この頃、時間の使い方が下手になった。大切な時間を悪戯に消費するばかりの日々を送っている。そして、後味の悪い罪悪感だけが胸の奥に募り、有意義と言う言葉の重みに苦しさを覚えるのだ。例えば、退屈さに胡座をかき、何もせずただネットの海を彷徨い続ければ、あっという間に莫大な時間は溶け去っていく。少し先の未来を考えたくないからと、自分のことを後回しにすれば、必要最低限の身支度に追われ、遅い入浴後の保湿が杜撰なものに変わる。不器用さがまるで自分そのものだった。大して目もくれずに指先で掠め取った保湿クリームを肌に伸ばすと、量の多さに嫌なベタつきを覚えることも度々だ。意味の無い時間、見ず知らずの誰かはそれこそが一番大切なものだと説いていたが、今の自分はその主張に首を縦に振れないだろう。
心を許せる友人を持ち、自身の力を活かせる仕事に就き、一人でも暮らしていけるほどには生活も安定している。そんな人間でさえ、時に漠然とした不安がチラつき、未来を描こうとすれば、深い水底のように薄暗くて冷ややかなものを見てしまう。時計の針が遅くを指せば、その時間に比例して悲惨な未来を見てしまう。決して悲観主義ではないけれど、何故だか、暖かな未来が見えない。お気に入りのお菓子の包みの中にも、好きな料理が出来上がった鍋の中にも、自身の為に取っておいたアイスの眠る冷凍庫の中にも、友人達とのかけがえの無い大切な思い出が宿る携帯の中にも、気分転換に沈めた入浴剤の癒される湯船の中にも。
どこにも、あたたかさの欠片は見つけられない。これが最近のなまえの心境だ。だらだらと続く退屈の隙間をなんとか埋めようと、手当り次第に多忙さを演出した。しかし、所詮は一時しのぎの紛い品である多忙さは軽薄にも容易くなまえを裏切っては、すぐに次の尽きぬ退屈を呼び寄せる。だから、今回も身勝手な我儘を詫びたいと思った。なまえは今、とある男の元へ身を寄せている。その男は突然取り付けた約束に嫌な顔一つせず、おいでとなまえの手を取ることを厭わなかった。
「悪いことしたなあって思ってるでしょ」
向かいに座る男のサングラス越しの瞳がこちらを捉えている。口の両端は僅かに上向きになっており、男の人の良さが見て取れる部分だ。掴みようのない相手だが、誰よりも人が秘めたる核心を掴むのが上手い相手でもある。
「ま、俺はいつも暇してるからさ。話し相手が出来て嬉しいよ」
「趙さんにもありますか、自分がだめだなあって思う時」
「うん、あるよ」
間髪入れずに、趙は明るい声音のまま答える。なまえはその返事が返ってくることを薄々勘付いていた。今の自分は中途半端に出来た擦り傷を舐めたいが為に、誰かの明るくない話を聞きたがっっている。自覚があるからこそ、すぐに自己嫌悪はやって来た。自身がいかに身勝手であるかをここでも思い知るのだ。
「でもさ、誰にでもあることじゃない。なまえちゃんが悩んでることって」
「そうですよね、」
「だからさ、そこまで思い詰めなくていいんじゃない?」
「私もそう思います」
「勘違いさせたらごめんだけど、俺はさ」
自分のことで手一杯で、どうしていいか分からなくて、どうしようもない時に俺を頼って来てくれたのが嬉しいんだよね。
予想もしていなかった趙の一言になまえは目を丸くしていた。その表情があまりにも可笑しかったのか、趙は、ぷ、と僅かに吹き出してわらっている。な、なんで、笑うんですか……!だって、なまえちゃん。本当に鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔するんだもん。本当にって、見たことあるんですか……?いや、ないね。とにやけた顔を一瞬で真顔にしてみせた趙に、今度はなまえが笑い出す。
「ほら、俺って組織の総帥やってたじゃない。その時の俺はずっとだめだなあって思ってたよ」
