酔った峯義孝に甘えられる



 こちらへ来るように飢えた唇で請われ、望まれるがまま隣へ腰掛けようとしていた。すると、寂しげな目の恋人に誘われ、その膝元に腰を下ろした。体重の全てを預けてしまわぬよう、恐る恐る腰掛けたものの、当の本人は酔っ払っていることもあり、強引にこの体を自身の懐に収めてしまった。
 今夜の約束場所は峯の部屋だった。峯は予め用意しておいただろう酒と適当なつまみを、なまえは小さな鞄一つを手にここへやって来た。恋人という関係に収まってからは、何かと二人きりの部屋で過ごすことが増えた。それは単に二人でいる時間の心地良さを知ってしまったからだろう。

「酔っ払ってるんですね、峯さん」
「駄目ですか、俺が酔っていては」
「……駄目というわけじゃなくて、」
「なら、心配ですか?」

 ほんの僅かに高い目線に合わせようと、峯は自身の低い目線を上へと向ける。次を求めて見つめ続ける峯の真っ直ぐな視線に、なまえはこくりと頷く。

「あなたの心配には及びませんよ」
「酔って、私をこんなに独占しているのに?」
「独占?この程度で、俺があなたを独占していると?」
「……もしかして、まだ可愛い方なのかしら」

 峯の言葉に先行きの不安が頭を過ぎる。酒が入り、酔いの回った人間がどのような行動をするのか。それを予測することは困難であり、特に峯義孝は裏稼業の人間ということもあってか、恋人であるなまえにも手の内を読ませない立ち回りをすることが多い。そっと背中に沿わされた手のひらは熱く、大きく、男性的な感触に小さく震えた。

「なら、なまえさんはどこまで許してくれるんです?」

 背中より臀部へと滑っていく手の節々が服の上から肌をなぞる。時には曲線のままにウエストに触れ、時には質感を確かめるかのようにやんわりと指を沈め込む。妖しい手付きに翻弄されていると、峯は一度なまえの顔を覗き込み。その表情から許されているのかどうかを判断していた。

「何もここで事に及ぶつもりはありませんよ」
「あ、当たり前です……!」
「ただ、俺はあなたを独占したい」

 それだけです。と決して目を逸らさない峯の端正な顔立ちが際立つ。直接的に求められることに慣れていないなまえは、自然と目を逸らそうとしたが、不意に峯の手が輪郭に添えられ、顔を背けることが出来なかった。無理にでも解くことの出来る手を解けずにいるのは、寡黙な瞳が火照り、なまえしか見えていないと知ったからだ。
 まるで放っておけない、気にせずにはいられない目をした峯が幼い子どものようで、なまえもまた恋人の輪郭に手を添える。そして、そのまま頭を撫でるだけだったのだが、様子のおかしい恋人が取るであろう行動をやはり予測できなかった。

 ぐ、と重なる輪郭は峯となまえのものだ。正確に言うのなら、峯の輪郭となまえの胸部が重なり、峯はなまえの鼓動を、女の柔らかさを感じている。なまえは峯の骨張った骨格を、下心の欠片もなく安堵している様子を感じていた。恋人らしいスキンシップなら今までも経験はしてきたが、まるで甘えているかのような状態でのスキンシップはこれが初めてだった。
 なまえの輪郭をなぞっていた手はいつの間にか、再び背中へ回されており、なまえも峯の後頭部へ添えた手で自身へと引き寄せる。拒むつもりは毛頭なかった。確かに初めは驚きが勝ったが、峯の生い立ちを知るなまえからして見れば、いつか与えてやりたいと願っていた安寧がここにある。だからこそ、そのまま受け入れることを選んだ。

「……情けない男だと、そう思われても仕方がない」
「情けなくなんかないです、」

 肌が脈打つ瞬間、互いが生きていることを実感する。人間はいつだって鼓動と共にあり続けてきたものの、他者の鼓動がどのような音で、どのような早さであるかを知らない。所詮はただの鼓動なのだが、もしこの瞬間にそれ以外の感情が芽生えたのなら、意外にもそういったものこそが幸福の正体なのかもしれない。
 秘めたるを知らぬ母性とあまりにも有り余る恋慕。どこにも不躾な情欲はなく、あるのはただただ綺麗なプラトニックだった。恋人でいるのに、必ずしも情欲は必要では無い。一人の男と女であり続けても良いのだ。峯の告白を受け止めたなまえも、甘んじることを許された峯もそれ以上は何も言わず、二人きりの沈黙に揺蕩う。

