杉浦文也に溺愛される



 この世で一番、美しいと思える人と出会った。太陽に透ける髪はブラウンが柔らかく風にそよぎ、曇ることを知らない表情は天真爛漫さそのものだった。彼女が言葉を紡げば、それがやけに心地よく、彼女が歩いた道の全てが名画のような風景画へと早変わりする。つまり、何が言いたいのかと言うと、底なしの愛情を拗らせながらも、健やかな幸せを育みたいと考えている。
 可憐な桜に誘われて小さなランチボックスを二つ片手に飛び出した春。熱視線の日差しから逃れるようにあまり広くない部屋の日陰に体を捩じ込んだ夏。読書、食欲、芸術、スポーツ……と名の知れた代名詞であるそれらを二人で堪能した秋。静電気を恐れていながらも、身を寄せ合った時のささやかな温もりが愛おしかった冬。一年がたった三百といくつしかないことを惜しむほどに、目まぐるしく鮮やかに時間は流れていく。

「文也くん、早く早く」
「もう、そんなに慌てなくても着いてきてるよ」
「ここの観覧車、ずっと乗ってみたかったの」
「知ってる。だから、ここを最後の場所にしたんだ」

 足取りは軽やかに。しかし、内心はどことなく不安に高鳴っている。出来ることなら、彼女にとって格好よくありたいと願うのは、身の丈に合わない背伸びじみた思いだろうか。数年前までは外の世界に踏み出すことさえ億劫に感じる人間だった。それこそ、その時にしか得られない眩さを切り捨てるような閉鎖的な人間であった。しかし、身内の事件をきっかけに恐れてすらいた外の世界へ飛び出し、たった一つの隠された真実を解き明かしたのだ。
 そして、不思議なことに今では横浜の異人町で探偵業を営んでいるのだから、人生は不可解な事件の連続である。もちろん、なまえとの出会いも予期せぬ事件の一つとしてカウントしても良いだろう。逃げ出した飼い猫探しを請け負ったことで、二人の関係が親密なものへ変わるなど誰が予想出来ただろうか。

 海沿いの拓けた空がオレンジ色のグラデーションに染まり、ネイビーの濃淡と混ざり合う。横浜で有名なこの観覧車は日没と共にイルミネーションのライトアップが始まる。青空が快活な日中に来ても良かったのだが、恋人とのデートにはほんの少しの不健全さも盛り込みたかった。夜の中でしか囁けない言葉もあるが、何より夜に染まる彼女の姿が目が離せないほどに綺麗だった。
 早る気持ちを控えめに彼女の手を取り、観覧車へと向かう。二名分の料金を払い、丁度正面にやって来たゴンドラへと乗り込めば、多少の揺れに驚きつつも賑やかな雰囲気に包まれ、窓の外の景色は徐々に上昇していく。まるでミニチュアの模型のように小さくなった街を見下ろし、誰よりも夜空に一番近いところへと揺られたところで、自身の反対の席へ座る彼女へ行動を起こす。

「ねえ、こっちに来なよ」
「文也くんのとこ?」
「こっちから一緒に見よう」

 返事をするよりも自然とこちらへ身を寄せる彼女に、ありふれた幸せの意味を知る。夜空に近ければ近いほど、街灯りや観覧車を彩るイルミネーションの輝きが限りなく美しさを増幅させていく。偏った重さのゴンドラは二人を夜空の天井へと誘い、上り詰めていった。あまりにも窓の外の夜が深いからか、彼女は不安そうにこちらを振り向くと自身の姿を確かめては安堵の笑みを浮かべる。
 どうしたの?ううん、なんでもない。何気ない会話はただの口実だ。彼女が感じた物寂しさは自身も同様に感じていたのだから。まるで二人きり、世界にぽつんと取り残されたような、素朴な寂しさを分かち合う。そして、その寂しさに触発される思いがある。いつかは明かしたいと願っている、杉浦文也の前身だ。どのようにして、今の自身になったのか。何が自身を変えさせたのか。いつかその全てを彼女に打ち明けたいのだ。

「なまえちゃん、」
「ふふ、どうしたの」
「今、ほんの少しだけ寂しかったでしょ?」
「うん、どうして分かるの?」
「それは僕も同じだったから」

 惜しみなく笑顔を向ける彼女の瞳の中の自身が、やけに幸せそうに見えた。すると、次に口を開いたのは彼女で、その一言に実った後も募り続ける片想いの深度を気付かされる。

「……覚えててくれてありがとう」
「そりゃあ、一応なまえちゃんの彼氏だし」
「一応じゃないよ、ちゃんとした私の好きな人」
「面と向かって言われると、照れるね」
「今日の文也くん、楽しそうで嬉しかったなあ」

