しとしとと降り続く雨の中を一人の男が訪ねてきた。それを迎え入れた女は大層驚いていたが、こんな悪天候の日に顔を見せた男のことを無下には出来なかった。灰色が斑などんよりとした昼下がり、花輪喜平はみょうじなまえの前に姿を現す。しとやかに降るものの、大粒の雨は花輪の肩などを濡らし、仄かに埃混じりの香りを漂わせている。なまえは雨が降る前の匂いが苦手だった。砂埃の独特な鼻を突く匂いに湿っぽさが加わった、やけに嫌な匂いだ。しかし、この時ばかりはなまえも平気だった。寧ろ、そんなことより濡れた箇所を拭かねばならないと気遣いを優先させていたくらいだ。
「なにも、こんな雨の日に来なくてもよかったのに」
嫌味などではなかった。純粋に花輪に悪いと思ったのだ。花輪喜平は月に一、二回はなまえに顔を見せる。その理由としては、あの大道寺が少し絡んでいるのだが、それでも花輪は組織のことを匂わせないよう、努めて普通に接していた。誠実さに胡座をかかず、また上手い嘘で誤魔化すことをしない。なまえにとっての花輪は愚直なほどに真っ直ぐな男だった。
「いえ、約束ですから」
良ければ、と手渡したタオルで雨水を拭っている花輪に、なまえは内心安堵していた。自身の気遣いが取り下げられずに済み、そして、それを花輪は躊躇いなく受け取ってくれている。ありふれた当然が当然であることがただただ嬉しいのだ。普段は苦手な匂いがこの時に限って何とも感じない理由はきっとここにあるのだろう。あまりじっと見るのは悪いからとなまえは一人席を立つと、気遣いの内の一つである飲み物を出そうと台所へ向かう。
なまえに、女に男の影は無い。花輪を除いて、誰一人としてなまえの本懐を知らないのだ。もっとも、花輪さえもなまえの深いところについては知り兼ねる部分もあるだろうが、この世でなまえのことをよく知るのは花輪喜平ただ一人である。雨に冷えた体を労る温かな茶でも良かったのだが、なまえは何故か冷たい茶を選んで運んで行った。じめっとした湿気が肌の熱を逃がさないからだろうか。
「これ、飲んでください」
「私に気遣いは無用ですが、いただきます」
「私にも気遣いは無用ですよ、花輪さん」
「あなたは自身の立場を分かっていない」
「立場なんてもの、知りません」
花輪は律儀な男だった。自身と他者の間に引かれた一線を決して越えることをせず、無謀を無謀だと正しく判断出来る男でもあった。だが、なまえは花輪のそこが惜しいと感じていた。誰だろうと自身の為に顔を見せに来る相手を喜ばない者はいない、なまえもまたそうだった。二人分の湯呑みを並べると、不要になった盆を下げる。すると、不意にとある部分がなまえの中で引っかかってしまった。
座する前に再び席を立ち、今度は花輪の傍に腰を下ろしては濡れそぼったタオルを手に、花輪へ問いかけるまでもなく、それを拭う。要するに拭き残しである。なまえは花輪のジャケットの水滴をやんわりと拭うと、次に引っ掛かったのは。
「花輪さん、少し触れても?」
「まだ濡れていますか」
「ええ、首の、この辺りが」
濡れたタオルを畳み直し、乾いた面を首筋にそっと押し当てる。なまえからしてみれば、なんの変哲も無いことだったのだが、ふと覗かせる花輪の表情になまえの胸中に雨雲がかかることになる。目を逸らし、どこか居た堪れないような顔をしている花輪を見たのはこれで何度目だろう。なまえは知っていた、花輪がその表情をする時に何を抱いているのか。そして、なまえはよく知ってもいた。このような時に自身が取れる行動が何かと言うことを。
「ねえ、花輪さん」
「なんでしょう、」
「私ね、女だけど勘があまり鋭い方じゃないの」
「……なまえさん、一体何を、」
タオルを握り締める親指で器用に花輪の首筋に触れる。もう片方の空いた手は花輪の輪郭に優しく添わせ、音を立てずに自身へと引き寄せる。
「だから、ちゃんと花輪さんの口から言ってもらわないと分からないんです」
男の輪郭に触れた指先で狼狽える下唇をなぞれば、花輪はいよいよ言葉を選ぶ他にない。明かしてくれるだろうか、一線を画す自身に花輪喜平は。逃れられないとレンズ越しの瞳がなまえの瞳を突き刺す。唇をなぞった指先は次第に首を過ぎ、鎖骨を過ぎ、青いシャツの胸元に触れる。拒まれるのを恐れずに一つずつボタンを外していくと、理性に、次を阻む大きな手に掴まれた。