 二人はまるで海月のように沈黙の中を流れている。半透明の体を預けて、離れないようにその触手を搦めて、互いに無毒な口づけを交わしては僅かばかりの酸素を分け合う。恋仲の男女にも正しさが求められる時代だが、いつだって正しいだけでは報われぬものがある。正しくあろうとすればするほど、本心を覆い隠してしまい、やがて関係は破綻する。だからこそ、二人は正しさに重きを置かないようにした。
 まずは互いを一番に、それから正しさを据えれば良いと二人は約束していたのだ。だが、この世の中では個人に与えられた役割が想定以上に悪さをする瞬間がある。何十年、何百年と根付いた固定観念を前にした時、人は酷く摩耗する。それは東城会のヤクザである峯も、ヤクザであると知っていながら関係を持ったなまえにも等しく与えられる理不尽だった。

「なまえさん、あなたは今までどれほどの相手を駄目にしてきたんです?」
「どれほどって、」
「俺は見ての通りの有り様だ。酒だけじゃなく、あなたにだって見境なしに溺れている」

 峯の明かした本心があまりにも純朴で、直線的で、なまえは一瞬言葉を詰まらせてしまったが、そのような本心を抱えているのはこの世の中で峯一人だけではないのが常だ。

「峯さん、あなただけですよ」
「ご冗談を」
「ううん、本当です。確かに、他に関係を持った方はいます。でも、」

 みょうじなまえという女をここまで求めてくれるような異性には出会えなかった。誰も彼も表面的な付き合いを望み、その場しのぎのような関係で繋ぎ止め合うだけの不純な相手ばかりだった。切なさに焼き切れそうな時に自身の名を、喜びに明日が明るくなった時に自身の手を、怒りの衰えぬ時に唯一の防波堤として自身の思考を、悲しみに沈みそうな時には自身の声を、真っ先に求めてくれたのは他ならぬ峯義孝だけだ。

「私でなければ駄目だと言ってくれたのは、峯さんだけなんです」

 透明な手で片割れの恋人に触れる。頬の宿す人肌の熱に、この手が溶けて無くなってしまっても構わないと思えた。すると、やがて二匹の海月は音もなく、その透明な輪郭を重ね合わせていく。どちらともなく惹かれ合うように、二匹は唇を重ねたのだ。男の厚みのある唇が女の艶やかな唇を食み、優しく愛撫する。女は唇を伝う心地良さに、咄嗟に男の手を取り、自身のものを重ねて握り締めた。愛撫が続けば続くほど、女は男の手を強く、時に弱く握り締める。男もまた、そんな女の姿がいじらしく、その手が逃れられぬように女の手を捕らえて離さないでいる。

「なまえさん、俺だけの人で居てください」
「それなら、峯さんも私だけの人になってくれます?」
「そんなの愚問ですよ。俺は出会ってから今まであなたしか見えていない」

 確かに、他の誰かに余所見をしたことぐらいはありますがね。と男が長い睫毛の隙間からこちらを覗くものだから、女は次の言葉を忘れて恥じらいから唇を密かに食む。他所へ泳ぐ視線を目の当たりにした男はもう一度を乞う。女は拒みはしなかったが、先程と同様に積極的にはなれない女に男は心の底から愛おしさを噛み締めている。未だ繋いだ手のひらの行方は互いの懐のまま、甘く香る酔いに耽っては時折、自分の居場所を見失わぬように相手を見た。

「……今って本当に酔ってます?」
「ええ、あなたが思っているよりもかなり」

 男が悩ましげに目を閉じ、眉間に皺を寄せたまま、再び女の胸元へと頬を寄せる。こうすることで男が安心しているのだと知り、女は男の後頭部を優しく撫でた。あと少しだけこの状態でいるとして、本格的に寝落ちてしまいそうならば、峯を寝室へ連れていかねばならない、などと考えながら大きな愛し子の抱擁を解くことはなかった。



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