支配人真島吾朗と精神安定剤のような女の子 冬の肌を刺すような夜風に頬を撫でられる。暖かな部屋を出た体の体温が徐々に奪われていくのを、諦観を滲ませて受け入れていた。懐から漁った煙草も残り僅かで、その内の一本を燻らせて溜息混じりに煙を吐く。グランド屋上の喫煙所で真島吾朗は一人、蒼天堀の夜に屯していた。いつまでもこの街に、このような場所に居続けて良いわけが無い。一刻も早く親である嶋野の元に戻り、兄弟分である冴島の為に動きたかった。しかし、この首に括られた首輪は中々解けず、もがけばもがくほど自身の首を絞める忌まわしいものだった。
グランドのオーナーであり、嶋野と代紋違いの兄弟分である佐川は真島の自由を決して許さなかった。直接、そう言われたわけではない。暗に、そう告げているのだ。押し付けられるノルマを達成しようとも、真島に待ち受けるのは更なる上乗せされたノルマ。支配人としての働きは評価されども、決して極道に戻ることを口にはしなかった。まるでカタギになった真島の頑張りを嘲笑うような立ち回りをする佐川に、真島は気が滅入るようになっていた。
唯一の救いである蜘蛛の糸を垂らしておきながら、いつでもその糸を手放すことを厭わない。佐川という男は何度も蜘蛛の糸を眼前にちらつかせることで、従順な飼い犬を手中に収めたのだ。夜の帝王と持て囃される自身は、誰の目から見ても全てを手にした成功者のように映ることだろう。
極道としての矜恃を失い、兄弟分である冴島を失い、自身の選択肢の代償として左目を失っていながら、手にしたのは偽りの栄光である。その栄光は所詮ただのガラクタに過ぎない。真に価値のあるものならば、何故、真島吾朗を蒼天堀から解放してやれない?何故、嶋野や佐川は自身の帰還を許してくれない?
「あの、」
すっかり傷心づいていた自身が他者の存在を認識するのに時間がかかってしまったのは、狭いこの場所を訪れた女が真島にとって予想外の相手だったからだ。
「……ここに居るんじゃないかって思って、」
夜色の髪を冬の風に靡かせた女は外が寒いことを失念していたのか、それとも全く意に介せずに屋上へとやって来たのか。露出された肌が寒々しいドレス姿で、真島の元へと歩み寄った。
「どないしたんや、まさかトラブルか……?」
女はふるふると首を横に振ると、暗がりで握り締めていた一つを真島に差し出した。それはブラックの缶コーヒーで、手のひらがじんわりと熱くなっていくのが分かる。やがて、その熱さが耐え難いものになると、真島は咄嗟に煙草を消そうとした。目の前にいる女はキャバレーで働いてはいるが、煙草を口にしない相手だと言うことをようやく思い出し、まだ先の長い煙草の火を灰皿に押し付けて捻じ消そうとしたのだ。すると、
「私のことは気にしないでください。お客さんので慣れてますから」
真島のことを気にかける素振りで、女は近くの吹き曝しのベンチに腰掛けると、手元に残されたもう一つの缶コーヒーに指をかける。充分に温められた缶から伝わる熱に手を焼きながら、女は開けたコーヒーを傾けた。一口、二口を飲み下せば、離れた唇より白い吐息が目立って見える。
「……さっきまでオーナーが見えてましたね」
「ああ、俺に話がある言うてな」
「大丈夫ですか、支配人」
みょうじなまえという女は他のキャストと違い、あまり目立つタイプの女ではなかった。夜の街を照らす蝶は皆、それぞれが眩い輝きを放つよう自身の強みを生かす。風貌、話術、テクニック……とキャストによって強みは異なるが、その中でもなまえは特段目立つような強みを持ってはいなかった。口下手で人と話すことに慣れていない、人見知りの内気的な女。それがみょうじなまえだった。素朴な顔立ちとその控えめさが何となく意識の隅に残る、そんな女だった。
缶コーヒーを飲み始めたなまえに釣られて、真島も手元に残した煙草を結局は消してしまい、それからなまえの隣に腰掛けた。そして、遅れて缶コーヒーを傾ける。なまえは真島の気遣いに僅かに笑みを浮かべたが、俯いていたが故に真島にはその感情の機微が見えなかった。
「本当に良かったんです、煙草のこと」
「吸わへん女の子の前で煙草吸うほど、俺も節操無しやない」
真島の言葉に小さく頷くと、なまえは自身の膝上にある、両手で握り締めたコーヒーを見つめていた。もし、なまえが社交的な人間だったなら、そこから会話を弾ませ、夜の落ち込んだ雰囲気を忘れさせてくれただろう。だが、変に取り繕わず、沈黙を沈黙として受け入れ、口を閉ざすことの出来るところがなまえの良いところだと真島は認識していた。
