佑天飯店に来た子に一目惚れする趙天佑



 まさに運命的な出会いと言っても過言ではなかった。実際のところ、趙自身も驚きを隠せないでいる。何故なら、あまりにも刹那的な確信だったからだ。すると、途端に中華鍋を振る手が止まる。しかし、料理人として半端なものを客に提供するわけにはいかないと、注いだ油に包まれながら揚げ焼きになっている素材に火を通していく。その間、趙はサングラスの奥の瞼の裏にただの客である彼女の姿が甦るのだった。

「ごちそうさまでした」

 その声の主が本日の最後の客である。名も知らない相手に惹かれることなど、現実的な話ではない。だが、確かに惹かれている胸の内を誤魔化せるほど趙は大人ではなかった。一目惚れというやつである。よりによって店に来てくれた客へそのような、邪な思いを抱かされるとは。料理人失格の五文字が脳裏に浮かぶ。毎度どうも、とその場では普段通りの飄々さを取り繕えたが、自身からすれば充分ぎこちない態度だったと痛感させられる。さっさと本日の営業を切り上げ、すっかり無人となった店内で一人カウンター席に腰掛けては、頬杖をついてただただ考えるばかりだった。

 出会いは少し前へと遡る。その日も趙はいつも通り、腹を空かせた客に自身の手料理を振る舞っていた。異人町には横浜を代表する、かの有名な中華街があるものの、舌の肥えた客がこぞって来店するのはこの佑天飯店だった。大々的な宣伝をせずとも自ずと噂を聞きつけた客がやって来る、隠れた名店である店に彼女も足を運んだのだ。ライス、炒青菜、焼売。そして、極め付けには生ビールを注文したのを今でも覚えている。その理由としては、店内にいた客の誰よりも嬉しそうに料理を楽しんでいたように見えたのだ。
 美味い、この店の料理は最高だ、などと賞賛の声は今までも多く貰って来たと言うのに、その日の彼女は密やかに自身が注文した料理を一人で楽しんでいた。正直、会計の際に料理の感想を告げてくれる客よりも趙は彼女に興味を抱いていた。手始めに生ビールのグラスを傾け、まるで自宅にいるかのように気持ち良さそうにビールを流し込んでいく姿。焼売を半分に割り、少々のからしとテーブルに備え付けの醤油をつけて食べた時の嬉しそうな表情は今でも忘れられない。あれほどまでに自身の料理を堪能してもらえたなら、趙としては料理人冥利に尽きるの一言だ。

 それからは彼女は度々、佑天飯店を訪れるようになり、趙の片想いの日々が始まった。初めは厨房から時折、目線を向ける程度。やがて、彼女への一皿にさりげなく個人的なこだわりを詰め込んでは、後で一人の客に肩入れする自身へ反省する日もあった。徐々にしっかりと彼女を捉えるようになった思いを趙は未だに明かせずにいる。だが、この趙の行動により、彼女の様子も緩やかに変化を迎えることになる。

「今日も美味しかったです。ごちそうさまでした」
「そりゃ、うれしいね。俺も作り甲斐があるってもんだよ」
「え、お兄さんが作られてるんですか?」
「意外だった?へへ、よく言われるんだよね」
「ごめんなさい、私てっきり……」
「てっきり?」

 ほ、ホールのスタッフさんかと……。と彼女は視線を下に落として、本音を明かす。人は見かけによらないってことだね。と趙は全く意に介さない様子で笑いかけ、彼女の本音を上手くやり過ごして見せた。これが趙と客の一人であった彼女との邂逅である。この日を境に、二人は少しずつ距離を縮めていくことになるが、あくまでも店主と客という関係からは脱却出来てはいなかった。距離を縮めると言っても、会計の時に顔を合わせては少し会話をする程度だった。可能ならば、彼女の来店に合わせて店を閉め、そのまま時間が許すまで二人で話をしたいが、そうも言ってられないのは嬉しい悲鳴なのだろう。
 佑天飯店の噂は異人町のみならず、口コミによってあちこちへ広まっていたのだ。横浜の伊勢佐木異人町に隠れた名店があると、日々佑天飯店は繁盛を極めていた。そういった事情から、客でごった返す店内で彼女だけに意識を向けることは困難になっていった。しかし、初めの頃と変わらず、彼女への一皿にかける情熱やこだわりだけは不変とした。そうでなければ、この多忙さに彼女への気持ちを殺されてしまうような気がしたからだ。

 だが、多忙を極めた時点で趙が下したのは休業という決断だった。何も繁盛する店が嫌になったのではない。元々、熱くなれない性格だったことを思い出し、思い切って一時的に店から離れることにしたのだ。その決断は、同時に彼女との繋がりが失われること意味していたが、最近は店の混雑により彼女の姿も見えなくなってしまったこともあり、しばしの間休みを取ることにしたのだ。休みの間は嫌と言うほどに羽を伸ばして過ごしていた。前々から嗜んでいたダーツに本腰を入れてのめり込み、仲間とサバイバーで顔を合わせては共に近況を語り、ソンヒの元を訪ねてはかつての部下達の様子を見たり、と悠々自適な日々を送っていた。住み慣れた異人町を何者でもない自身一人で歩くことの気軽さに趙は珍しく、海浜公園付近まで足を運んでいたのだが、そこで偶然にもかつての一目惚れと再会することになる。
 海風の心地よい公園内にはそれらを堪能できるテラス席が常設されたカフェがあり、彼女とはそこで再会したのだ。テラス席でサンドイッチを食べる彼女に気付いてからは、趙は迷いなく彼女の席へと近づいて行く。すると、一人で食事していた彼女も何かを感じたのか、不意に趙を視界に捉え、大きな一口を諦め、手にしたサンドイッチを皿に戻しては驚いた顔をしていた。

