スパダリな峯に甘やかされる話「無理は禁物だと、俺に教えてくれたのはあなたでしょう」
意地っ張りだった仮面がするりと落ちていく。意外だった、まさかそんな優しさを投げ掛けてもらえるとは。いつから彼は、恋人である峯義孝は、優しい素顔を覗かせてくれるようになったのだろう。真っ直ぐに自身へと向けられる瞳に、一人でたくさんのことを背負い込んでいるのが、馬鹿馬鹿しくなってしまった。決して困らせたかった訳では無い。つい先程まで、本当に心の底から、何もかもを自分がどうにかしなければ、と思い込んでいたのだ。全く疑いもせず、そうであるように振る舞えば、やがて思わぬ所でボロが出る。そして、その予兆は最近になって散見し始めていた。
まるで取り憑かれたように打ち込むのだ、たとえ自身のプライベートであっても。恋人や友人と共に居ても、浮かぬ晴れぬはたった一人、自分自身の胸の内で、狭まる視野にすら気付けず、ひとつ、またひとつ何かを仕損じる。そして、不必要に問題解決の糸口を探っては自らの自由を少しずつ削り取っていく。このままではいつか無理をきたすと、なまえの恋人である峯義孝は言葉にすることを躊躇わなかったのだ。決して柄ではない、優しげな言葉を。
「無理なんて、私、してないです」
「昔の俺みたいな顔をしているのに、ですか」
「昔の……?」
「ええ、その頃の俺も今のなまえさんみたいに、心を許せる相手がいない。そんな顔をしてたんです」
何の変哲もない部屋で、峯となまえはすっかり変わってしまったのだと口にする。身を置いていた環境から、かつての貧困を払拭するように富を得た代わりに人間不信に陥った峯。峯とは対照的に、他者の悪意に晒されず、ごく普通の家庭で育ったなまえ。互いの隣を預けた者同士、共に過ごす上での苦労は絶えなかった。しかし、それでも今まで一緒に居られたのは、互いの境界線がぼやけることを厭わなくなったからだ。
じわりと溶け出すのは、何か。気付かぬ内に凍り付いた胸中をささやかな温かさで溶かそうとしてくれているのは、他の誰でもなく峯義孝だった。決して逸らさない眼差しを向け、じゅくじゅくと痛む患部を探してくれている。溶け出したら次第に溢れていく、声も、涙も、心も。どんどん流れて出て止まらない。
「何か俺に出来ることはありませんか、」
こんな、俺でも良ければ。と心を添えられ、なまえはようやく素直を口にする。
「もっと峯さんのそばにいたいです」
「なら、そうすればいい」
「それに、もっと、その、」
「言いづらいことですか」
先程まで一人前の大人の顔をしていたなまえが、まるで少女のように愛らしく頬を染める。未だに頬を濡らす涙をそのままにしていることもあり、より愛らしさに拍車がかかっていた。そして、結末。なまえが愛らしく鳴いたのは、峯に褒められたいということだった。なんて慎ましくも愛おしい囀りだろうか。愛すべき相手から求められるというのは、ここまで心地の良いものかと峯は内心の昂りを努めて冷静に抑えている。
「なまえさん、今のあなたは俺にどうして欲しいんです?」
恥ずかしいほどに純粋な好意が編み込まれた言葉で飢えた唇をなぞる。すると、容易くなまえは胸の内を明かし、名残りのある幼さを恥じらいながら一つずつ望みを取り出していく。為す術のない迷える手を握ってほしいこと。自身の為に美しく整えた髪に指を梳かしてほしいこと。苦悩する頭を撫で、額に口づけをしてほしいこと。そして、ただ一言褒めて欲しいと続けた。
なんて欲張りな言い分なのだろうとなまえは密かに顔を曇らせたが、なまえの感情の機微を峯義孝という男が容易に見逃すはずもなく、思考する間を介せずにそれは与えられた。瞬きの間に、息継ぎの間に、鼓動の間に。惜しげも無く与えられたのだ。
「なまえさん、あなたは俺が今まで見てきた中で一番の人です」
するり、と指先が絡まる。峯の手は男性特有の骨ばった感触と温かな熱を帯びていた。
「元も子もないことを言えば、あなたには働いてもらわなくとも結構」
慈しむように優しげな視線が濡れたなまえの瞳を射抜く。教え諭す姿になまえは大人しく峯の言葉に耳を傾けている。
「俺一人であなたを養うことなんて簡単です。でも、それじゃあ意味が無い」
峯の指先が頬に留まる涙を一つずつ拭い、次になまえの後頭部に触れると愛おしそうに手のひらで、指先で、指の腹で頭を撫でる。
「俺が好きなのは、毎日大変だなんだと零しながらも、次の日には明るい顔して仕事に出掛けるなまえさんだ」