「おおきにな、なまえちゃん。丁度、一人で寂しくやっとった」
「オーナーが見えた日の支配人は、その、」
どこか辛そうに見えるのだと、なまえは口にした。控えめな女の瞳が暗褐色か、真っ黒なのか分からないほどに外の暗闇は二人の色彩を覆い隠している。女はなまえの一言に揺さぶられた真島の顔色を知らず、男は自身まっすぐに見つめるなまえの凍える頬や鼻先の赤みを知らない。二人の間には夜の黒と吐息の白だけが漂っているばかり。
「ほんまに女の子っちゅうもんは、男をよう見とる」
真島も決して、そのような様子を明け透けにしていたわけではない。寧ろ、誰にも悟られぬよう振舞ってきたつもりだった。だが、それでも相手のしまい込んだ感情の一端に触れる人間が存在する。特に、なまえのような物静かな女性ほど、他者の内心を察することが多い。そして、その物言わぬ優しさに後から救われていたと気付くのだ。思えば、佐川が店に現れた日にはいつもなまえが声をかけてくれたような気がしている。
「せやけど、相手のことばっか気にせんと、なまえちゃんもあったかい恰好せな」
「……ですよね、今すごく寒いです」
「なら、中戻るで。俺のおしゃべりでなまえちゃんに風邪引かせてもうたら、ウチは大赤字や」
わかりました。と頷くなまえを他所に、真島は粟立つ冷ややかな女の肌から目が離せなかった。一刻も早く室内に戻るべきだと理解してはいるものの、二人きりの密やかな時間がこの胸の傷を塞いでいる。店の人間が、同じ店のキャストに肩入れするものではない。グランドの支配人を務める真島は今まで一度たりとも自身の公平さを欠くことなくキャスト達と接してきた。
「……支配人?どうかしましたか、」
だが、一人では慰め切れない寂しさに見舞われた時、ふと人恋しくなる。たとえ、どんなに人望があろうとも、深く根付いた孤独を癒すことはない。しかし、だからこそ、男は女に自身の弱音を預けるのだろう。それは酒の場で、男女の場で、予期せぬ場で。寒さに震える華奢な体を強く抱き締め、許して欲しいと懇願出来たなら、どれほどよかっただろう。不純な動機であっても、彼女は、なまえはそれを快く受け入れてくれるだろう。
「客がなまえちゃんを指名する気持ち、よう分かったわ」
「仕事の話ですか……?」
「こない優しくされたら、そらぁ嬉しなるわ」
「大袈裟ですよ、そんな」
「このコーヒー、今までで一番美味かったで?」
おどけるように問い掛ければ、なまえは気に入って貰えてよかったと本心を明かす。本当は不安で仕方なかったと言うなまえは、この屋上に足を踏み入れるのにさえ時間がかかってしまったのだと。もし、自身の勝手な思い込みに過ぎなければ、真島に対して過剰な詮索をしたことになる。それだけがただ怖かったとこぼすなまえに、真島は席を立つとその手を取り、室内へと戻って行く。すると、なまえを探していた素振りのボーイが慌ただしく告げる。
「なんや、えらい慌てて。何かあったんか」
「いえ、なまえさんをご指名のお客様が見えて、探していたんです」
「じゃあ、私、そろそろ行かないと、」
凍えた柔肌の背中に優しく触れ、気張りや、なまえちゃん。とさりげないエールを送れば、赤らんだ頬と鼻の頭があどけない純朴だった女が夜の色気を纏い始める。この時ばかりはなまえが人見知りの内向的な女であることを忘れてしまうほどに、立ち振る舞いは佳人そのものだった。
行ってきます、とボーイと共にその場を後にしたなまえの背中を見送ると、真島はまたしてもさりげない優しさに胸の傷を塞いでもらったことに気付く。依存すべきではない、彼女の優しさに。依存すべきではない、彼女の居場所に。依存すべきではないと結論が出ているにも関わらず、真島がなまえに対して思うのはいつも ──── 、
「あの子がおらんかったら、今頃、俺は、」
先の見えぬ暗闇に身を投じ、あとはただ生きるでもなく、死ぬでもなく、薄ら冷たい檻の中で息絶えるその時を待ち侘びる。幾度となく刃を突き立てられ、切り裂かれた胸から溢れる血を一滴残らず掬い取ってくれる彼女がいなければ、今この場に自分はいないだろう。勝手に寄り掛かることを許してくれる相手へ抱く感情を何と呼べばいいのか、真島吾朗は知らない。なまえもまた、どこか放っておけない相手の弱さを庇う理由を知らないでいる。そして、夜がまた知らん顔で二人の間を、一度限りの今日を通り過ぎていくのだ。
やつれた捨て犬の慟哭は街の喧騒に掻き消され、夜はただただ寡黙に深まっていった。
| 祈りを数えて |back