軽蔑しただろうか、浅はかな女だと。愚かな行いだと。馬鹿な女のふりをする、どうしようもない女だと。雪崩込んでしまいたい欲を花輪にも口移ししていると。なまえからして見れば、この体のどこにも必要以上の価値はなく、明日を、今日を生きていくだけのものだ。だから、どのような使い方をしようと、それ相応の結果に落ち着く。
「……ッ、」
初めてだった、目の前の愚直で誠実な男がそのような顔をして見せたのは。強く絡め取られる感覚に意表を突かれ、次の瞬間には髪が乱れようともお構い無しに後頭部を手繰り寄せる男の手があった。徐々に湿気を増し、濃く漂う色香に中毒を引き起こす。優しくあろうとする手が強引さを孕んでいると知り、なまえはとめどなく溢れる情欲に目眩を覚えた。真に雪崩れ込みたいのは、誰か?たった一度の口付けでは飽き足らず、熱を、酸素を、劣情を、弱さを分け合っている。
背を畳に預けた先にある光景になまえは唇を噤む。はらり、と解れた前髪、自身の陰りの中でしっかりとこちらを捉えているレンズ越しの瞳、ボタンを外したせいで露わになる胸元、苦悩が滲む表情の花輪を放ってはおけなかったのだ。濡れた唇で名を呼ぶ。花輪は苦悩を完全に振り切れぬまま、なまえの柔肌に触れた。無骨な手が服を剥ぎ取っては腿をなぞり、日に焼けぬ白い腹部へと滑っていく。
なまえは、女は服を剥ぎ取られようとも男を拒むことをしなかった。寧ろ、愛おしさに目を閉じ、その手の行方を肌で感じていた。時折、小さく漏れるなまえの嬌声に花輪は貪欲に溺れることを選ぶ。どんよりとした雲、僅かに開かれた窓際のカーテン、縺れた二人を遮る居間のテーブル。衣擦れの音だけが部屋に響き、男は女を組み敷き、女は組み敷かれたまま男の愛撫を受け入れている。情欲に傾倒する男の悩ましげな姿を見ながら、女は意識を遠くへ追いやっていた。
今ではすっかり人の手が入らなければ、生きていけなくなった。人でありながら人とは遠い生き方を強いられているからこそ、この体に価値はない。そんな飼い慣らされた自身に真っ直ぐに向き合い、立場を重んじながらもその実、誰よりなまえの事情を重んじてくれたのが花輪だった。この男になら、何もかもを預けても、差し出してしまっても構わないと思えた。そう、たとえ命を繋いでしまおうとも。
「花輪さん、」
浅瀬の水面に溺れている花輪の名を呼べど返事はなく、なまえは少し考えた後にもう一つの名を口にした。すると、水浸しだった男は、花輪喜平はなまえの声に誘われるように自我を取り戻す。
「なまえさん、私は、」
未だ曇った顔をしている男の体をやんわりと押し倒すと、次は自分の番だと男を組み敷き、その上に雪崩込む。はだけたシャツがまどろっこしいと、いよいよ全てのボタンを外していく。その間の花輪はなまえを拒むでもなく、ただただ外されていくボタンと細い指先の行方を見ている。そして、再び男女は陰りの中で口付けを交わす。女の細い腰が逃げてしまわぬように男の太い腕が回され、女は男の厚い唇の感触を何度も吸い付いて確かめていた。
「私はしばらく別の任務につきます」
その言葉が意味するものを知っている、それはどちらともだ。先の続かない会話を捨てるよう、なまえは花輪の上から降りると、今度は向かい合うように横たわった。男と女の形をした二人が共に寝そべっている。乳房も下腹部も露わになった女と、ボタンが全て外され、腹部が露わになった男。女の乱れた髪が肌を遮り、黒檀のように美しく艷めく。男は体を起こすと、自然にシャツを脱ぎ去り、今まで一度も手にかけなかったベルトの金具に触れ、慣れた動きでそれらを取り外していく。
「だったら、会いに来なくてよかったのに」
「最後になるかもしれません。それでも?」
「こんなこと、望んでないくせに」
「……そうとは言い切れません」
私だって、なまえさんに甘んじている。今がそうです、あなたの誘いを断らなかった。
二転、三転と二人は体位を変え、やはり女は下に敷かれていた。だが、女は黒檀の髪を畳に広げながら、その瞬間を待ち侘びている。もう何度目の口付けになるだろうか。ここまで深く求められることは後にも先にもこれきりのような気がしていた。そして、二人は浅瀬から水底へと沈んでいく。情欲に濡れた陰部をゆっくりと押し広げられ、女は背筋が震えるのを感じていた。
