「なあ、お前これ似合うんじゃねえの?」

 何気なく飛んで来た意図しない言葉に意識を奪われる。特に、自分に似合うかもしれないという甘い言葉を並べられては、なまえも聞かずにはいられない。一体何が自分に似合うのかと、雑誌の見開きに釘付けになっている錦山の視界に紛れ込む。すると、錦山が目を通していたのは、レディースのヘアスタイリング特集の記事だった。普段ならば、メンズの特集記事ばかり読んでいる錦山にしては珍しいと思えた。

「錦山くんが女の子のページ見てるの、珍しいね」
「まあ、最近の流行りぐらいは掴んどかねえとな」
「そうなんだ。それで、私に似合うって言ってたのはどれ?」
「ああ、これだよ、これ」

 錦山が指差した先にあったのは、ミディアム丈のウェーブヘアで艶めいた綺麗な髪をゆるやかに流しているモデルだった。今の自分と比べると、モデルの大人びた印象の方が勝り、いまいち乗り気にはなれなかった。仮に自分自身が大人びた風貌をしていたのなら、話は別なのだが、残念ながら未だに幼さの名残があるらしく、手放しでは喜べなかったのだ。

「……少し大人っぽくない?」
「だから、いいんだろうが。今のショートヘアも悪かねえけどよ、」

 雑誌に伸びていた手が無造作に短く切り揃えられたなまえの髪に触れる。首元が涼しいのも、軽やかな毛束やお転婆に跳ねる毛先も、ショートヘアの魅力であり、なまえ自身も気に入っていた部分だった。あとは密かに抱いていることと言えば、異性の前ではあまり明かせないだろう手入れやセットの難しさがあるが、錦山の言うようにヘアモデルを見ていると不思議と同じ髪型にしてみたいという意欲が湧いてくる。
 しかし、出来るだろうか。今までショートカットにばかり切ってもらっていた自分が、このモデルのように髪を伸ばし、手入れを怠らず、錦山の期待に応えられるような仕上がりを維持出来るか。だが、よく似合うと自分に向けて優しげな目をしてくれる錦山の姿が見てみたいと思えた。

「なあに、難しい顔してんだよ。そんなに嫌か?」
「ううん、嫌とかじゃなくて」
「俺の思い付きって点じゃあ、少しは無理強いしちまったかもしれねえけどよ」

 髪に指を梳かし、黒と褐色のまだらな束をやんわりと耳にかける。しかし、耳にかけられるほど長く伸ばしていない髪の束はすぐに耳からこぼれ落ち、ばらけて広がっていく。一部始終を見ていたなまえは錦山の瞳の変化を見届けていた。愛おしげに髪に触れ、指先に遊ばせてはそこには無い誰かの姿を見ている。もし、この髪が長かったのなら、錦山はどのような顔をしていたのだろう。そのような独りよがりな思いが胸を過った瞬間、なまえの中に淡い思いが芽生える。

「ほ、本当に似合うかな、」
「俺はいいと思うぜ」
「じゃあさ、」

 私、しばらくは髪伸ばしてみようと思う。
 なまえの言い分に錦山は一度だけ目を丸くして驚いていた。だが、数秒後にはどこか嬉しそうな顔で、いいんじゃねえの。と綻んだ顔をどうにかして誤魔化そうとしているものだから、なまえは自身の選択が間違っておらず、錦山を喜ばせることが出来たのだと知った。本来ならば、自身に関することは全て誰かの為ではなく、自分自身の為にあるべきだと考えるだろう。
 しかし、時に誰かの為にこの身を投じてしまいたいと思う感情も否定したくなかった。なまえにはまだたくさんの人生の余白が残されており、今この瞬間を錦山と共に出来るのは限りあることなのだと知っていたからだ。恋は盲目と言うが、未だに誰も底まで落ちていくのを見たことがない。溺愛は過ぎれば息絶えると聞くが、今は心を寄せる相手を軸に据えて生きてみたかった。