苦労ならば痛いほどに分かる。かつての峯はなまえと同様にカタギとして生きていた。カタギにはカタギの、ヤクザにはヤクザの苦労がある。相容れない存在だとしても、苦労の重みを理解することは出来る。峯だからこそ、なまえの疲弊する理由に触れることが出来、峯だからこそ、なまえの求めているものを与えることが出来る。
「ただ、なまえさんが疲弊するだけのものなら、いつ辞めたって構わない」
その時は俺が支えますよ、なまえさんのこと。何も心配がいらない程に。
祈りを唇に宿したまま、峯はそれをなまえの額に押し当てた。そして、さながら婚約でもするかのように、自由を約束する。家事の全てを互いの手で済ませなくても良いこと。古めかしい夫婦の役割など意味を成さぬのなら全うしなくても良いこと。二人は対等であり、尊重し合う存在で良いこと。
「なまえさん、あなたは充分なくらいによくやっていますよ」
正直、一般企業なんかに拘束されているのが惜しいくらいなんです。となまえが欲しがる以上の言葉を投げ掛けられ、ようやくなまえは自身がいかに恵まれているかを知る。もう充分過ぎるほどに拗れた感情は満たされた。だから、これ以上はいらないのだと峯に告げようとしたが、
「ここまで弱ってるあなたを見るのは滅多にない。ですから、もう少しだけ楽しませてもらおう」
「楽しむって、どういう意味ですか、」
「さっきまでのぐずぐずになったなまえさんを見て、分かったことがあるんです。どうやら、俺は ──── 」
あなたに泣きつかれると弱いらしい。
至って真面目な顔で、酷く真面目な顔で容易に言ってのける峯に、なまえは塩っぱい感情の何もかもを手放し、純粋に欲しがっていた。
「峯さん、」
「なんです?」
「……嫌だったら、ごめんなさい」
広く大きな胸元に顔を寄せ、恐る恐る手を背中へと伸ばしていく。スーツ越しに峯の背骨に触れると、ぶるりと何かが震えた気がした。
「私ばかりじゃあ、ずるいですから」
咄嗟の行動に峯は身動きが取れずにいたが、なまえの一言を聞いたことでようやく動けるようになったのだ。華奢な体を優しく抱き締める。そして、峯はより深くなまえのことを駄目にしてしまいたい欲求に駆られるのだった。勿論、そのようなことを口走るほど、峯義孝は単純な男ではない。
本心を明かせば、何一つ気苦労をかけたくない。心を曇らせる一点すら許さず、愛おしい人と平穏であり続けたい。この手で、この体で解決出来ることならば、何でも期待に添えたい。すると、ふと思うことがある。何故、峯がなまえを恋人として迎え入れたのか。
「甘えていたのは俺のようです」
不器用な、ただただ不器用な彼女を助け、救い、愛するということはさながら過去の救済と同意義だった。自身には与えられなかったものを、なまえに与えることで過去の自分さえも抱き締めているのだ。貧しくも苦しい生活の中にも、こうして抱擁してもらった記憶が甦る。それは確かに大切な記憶で、切ないけれど心地よい熱を帯びている。かつての彼もこのような思いをしていたのかもしれない、たった一人の自身を愛してくれた父である彼も。
「もっと俺を頼ってください。あなただけなんですよ、俺が何よりも大切にしているのは」
峯にしてはらしくない言葉選びながらも、詰まるところ、その言葉が全てだった。失わずに済むのなら、それに越したことはない。
「……峯さんにそう言われると、照れちゃいますね」
なまえもまた人より素直な人間で、小さくはにかんだ後、私も峯さんが大切ですから。と添えた。優しく抱き寄せた手が途端に脱力していく。なまえの添えた言葉が予想外に峯に強く作用してしまったのだ。野薔薇の棘がするりと落ちていく感覚。どこまでも冷たい氷がゆっくりと溶けていく感覚。たった一言でどちらが優位であるか、逆転させられてしまった。
たった一人きりの箱庭に花が咲いていた。男はその花の手入れを怠らず、光を、養分を、水を惜しむことなく与え続けた。愛情を示せば、より多くの愛情を返してくれる可憐な彼女。そして、愛おしさに茎を伸ばし、葉を広げて男へと両腕を伸ばし続けている。だからだろうか、無条件に与えられる健気な彼女を愛するようになったのは。
「ねえ、峯さん」
「……なんです、」
「あれ、なんでちょっと不機嫌なんですか」
「いえ、別にそう言う訳じゃありませんよ」
「す、少し図々しかったですかね、」
そうじゃない。と告げられ、首を傾げていると、あなたのせいで調子が狂ってしまった。と人知れず色付く頬を隠すように、峯はなまえをよりきつく抱き締めるのだった。柄になく、きつい抱擁を交わす峯の真意など知らず、なまえはこのような時に抱き締めてくれる相手がいる喜びを噛み締めていた。
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