女が悶える様を見逃さなかった男もまた体を震わせ、苦悩の全てと共に噛み締めていた。体の関係を持ってしまえば、互いの足枷になる。だが、たとえ重荷になろうとも構わないと思える相手を前にして、自身の何かを残そうとするのは愚かなのだろうか。自責の念なら既に持ち合わせていた。女が、なまえを先に手を差し伸べた時から、花輪は己の狡さを痛感していたのだ。
「あなたに嫌な役回りをさせてしまった」
自身が判断を下せないばかりに、なまえに馬鹿なふりをさせたと後悔を口にする。なまえは花輪の言葉に酷く泣き出したい気持ちに駆られた。そんなつもりじゃ、と言いかけたなまえの口を塞いだのは、不意に走る快楽だった。言葉はぶつ切りに断たれ、本当に伝えたい言葉を一つも伝えさせてくれない。拒んでいるのだ、なまえが責任を感じてしまわぬように。献身を聞き入れず、花輪という男が如何に身勝手であるかを証明するかのように。
深く、深く、追い詰められていく。肌の弾ける音、淫らに響く水音、行き場のない感情を抱いた二人の荒い息遣い。居た堪れない雰囲気から逃れようと体を捩る女を捉えて離さない男は、人としての営みを止めることはしなかった。このまま果ててしまえばいいと乳房を弄り、何度も呼吸を千切り、具合の良い膣壁を愛でている。女体に触れる度に、自身の下で喘ぐ女の姿に男は密かに満たされていた。
明日を選べないのはなまえだけではなかった。組織に属す花輪も同様で、刹那的な命の期限を誰も知らない。この行為が組織の意にそぐわないものだとは重々承知していた。それでも、一人の男として目の前の女を愛してみたかった。それ程までに花輪喜平はみょうじなまえに恋慕を募らせていたのだ。約束だと取り付けた密会は、花輪にとって一種の救済的な側面を持ち合わせていたことを、本人を除いて誰が知っているのだろうか。
どこまでいっても余裕のなさは拭えない。柔らかく温かな肉壁が繭糸のように纏わりつき、離れ難い快楽を連れてくる。花輪の反り立つ熱を飲み込んだなまえもまた、その穿つ熱に離れ難さを覚え始めていた。しかし、どれほど快楽の虜になろうともその瞬間はやって来る。今まで享受していた快楽が浅はかな欲望に終わりを告げる瞬間である。
自然と強ばる体、与えられる快楽から腰が引けていたのはなまえだった。逃れられる筈がないと分かっていながら、体を弓なりにしならせ、蓄積された快楽が弾けるのを恐れている。しかし、それを迎えようとしていたのはなまえだけではなく、花輪も同様だった。少しずつ迫り上がってくる感覚は背筋を伝い、二人の交わりをより深く、よりきつく結び付けていった。早まるピストン、絶頂までもう幾分もない。強ばりは体全体へ広がり、事を急いてばかりで後先を考えていない。
緩急一変。強ばりが解け、小刻みにびくびくと痙攣する体を抑え込もうとするが、弾けた快楽の余韻は大きく、そう簡単にいなせるものではない。女の膣は何度も収縮を繰り返し、男の足りぬ快楽を後押しする。きつく締まる感覚に遅れて男も達するが、その直前に膣から自身を引き抜くと、女の痙攣する腿に熱を吐き出す。鼓動と同時に吐精しては、強く押し寄せる快楽に震えていた。事が済むまで女の腿を汚している間、男は切ない疼きの存在を知る。女は男が吐精し終えるまで、だらりと体を弛緩させ、四肢に広がる余韻に浸っていた。
***
熱に塗れた沈黙の中、窓の外で降り頻る雨音を聞きながら、男と女の形をした体の心音を聞きながら、二人は身を寄せ合うと徐々に冷えゆく肉体を労わるように浴室へと向かうのだった。頭上にあたたかな雨が降る。同じ雨に打たれながら、女は二言、三言問い掛けた。男はたった一度だけ目を強く瞑ると、謝罪を口にしようとしたが咄嗟に真一文字に閉ざす。
──── また来月も、この部屋で待ってますから。
シャワーの水音に消えてしまいそうな声で、次を強引に結びつけたのはなまえだった。そして、こう続ける。
「花輪さんは真面目な人だから、約束さえしてしまえばきっと守ってくれる」
だから、必ず会いに来てくださいね。と簡単に体と腿に残されたままの精を洗い流し、なまえは浴室を後にする。その場に取り残された花輪は一人呟く。
「……本当にあなたに全てを任せてしまった。つくづく情けない男です、私は」
前髪が額や頬に張り付くのを腕で拭い、なまえの後を追うように手短に体を洗い流すと、すぐに浴室を出て行った。
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