ふとした時に思うのは、際限のない優しさを分け与えられているということ。それは横浜九十九課を立ち上げた九十九や杉浦に向けられるものとはまるで違うように感じている。横浜の街で古くから便利屋稼業を営む男は、誰よりも頼もしく、誰よりも律儀な相手だった。兄貴分のような振る舞いをする男のことを意識するようになったのは、いつからだったか思い出せない。それほどまでにこの日常に溶け込んでいたのだ、桑名仁という男は。

「よう、今日は一人で留守番か?」
「そうなんです。丁度、二人とも不在で」

 白い大きなビニール袋をぶら下げて横浜九十九課を尋ねてきたのは、冒頭でも述べた桑名仁という男だった。偶然にもこの日は九十九も杉浦も依頼の調査に出ており、なまえ以外は不在だった。一人事務所に残ったなまえは留守番と書類整理と言った事務方の作業を任されていた。

「いいや、用事があるのは九十九くんや杉浦くんじゃない」
「じゃあ、どう言った内容で?」
「君が一人で留守番するのを心配している奴がいる」
「そんな、子どもじゃあるまいし、」
「今日、不在にしているあの二人の頼みでね。俺も忙しい身だが、可愛い後輩からの頼みは断れない」

 よかったな、頼れる先輩が居て。と桑名は入口からすぐ近くにあるソファーに腰掛けようとしたが、自席で作業に追われるなまえの姿を見た途端、ソファーの横を通り過ぎ、なまえの傍で足を止めた。腕を組み、その働きぶりを数秒ほど目視しては、なまえの視界に入るよう、とある物を机に置く。真四角でありながら猫を模しており、どこか肌触りの良さそうな水色の毛並み。なまえがそれに飛び付くのに時間はかからなかった。

「こ、これ、ころにゃんじゃないですか……!」
「そうだ、手土産にどうかと思ってな」
「あ、もしかして、ゲームセンターささきに行きました?」
「……意外と詳しいんだな、みょうじくんは」
「実はころにゃんのぬいぐるみが欲しくて、前に遊びに行ったんですけど、」

 全然、取れなくて。でも、ころにゃんが置いてあるの、あのゲームセンターしかなくて悔しかったんです。
 桑名からの予期せぬプレゼントであるころにゃんを両手でひょいと持ち上げると、なまえはころにゃんのつぶらな黒い瞳をじっと覗き込んだ。素朴で嬉しそうにはにかんだ顔を見つめており、可愛い後輩は大切にすべきだと実感する。杉浦や九十九だけではない、桑名の可愛い後輩はなまえにも当てはまることだ。まだ若く、未熟で無鉄砲な可愛げのある後輩など、そう現れるものではない。
 だからこそ、少しだけ甘くなり過ぎてしまう自身がいるのだろう。無言で見つめられていることに気付いたなまえは、ん?と疑問符を傍に添えて桑名を見つめ返す。気を許してくれているのだと分かり、自然と内心がむず痒くなる。桑名は誰かに慕われることの感覚が呼び起こされたような気がした。

「でも、どうしてこれを?」
「まあ、ウチも似たような仕事柄、色々と手を出してるもんでね」

 その後も少し言葉が続いたのだが、なまえが自然と意識を向けていたのは桑名の表情だった。なまえへと向けられる視線、瞬きの回数、柔らかな言葉尻、持ち上がってばかりの口角。意外だった、桑名がやけに優しい顔をしてくれていることが。そして、明確な答えは無いものの、桑名が自身の優しさを使おうと思える許容範囲内に自分が居るのだと知って。

「桑名さんって、なんだか優しい人ですね」
「なんだか、とは心外だな」
「桑名さんはずっと優しいんですけど、なんていうか、その、」

 なまえが桑名に伝えたかったのは、優しさの目線についてだった。優しさにも色々な状況、状態があると考えた時、一般的に歳上から与えられるそれは本人より高い目線にある、言わば教えに近い優しさだ。後輩の為を思うそれは、先輩であるが故の経験や学びに則って、適切なタイミングで与えられることが多い。
 だが、なまえが今感じている桑名の優しさは、どこか近い目線にあるように思えた。たとえるなら、すぐ傍、真隣にあるかのような距離の近さ。寄り添おうとする姿勢が伺える、目線の高さに今になって気付く。無理のない高さにある目線というのは、とても居心地がよく、そして、心を許せるほどに安心出来ることを。