「まずは伸ばしてみて、それから考えてみたいの」

 なまえは気付かぬ間に自身の毛先に触れていた。それは錦山のみが知る彼女の癖だった。自信がない時には一人、指先に短い毛先を遊ばせて不安げな思考を滲ませる。錦山はなまえのその仕草が好きだった。自身の言葉に一喜一憂しているのが一目で分かるからだ。このようなことをなまえの前で口にしてしまえば、恐らくなまえは大いに照れ恥じらい、喜んでくれることだろう。だが、こちらの手の内を知られてしまうようで、それは出来そうにないのが正直なところだ。
 執拗い男は女にモテない、などと言う言葉があるが、錦山の根底にも似た思いがあった。実は誰よりも独占的で一途だが、それの女々しさを一番に理解しているのも錦山だった。だから、それとなく伝える。冒頭の誘いも、なまえへの愛おしさを助長させる為だ。自信なさげな瞳を覗き込めば、どきりと瞳を揺らすなまえがいた。なまえもまた、錦山にいきなり覗き込まれるとは思っておらず、咄嗟に上手い返事が思い付かない。

「悪いな、俺の我儘に付き合わせちまって」

 聞こえの良い言葉を選んでいた。本当はそのまま降り積もる我儘を一つずつ飲み込んでいき、愛おしさそのものになってしまえばいいと思っている。

「私、錦山くんのこと、好きだから、」

 それに、と続けたなまえの言葉に錦山は、胸に渦巻く一途さや独占欲が一層強まっていくのを感じた。

「……それに、錦山くんの我儘なんて、私しか叶えてあげられないでしょ」

 なまえからして見れば、多少の戯れのつもりだったのだろうが、自身の一途さを我儘と称した錦山にとって、その言葉がいかに女々しさを拭うものだったか計り知れない。頼りない顔をしていたのはどちらなのだろう。錦山彰か、もしくはみょうじなまえか。

「あのさ、」

 先に口を開いたのはなまえだった。未だに恥じらいが抜けておらず、どこか年頃の少女のような初々しさが目につく。

「実は、錦山くんに似合いそうだなってものがあってね、」
「次は俺の番ってか?」
「嫌ならいいの。でもね、すごく似合うと思う」

 もし、思い過ごしをしているのならば、それはそれで構わなかった。個人的な思いが強まり過ぎた結果だからだ。だが、仮になまえの中にも錦山に対する女々しい思いがいくつか存在していて、この申し出により独占欲を満たそうとしているとしたら。そう思うだけで、不思議と胸が満たされる。なまえにも自身と同じものがあり、自身と同じように相手を欲しているのだと知ることは、一種の幸福のように思えた。

「ま、俺に任せとけよ。大抵のもんなら、似合わせに行けるからな」
「ふふ、そんなこと言えるの錦山くんだけだよ」
「いいや、なまえ。お前もさぞ驚くだろうよ、俺の言ってたことが本当だったってな」
「……なんか、そう言われると、本当に似合いそうで悔しい」
「悪ぃな、色男で」

 そのまま戯れの延長線と言うように、ぐい、と顔を近付けると、ちょ、ちょっと、やめてよ……!と慌ててなまえの手がやんわりと錦山の頬に触れる。

「あんまりにもなまえちゃんが可愛いから、キスでもしてやろうかと思ったんだけどよ」
「そ、そう言うのは、」

 ん?と首を傾げてみせれば、なまえも次第に抵抗の色を弱め、頬に触れていた手を下げたかと思えば、今度はなまえの方からぐい、と接近し、そして ────。

 頬をくすぐるのはなまえの短い毛先で、胸元に置かれた手はぎゅっと小さく握り締められている。視線だけでなまえの姿を追えば、自身よりか細い体だとか、自身より低い頭だとか、それら諸々が濁流のように押し寄せ、紳士的であろうとする色男の理性を大きくぐらつかせる。意外にも、ここが盲目の『底』なのかもしれないと思えば、それすらも温く感じられるほど二人の胸には溺愛が渦巻いている。



| 我儘さえも束ねて |


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