「本当に靡かねえよなあ、お前」

 二人きりのバーカウンターで、男が肘を着く。雰囲気はさながら恋愛に発展する直前の男女のものだが、男の真隣に座る女はあっけらかんとした顔でこう言い放つ。

「だって、染谷さん、ヤクザじゃないですか」
「はっきり言ってくれるねえ」
「とっても大切なところですよ、相手がどういう人間なのかは」
「その割には付き合いが良いじゃねえか」
「そりゃあ、お友達ですから。私と染谷さんは」

 ……友達、ねえ。と不服であると言わんばかりに顔を顰めたのを見ても尚、女はその場を取り繕うような言動をしなかった。ただ口の端を僅かに持ち上げ、満更でも無い顔で手元のグラスを傾けている。二人が出会ったのは、一年前のこの店のこの席だった。当時、一人で飲みに来ていた染谷が、同じく一人で飲んでいた女が輩に絡まれていたのを目撃し、仲裁に入ったのがきっかけだ。その出会いから、二人は付かず離れずの距離感を保ちながら今日まで付き合いが続いていた。
 なまえは普段、会社員として勤務しており、金曜の夜には染谷と出会ったこの店でいつも一人で飲んでいるのだと言う。他人から顔見知り、顔見知りから友人に至るまで二人は時々顔を合わせて関係を積み重ねていった。そして、気がつけば、今のように二人で金曜の夜に酒を飲むという関係に至ったのだ。しかし、カタギであるなまえとヤクザの親分である染谷、この二人が互いを拒絶することなく付き合えたのには、なまえの考え方が大きな影響を齎していた。


***


「染谷さん、私はあなたがヤクザだと知ってから、一歩離れてあなたと接しています」
「何だよ、いきなり。ヤクザに面と向かって言う話じゃねえだろ」

 世の中にはヤクザなどの裏社会の人間を毛嫌いする人間は山ほど存在する。勿論、ヤクザも一般の人間とは相容れない関係であると割り切って生きているが、なまえはそれを染谷の前で明言したのだ。正直であることは良いとされる世の中で、相手を選ばずにそれを貫くのはただの馬鹿正直でしかない。それでもなまえが染谷に明かさずにいられなかったのは、次の理由があったからだ。

「……私は出来るだけ正直に人と付き合いたいと考えてます。それはヤクザだろうと、一般の人だろうと関係ありません」
「へえ、それはご立派な思想なことで」
「ヤクザの側面を知ったことで、私はあなたを怖いと感じています。でも、」

 私を助けてくれた、染谷さんの優しさには感謝しているんです。とどこか気恥ずかしそうに告げるなまえは口元にグラスの縁をあてがっては、中々傾けられずにいる。この時、染谷はなまえが自身に伝えようとしていることの生温さに笑みを零していた。生温い感情はヤクザが一番餌にしやすいもので、今までもそれを利用して自身の稼ぎに繋げてきた。女であっても男であっても、成人であっても未成年であっても。
 ヤクザは、馬鹿正直な人間を騙して養分とする人間ばかりだ。それは染谷も例外ではない。そして、吸い尽くせるだけ吸い尽くしたら、あとはどうなってしまってもかまわないと考えるタイプの人間だった。だが、なまえは気持ちが良いほど真っ直ぐに染谷を見つめている。染谷巧という人間と向き合おうとしている。それが痛いほど伝わってくるからこそ、染谷はなまえとの関係を切れないでいるのだ。

「あんた、狡い女だよ」
「もしかしたら、染谷さんの言う通りかもしれません」
「カタギだろうがなんだろうが、度胸のある女は好きでね」
「命知らずなだけじゃなくて?」
「俺の考えてること、分かってて言ってんだろ」
「……そんなこと、ありません」