「わかった、わかった。みょうじくんが伝えようとしてることは理解したよ」
「これはお世辞とか、そう言うのじゃなくて、私の素直な気持ちですからね」
「……君には敵わないな、いつも俺より上手だ」

 うわて?と首を傾げるなまえを他所に、桑名はなまえの机の端に軽く腰掛けると、無造作に頭を掻く。なまえは桑名の言葉を反芻してみるが、真意は掴めないままだった。

「俺も随分、長いこと一人でやってきた。この街で、便利屋稼業を営んでな」
「ええ。この街に桑名さんが居ると知って、私達は挨拶に伺いましたからね」
「まさか、俺にこんな可愛い後輩が出来るとも思ってなかった」

 桑名は懐を漁ると、棒状のデバイスを取り出した。それは所謂、加熱式タバコと呼ばれるもので、紙巻煙草同様に葉を包んだスティックを取り付けて使用する。慣れた手つきで桑名はタバコを口にすると、ゆっくりと煙を吸い込み、ゆっくりと辺りに吐き出していく。

「……っと、この事務所は禁煙じゃないよな?」
「窓少し開けておきましょうか、」
「悪いな、頼むよ」

 なまえは一度席を立つと、近くの窓を少しだけ開け、再び自席に戻る。すっかり手元の仕事は忘れ去られてしまっている。

「いつか、杉浦くんや九十九くんは頼れる後輩になる」

 だけど、と続ける桑名の表情は分からない。なまえは着込まれたレザーの背中越しに桑名を見ていた。決して、そうではない。そうではない筈だと分かっていながら、何故だか、その背中が寂しく感じられた。

「だけど、みょうじくん。君はいつまでも可愛げのある、俺の後輩でいてくれ」

 僅かにこちらへと向けた短髪の頭は今、何を思っているのだろう。そこまで思ってもらえるほど、後輩という存在に憧れがあったのか。なまえはそうではないような気がしていた。もし、仮に憧れがあったとして、ならば何故、この瞬間に桑名は寂寥を滲ませ、他人のような顔をしているのか。桑名が吐き出した煙が桑名自身の本心を覆い隠し、なまえとの間になだらかな溝を設けようとしているのなら、それは不可能に終わるだろう。

「それなら、桑名さんも頼りがいのある、格好良い先輩でいてくださいね」

 時々、桑名は別人の顔をすることがある。だが、他人めいた顔でどこかへ行こうだなんて、そのような甘い考えは到底見過ごせるものではない。一度、甘やかされてしまったら、これからも甘やかされ続けたいと願うのが人間だ。厚かましくなく、それでいてくどくなく、許される範囲までなまえが躙り寄った結果がこの言葉だった。

「本気で言ってるのか?」
「もちろん。だって、可愛い後輩なんですよね?」

 処理が終わっていない書類を一旦は机の片隅にまとめ、まっさらな机の上で肘を着いて桑名を見上げる。すると、桑名は腰掛けていたなまえの机から離れ、今度はなまえの傍に佇んでは加熱したばかりのタバコを下げ、空いていた片手でなまえの頭に触れた。愛おしむ手の動きになまえは抵抗するでもなく、ありのままを受け入れていた。

「……はは、ったく、本当に可愛い奴だな、君は」

 先程まで困った物言いをしていたくせに、今ではすっかり嬉しそうに破顔している。拒める筈もない、何故なら桑名はなまえにとって『頼れる先輩』なのだから。素直になれないのは桑名だけではない、なまえもその一人だ。決して見失うことのない尊敬を胸に、ただ桑名を見つめている。

「今、あの二人がここに居なくて良かったと心から思うよ」
「そう、ですね。ふふ、杉浦くんなんか、どこまで行ったの?なんて聞いてくるでしょうから」
「……あまり混ざりたくない会話だ、」

 本当ですね、となまえが笑いかければ、二人はしばらく事務所で談笑を続けていた。そして、どちらともなく空腹を訴え、遅れた昼食へと事務所を後にする。その道中、桑名は今回の手土産がもう一つ増えてしまっても構わない、そう思ったものの、何を贈るべきか見当がつかないのであった。



| メレンゲ |


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