桜の雨にぶつかりながら、道の隅っこに広がる桜の花びら溜まりを避けて歩く。うっかり踏んでしまえば、何故か落ち込んでしまうような気がして。彼女らは図らずもその身から一枚一枚、美しい鱗を剥がしては夏の装いに変わる。初夏の訪れ、たった一人、自分だけが上手く着いていけずにいる。
春雷、吹き荒ぶ風。たっぷりと蓄えた鱗は風に散り、アスファルトに渦巻く。遠くに見える青空の端に薄暗い雲の到来を知り、これから降るのかもしれないと思うと、先程まで気にかけていた花びらなど忘れて家路を急ぐ。花が散った道の香りは少しだけ苦手だった。どこか湿っぽく、どこか寂しげで。
こんな時、ふと思うのは恋人のことだった。世間は歓迎しないだろう相手を、好きになってしまった。互いの棲処は違えど、同じ人間だった。笑い、泣き、怒り、悔やみ、自身となんら変わらない同じ人間だったのだ。責任だとか、代償だとか、小難しい話を天秤にかけることは出来たものの、実際自身が生きる上でそれらとはまだ顔を合わせていない。
安穏とした世界に生かされている気がした。愛の微睡みに現実が見えていないだけなのかもしれないが、これを悪い熱の日々だとは言い切れなかった。顔を合わせれば、互いを傍に置いた。声を聞けば、互いを思った。肌が触れれば、互いの愛おしさに溺れていった。
──── 愛を説く。
どのようにして今の自分がいるのか。生い立ちを明かし、相手の懐に足を踏み入れる。古傷に触れ、刺青に触れ、未だ底知れぬ男の過去を知る。そして、色褪せてしまわぬように男女は自身の存在を互いに刻む。
やがて日々の営みの中心に相手を据えると、変哲のない日常を送るようになる。時にはすれ違い、互いを邪険にする夜もあった。涙を拭い、後悔を噛み砕いて飲み込めば、次の日にはいつもと変わらない関係に戻れた。
だが、日常の一部である恋人を、この世の理不尽などに奪われたくないと恐れる夜を覚えた。心臓ごと掴まれるような悪夢に魘され、隣に眠る恋人の胸に耳を当てて、自身を慰める。生きている音がする度に悪夢を悪夢であると認識出来るのだ。そんな時に限って、優しく抱き締められるものだから、酷くやるせなくなる。
自身の無力を呪い、ただただ明日も、その先も一緒に生きていけたならいいと願う。訃報めいた言付けに命さえも投げ出してしまいたくなったが、いつだって彼は帰ってきた。たった二人だけの棲処へ。そして、今、自身も遅れて彼の元へと向かっている。たった二人だけの住処へ。
「ただいま」
玄関先に慎ましく置かれた男物の靴に、一人はぐれていた日常に戻ってこれたような気がして、自然と早足になっていく。だが、早足がぴたりと止まったのには理由があった。それは愛おしい男がこの聖域で寝息を立てて穏やかに眠っていたからだ。早る気持ちがゆっくりと引いていく、さながら波打ち際のように。束の間の休息を邪魔したくないからと、女は少し離れたところの床に物音立てず腰を下ろした。
寝息を立てる横顔を見つめていられる幸せを手にした。無防備な姿を晒してもいいと思われる幸せを手にした。当然に近しい日常はこのようにして作られていくのだろう。互いに一つずつ何かを許して、預けて、それすらも許容されていくことの繰り返しなのだと。
ふと、カーテンの隙間から外を覗けば、真っ青だった空に淀んだ雲が押し寄せていると知り、早くこの空を覆ってしまえば、この部屋から彼も居なくならないだろうに、などと刹那的な物思いに耽ける。このささやかな我儘も何故だか愛おしい。やたら滅多に見せていいものではないと理解しているからこそ、不意に顔を見せる小さな、しかし、確かな強欲さえも受け止められる。
──── あなたは春の日の木漏れ日だ。
仄かに肌を温める優しい日差しそのものだ。寒さに凍えたこの身を温めてくれるだけでなく、心許ない時に、小さく弱気な背中を押してくれる勇気そのものだ。
──── あなたは夏の日の海辺だ。
緩急のある夏空と共に大きく構える、海辺の波だ。時に渦巻く嵐のように荒々しく、時に凪ぐ水面のように優しく、そして、時には言葉なく静観することの出来る雄大な海そのものだ。
──── あなたは秋の日の色づく街路樹だ。
季節が巡る度に装いを変え、いつも美しくあろうとする強かな樹木のようだ。緑溢れる生命力を、日照りにも弛まぬ強さを、木枯らしと共に並んで歩く軽快さを、細い枝先になろうとも折れぬ芯を持ち合わせた新緑の息吹だ。
──── あなたは冬の日の凍てつく薄氷だ。
優しさだけでは罷り通らない現実に立ち向かうことの出来る鋭利な一片だ。だが、その身が溶けゆくことさえも厭わない、他者に寄り添うことの出来る熱を秘めた冬の人でもある。
もし、この先の人生で自身の選択肢に後悔を抱くことがあるかもしれない。そして、それを過ちだと思い込んでしまうことがあるかもしれない。だが、あなたの隣にはいつも誰かが寄り添っている。たとえ、この手で触れることが叶わなくとも、確かに傍にいるのだ。目に見えずとも、声を聞けずとも、必ずあなたの支えになってくれるだろう人が。この現代にまだ幸せの答えがないように、定義が不可能なものが存在するのだから、あまりにも背負ったものが大きく、重たくなり過ぎた時には、そのような曖昧なものに甘えてしまってもいいはずだ。
さて、ここまで読んできたものの、未だにこの話が一体誰に向けてのものなのか、相手は誰なのか分からないままになってしまっている。この物語には誰の名前も記載されておらず、明確な相手は存在しない。ただ、この書き方を逆手に取ることが出来たなら、相手は誰でも良いということになる。たとえば、今まで誰かが描いた数々の作品に登場してきた彼であっても、今までたった一つの作品にも出会えなかった彼であっても良いのだ。
つまり、あなたは今、最愛の寝顔を見つめており、この瞬間にも日々の中に根付く幸せを手にしている。同じ屋根の下で顔を合わせる喜びの全てを持ち合わせている。そして、あなたと最愛の幸福たる日々はこれからも紡がれていく。
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