 誰に言われたわけでもなく、気にかけていた。いや、無意識の内に気に留めていたのかもしれない。染谷巧という男が何者かを知りながら、ありのままで接するみょうじなまえという女のことを。すると、不意になまえの顔が見えなくなった。過去の邂逅、かつての女の面影がなまえと重なって見える。ぽつんと取り残されたような切なさに突然襲われ、染谷はバーカウンターに置き去りにしていたグラスを思い切り傾けた。
 この胸には大きな穴が空いている。見栄と力だけで無理矢理に塞いだ、治り損ないの不格好な風穴が。今では何もなかったかのように振舞ってはいるが、ふとした時に脆く罅が入る。酒で喉を焼けど、酒で唇を濡らせど、酒で感情を麻痺させども、染谷の飢えは満たされない。すぐ傍にありながら、真っ直ぐ手を伸ばすことを許されない。いや、互いに思うところはあった。だが、どちらもそれを口に出来ず、のらりくらりとした言葉で、態度で、酔いで、適切な距離を保つ。

「正直者は馬鹿を見る。だったら、あんたに付き合ってる俺も馬鹿を見るのか?」
「それなら、染谷さんは今まで私といて、馬鹿を見ましたか」

 なまえと過ごした時間はそう少なくない。今ではなまえの知らない顔などないと自負出来るほど、目の前の正直者と長く付き合いを続けてきた。だが、その刹那に知る。自惚れだったと。なまえは、染谷への問いを口にしたなまえは見たことの無い顔をしていた。たとえるならば、先程までの染谷自身と同じ、切なさに弱った顔だった。

「染谷さんは私を、善良な人間だと思ってくれるけど、」

 でも、そこまでよく出来た人間じゃありません。と敢えて多くを語らないなまえは切なさに陰る顔をほんの少し曇らせ、数秒息を止めた後に染谷がよく知る顔で笑いかけた。何故、人は善良であろうとするのか。善良から外れることを世の中は禁忌とし、人々はそれを恐れる。一度、善良から外れた身分でなければ、自由のない生き方を強いられていることに気付けやしない。
 なまえは今、窮屈な思いをしているのではないだろうか。ありもしない妄言だとして、仮に述べる。目に見えない何かに阻まれ、思うように生きていけないのではないか。時にそれは周囲の環境であり、それは自身が固執する事象であると。それならば、染谷は痛いほどに共感していた。その生まれつきの呪いはなまえだけでなく、染谷にも掛けられているものだからだ。

「善良な人間だなんて思っちゃいない。ヤクザ相手に馬鹿なことを吹っ掛ける、命知らずの正直者だよ」

 虚しく笑う女の完璧を一つずつ崩していく言葉を当て嵌めた。全ては彼女の言葉の裏返し、何もかもが真逆だった。なまえは善良な人間でもなければ、出来た人間でもない。一歩離れて接している友人という認識、染谷のヤクザとしての側面を恐れている様。綺麗に付き合ってきたように見せかけた、ハリボテのような薄っぺらい関係。否定だけがこの場における正解なのかもしれない。

「ひどい言い様ですね、」
「……でも、あんたが欲しがったもんだ」
「きっと、これからも染谷さんとは良い距離で付き合っていくと思います」
「それなら、それで構わない」

 なまえは意外そうだと目を丸くして、染谷を見た。いつになく落ち着いた様子で染谷は相槌を打つ。

「やけに素直なんですね」
「ヤクザってのは往生際が悪い。おいそれと尻尾を巻いて逃げ出すなんてことはしないもんでね、」

 俺ぁ、あんたが俺に靡くまで、付き合い続けるぜ。と告げれば、なまえの切なさが薄れたような気がした。全てを受け入れることなど不可能な現代で、許されることを指折り数え、答えを導き出す。もし、それさえも許されることの内なら、染谷は自身の抱える寂寥や過去を明かしたいと考えており、なまえは触れてはならぬと律してきた自身の愛憎を飲み下してしまいたいと願っている。



| 縺れるまで足並み揃えて |


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