手元に置き去りにしていた缶を暫くぶりに傾けた。真隣で海藤の喉仏が静かに上下している。何も答えられないでいる自分を責めるようになまえも缶を傾けると、はっきりしない自身の態度をどうにかしてしまいたいと一口、二口と喉の奥に連続して流し込んで行く。なまえの異変に気付いた海藤は、体に悪い飲み方すんじゃねえ、と嗜めてくれたが、それではいまいち収まりがつかないとなまえは更に酒を煽る。

「おい、まじでそれぐらいにしとけって」

 海藤の不安げな制止に、ようやくなまえは傾け続けていた缶をテーブルに置き、溢れた酒で濡れた口元を拭い、頼りない瞳で海藤を見た。

「わたし、海藤さんのこと好きです」

 それからなまえは、互いに見落としていた部分を確かめるべく、一つ一つを紐解いていった。なまえは言葉を伴わぬ愛情表現の伝わりにくさ。他者には許さず、海藤にだけ許したことの全て。そして、二人で同じ酒を嗜む夜の意味を。海藤はなまえを優先させ続けた心理の打算さ。なまえだからこそ、分け与えてきた献身の全て。そして、情けなくも本能的になってしまいたくなる夜を。二人は互いが話し終えると、それ以上を語ることが出来なくなっていた。海藤にも、なまえにも、人間臭い感情があり、それを持て余したままここまで来てしまったのだと知ったからだ。今更になって、真隣に座り合う現状に遅れて緊張している。今夜ほど互いを異性として認識し、意識した日はない。
 酔いか、羞恥か。赤くなった顔を隠すように両人共に俯いたり、視線を他所に逃がしている。だが、これでは埒が明かないと先に口を開いたのは海藤だった。なまえは海藤の言葉に耳を傾けている。異性的な厚い唇から海藤の本心がこぼれ落ちる度に、なまえもまた自身の明かせていない本心を曝け出してしまいたくなった。

「……恥ずかしい話だが、俺ぁ前からなまえちゃんを意識してた」
「全然気が付かなかったですよ、」
「まあ、無理もねえ。俺自身も、まさかこの歳になって、って思ってたからな」

 見えない線を意識することは必ずしも悪いことではない。しかし、その先を望む相手からすれば煩わしい一線でしかないのだが、不思議と人はそれを重要視し、必要だと思い込む。そのようなものは越えてしまえば呆気ないものだったと知るが、次にやって来るのは ———— 。

「ねえ、海藤さん、こっち見てください」
「へっ、やけに可愛いこと言って……、」

 海藤がなまえの呼び声に誘われるがまま、視線を横へ流した次の瞬間。海藤は思わず小さく声を漏らす。蚊帳の外にあった意識がぐ、と引き寄せられ、甘く匂う。するり、と柔らかにしなる細い腕が、指先が骨ばった海藤のそれに絡まっていく。先程流し込んだ酒の影響だろうか、今相手にしているなまえは普段とは全く異なる姿を見せている。穏やかで、ほんの少しの奥ゆかしさを持ち合わせる彼女だからこそ、海藤はこの意外な一面に男心がくすぐられていた。しなやかな指先をやんわりと握り返せば、おっかなびっくりの感触に小さく笑みをこぼし、徐々にしっかりと握り返していくと、笑みが消える代わりになまえの女性らしい顔が垣間見える。

「……このまま続けてもいいけどよ、なまえちゃんはどうなんだ」
「わたし、こういうことしてみたかったんです。でも、その、自分からだなんて恥ずかしくて、」

 更に海藤はなまえの言葉に驚かされる。例えるならば、自分よりも大きな獣に迫られていると言うのに、この期に及んで首筋に唇を押し当てるような真似をする小動物だった。しかしながら、なまえは本心を明かしているだけに過ぎず、海藤の真意に気付けないでいる。今すぐにでも、覆い隠してしまいたい衝動に手が届きそうな瞬間、再び残酷さが気まぐれに姿を現す。

「海藤さんの手、大きくてあたたかくて好きです」

 だから、もう少しこうやって握っててほしいです。と今まで海藤の背筋を散々なぞり続けた唇で今度は忘れ去っていた理性に触れた。途端に海藤の脳裏に流れ込むのは、なまえが酔っていること。事に及んでしまえば後味の悪さだけが残ること。そして、関係が終わってしまうかもしれない恐れだった。綴るのは憚られるが、海藤も男だ。踏み留まりたい気持ちと、踏み留まりたくない欲求がせめぎ合っている。だが、なまえにそう無邪気に囁かれてはこれ以上下手なことは出来ない。

「……そうか。なら、気が済むまでこうしてやる」

 ぱあ、と明るくなった色付いた頬のなまえを一度だけ抱き寄せる。そして、理性の働くまま、抱擁を解き、なまえの望む通りに彼女の細い指先を、小さい手を優しく握り締めるのだった。自身が異性として見られているという事実を酒の肴に、明日には跡形もなく消えてしまう特別な夜を忘れてしまわぬように。



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