 初めて出会い、互いを知った時から長い片想いを重ねてきた。本来、奥手である人間だからこそ、彼女との距離を慎重に詰めていき、ようやく隣人に成り得たのだ。彼女の傍に居ると、世界は美しくその姿を変えていくのだと知らされた。より透明に、より鮮明に、より繊細に映る世界にはいつも彼女、みょうじなまえの姿があった。

「僕も観覧車なんて、小さい頃にしか乗ってなかったから」

 愛すべき隣人を抱き寄せる。このゴンドラには二人しかいないのだから、人目を憚らず恋人らしくしても許される気がした。彼女は驚きに目を丸くしていたが、予期せぬ触れ合いを喜んでもいた。されるがままである彼女を抱き寄せ、素直に努める。辺りの風景画には眩い色とりどりのイルミネーションが散りばめられ、それぞれ思い思いに輝く。

「……好きだよ、どうしようもないくらい」

 心を口にした。人は溺愛を過ぎるとどのような末路を辿るのだろうか。

「だから、いつか。いつか、僕の昔の話を聞いて欲しいんだ」

 彼女を除いて全てを預けられるような出会いは、この後にも存在するのだろうか。

「もしかしたら、その話を聞いたらなまえちゃんは、」

 たとえ、この先に彼女の姿がなくても構わなかった。溺愛を過ぎた結末がそうであったとしても、二人が決めたことなら喜んでその結末を受け入れたいと思う。だが、もしそれでも自身の隣に居てくれるのなら、杉浦文也ではなく、寺澤文也であっても良いのだとしてくれるのなら、

「それじゃあ、いつか私の昔話も聞いてくれる?」
「なまえちゃんの……?」
「文也くんが遠慮しないでその話が出来るように、わたしも、」

 情けなさ半分と愛おしさ半分。彼女の言葉を聞き終えるよりも先に、彼女の華奢な背に顔を埋めていた。自信などいつの時だって持ち合わせていなかった。ただ最悪な展開にならぬよう祈るばかりで。内心から込み上げる感情はどこか涙混じりだが、そればかりでもない。強引に涙の匂いを押し殺し、顔を上げた先に見えた街の景色がぼやけて水彩画のように流れて行く。

「文也くんが思ってるより、私も文也くんのこと好きだよ」

 どうしようもないくらい。寂しげな手に、温かく細い手が重なる。その手が触れていると、感情の波は穏やかにさざめき、ほんの少しの安寧を与えてくれた。ゴンドラが観覧車の一番上までやって来ると、不意に湿った空気をどうにかしたくて抱き締めていた彼女を解放する。
 そして、振り向きざまに自身の輪郭を彼女の輪郭と重ね合わせ、口付けを交わす。音のない時間だった。静寂の中、愛おしい隣人へ最愛の意味を説く。すると、今になって恋人も『らしい』ことをしたくなったのか、席に膝をついてはその柔らかな胸元へと誘われた。とくん、とくん、と彼女が彼女として生きている音を聞き、揺りかごの中の愛し子のような優しさに抱かれていた。

「駄目だなあ、僕」
「そんなことないでしょ、」
「ううん、本当はここで格好つけたかったのに」

 格好つけてどうするつもりだったの?もっとなまえちゃんに好きになってもらおうとした。まだ足りないってこと?……へへ、意外と僕も欲張りなのかも。私の方が欲張りだし、我儘だよ。それがなまえちゃんの可愛いとこでしょ。……そう、かな。へへ。
 自然と解けた抱擁を惜しむことなく、今度は隣合って座ると地上へ連れ戻していくゴンドラから見える風景を二人で見ていた。まるでミニチュアのようだと感じられた遠い景色をすぐ近くに感じつつ、互いの手を握り締めている。そして、一周を終えた観覧車から出ようとした時だった。あとは降りるだけだと思い込んでいる恋人の頬に唇を押し当ててすぐ、ゴンドラを足早に降りていく。

「ふ、文也くん……!い、今のって……!」
「よかったね、次のお客さんが居なくて」

 ただ手を引かれるがままの彼女を見れば、予想外の出来事にうっすらと頬を赤くさせている。イルミネーションを背景に、可憐な少女の顔をしている彼女に胸の奥で小さな火花が散る。この一瞬だけではなく、今までに何度もこの胸の奥で小さな火花が散り続けてきた。そして、その後に残るのは彼女への降り止まぬ恋慕。まるで終わりのない線香花火のように、何度も淡い閃光を放ってはいつだって彼女だけを見つめているのである。



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