異人町に存在する裏社会の組織間における三すくみは始めから仕組まれていたもので、街を守る為のシステムでしかなかった。だからこそ、息巻く部下達の思いを見て見ぬフリをしていた。勿論、裏社会の組織に属する人間ならば、自勢力の拡大を第一に尽力するものだろう。だが、古くから続くしがらみはそれを良しとしなかった。引かれた一線を越えてはならず、勢力図の書き換えを許さない。横浜流氓も他と同様に形骸化した組織の一つだったのだ。当時の趙に許されたことは、部下を力で掌握することと与えられたシマを守ることだけだった。
「でも、それはどうしてもそうしなくちゃいけない事情が、」
「うん、そうしなきゃいけなかった。でも、結局は誰の悩みだろうとおんなじ。皆、自分の手に負えなくて辛いんだよね」
誰にでも口を噤まなければならないことや抱え込まなければならないことがある。良くも悪くも人間にはそれを背負い込めるほどの知性がある。それ故に生きづらさを感じながら、終わりのないトンネルを手探りのまま進んでいかなくてはならない。いつ終わりが来るのか、本当に終わりはあるのか。それとも、このまま延々と歩き続けなければならないのか。だが、どこにも答えはない。正しい答えなど。
「そこで、そんな修羅場を潜り抜けた人生の先輩からの提案なんだけど、」
「は、はい、」
「大丈夫、そんな緊張しなくても。別に取って食おうってわけじゃないし」
趙からの提案は次のようなものだった。一人でいるから無限に考え事をしてしまう。ならば、空いた時間にでも顔を合わせれば良いのだと。だが、なまえと趙では一日の過ごし方が異なっており、一見難しい提案のように思えた。更に趙は続ける。勿論、対面だけでは互いの生活に不都合が生まれる場面が出て来るだろうと。そこで趙が考えたのは、顔を合わせるのが難しい日には通話でのやり取りにすることだ。
「そんな、そこまでしてもらわなくても、」
「う〜ん、もしかして迷惑だった?」
「そうじゃなくて、私としてはすごく助かりますけど……。趙さんは良いんですか?」
「総帥やめてから、結構毎日時間が出来ちゃってさ。春日くんも何かと忙しそうだし、」
「でも、」
「俺の話し相手になって欲しいんだよね、なまえちゃんに」
だめかな?と問われ、なまえは咄嗟に、だめじゃないです……!と返す。この時、趙はなまえの抱える問題の九割を解決させていたのだが、このまま終わってしまうのでは勿体ないと、この提案を持ち掛けたのだ。可愛いではないか、自身を頼りに困った顔を見せ、時に弱みを見せてくれる異性の存在は。純粋半分、打算半分の趙は図らずも上機嫌で続ける。
「何もなければ会わなくてもいいし、お腹が減ったならウチの店に来ればお腹いっぱいにしてあげる」
「どうして、そこまでしてくれるんです」
「あ、それ、聞いちゃう?」
一瞬、サングラスの奥の瞳が揺らぐ。なまえはその揺らぎを見逃さなかっただろうか。一心に趙の次の言葉を待ち続ける姿は、まるで生真面目な犬のように愛おしく映る。素直に答えてあげたい気持ち七割、揶揄って誤魔化してしまいたい気持ち三割で趙が選んだのは、
「内緒」
「ええっ、」
拍子抜けした場の雰囲気は一気に明るいものへと変わっていく。後に残ったのはなまえの気の抜けた声と、したり顔をしている趙だけだ。身構えていたなまえは脱力し、困惑した表情を浮かべている。明かそうと思えば、明かせた本心を今になって後ろ手に隠したのには理由があった。
「まだ言えないよ、こんなところじゃ」
「まだってことは、いつか教えてくれるんです?」
「どうしようかなあ、それでも良いけど、」
それってずるいかな?と訊ねる趙に、なまえは悪戯げに眉を顰めて首を縦に振る。結構、ずるいですよ。と隠し切れぬ笑みをこぼすなまえに、それはお互い様だと思うけどなあ。と返す趙の意図が分からず、なまえは首を傾げる。趙も同様に首を傾げて見せると、余計に意味が分からないとなまえはひどく小難しい顔をするのだった。
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