「ここ、俺もお邪魔していいかな?」
「ええ、どうぞ。丁度、私ひとりでしたから」
「ありがと」

 久しぶりに再会した彼女は海風に髪を靡かせ、店で会った時とは印象が違うように感じられた。そして、相変わらず食べることが好きなのだと一目で分かるほどに、幸せそうな顔をして食事しているのが趙は内心嬉しくもあり、一目惚れの意味を思い出すきっかけとなっていた。

「久しぶりだよね、ちゃんと元気してた?」
「はい、店長さんは?」
「俺は忙しくしてたから、よく覚えてないや」
「お店、すごく混んでましたもんね」
「そ。だから、俺も疲れちゃって店休んでるんだよね」
「この間、お店に行ったら休業中の札があって心配してたんです」

 でも、元気そうで安心しました。……心配してくれてたの?ええ、心配してましたよ……!だって、近くを通りかかったら、いつもみたいな人の列もないし、お店は休業中ってなってるし。そっか。ごめんね、心配させちゃって。いいえ、店長さんも大変だったと思いますし。
 互いのことなど大して知らない関係でありながら、こうして話をしている時間が一番心地よいと感じているのは、あの頃に求めていたものを今になって手にすることが出来たからなのだろう。失くしたとばかり思っていた繋がりは今もしっかり生きており、二人の間に穏やかに流れていく。これを幸せと呼べるのなら、趙が次に取れる行動は一つしかない。椅子の背もたれに体を預けると、彼女にばれることのないよう、深く息を吸う。

「ねえ、もしよかったらなんだけど、」
「はい?なんでしょう」
「今からウチ行かない?」
「でも、お店は休業中じゃ、」
「お姉さん見てたら、なんか作りたくなっちゃって」

 どうか、断ってくれるな。真っ直ぐに思いを伝えることなど慣れていない趙は祈る。彼女の手元には半分程度残されたサンドイッチ、可能性は極めて低いのかもしれない。だとしても、今を逃してしまえば次の機会がいつ来るかなど予想もつかない。だからこそ、趙は賭けに出ることにしたのだ。今、ここで伝えなければ再び後悔するだろう。ぽかんとした彼女の表情からは答えが読み取れない。

「……わたし、食べたいです。店長さんの作る中華、好きなんです」

 彼女の言葉と共に趙の体が椅子からずり落ちていく。慌てて無事を問う彼女に大丈夫だと告げ、姿勢を直すと素直にうれしいのだと口にした。そして、この日まで抱えてきたものをようやく明かすことを選ぶ。

「実はさ、俺、お姉さんの食べてる姿が好きでさ」
「私のですか……?」
「うん。だって、すごく美味しそうに食べてくれるでしょ」
「昔からよく言われるんです。おいしそうに食べるねって、」
「こんなこと言っちゃったら、軽い男だって思われるかもしれないけど」

 何故だか、今なら言える気がしたのだ。彼女からしたら、脈絡も、突拍子もない唐突な告白を。

「一目見た時から気になってた。……はは、ごめんね。変なこと言って」

 自然と握り締めていた自身の手を彼女は気付いていたのかもしれない。上手くもない笑みで場の空気を紛らわせようとしたのを知っていたのかもしれない。ごめんと添えて必要以上に傷付きたくない狡さを彼女は許してくれたのかもしれない。何にせよ、気が気でないのは事実だ。

「それじゃあ、エビのチリソース煮が食べたいです」
「エビのチリソース煮?」
「お店に行ってた頃、いっつも終わっちゃってたから、まだ食べたことないんです」
「いいよ、作ってあげる。他にリクエストとかある?」
「あの、店長さんにこんなこと言うの、変かもしれないんですけど」

 一緒に食べませんか、ご飯。
 伏し目がちな彼女に気付いたのはこの時だった。いつから彼女は憂いげな表情をしていたのだろう。趙は目の前で起きる彼女の変化に追い付けないでいる。海風が強く吹き付ける、いつまでもこのような場所に居るなと叱咤するように。彼女の言葉の意図が読めないながらも、折角の誘いを断れるほどスマートな大人ではない自身の我儘を優先させたのは趙天佑、本人だった。

「今日だけはお姉さんの貸切にしよっか」
「い、いいんでしょうか。こんな贅沢なこと、」
「いいの、いいの。あの時、散々通った客は今頃、別の店に現を抜かしてるんだから」
「わ、私、あのお店がどんなに有名になっても、通い続けますから」
「ありがと、お姉さん優しいね」

 そういや、自己紹介まだだったよね。確かに。ごめんなさい、気が付かないで。
 こうして趙はようやく店主と客の関係から脱却し、知人、友人へと步を進めることに成功する。趙の料理の熱心なファンである彼女の名はみょうじなまえと言い、今は素っ気ない左手にやがてプラチナを贈られることとなる人物である。この時のことを趙に訊ねると、必ずと言っていいほど照れ臭そうにするのは、なまえが人生で初めて一目惚れした相手だったからと明かすのである。



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