相手を思って怒ってくれる花輪喜平



「実は私、花輪さんに叱られたことがあるんです」

 なまえの発言に目を丸くして驚いていたのが、隣で話を聞いていた浄龍だった。なまえは花輪や浄龍と同じく大道寺に属する人間で、その立ち位置は管理者補佐と言ったところである。浄龍が知る彼女は、過去に花輪に叱責された経験があるとは想像出来ないほどに、よく働く人物だった。花輪から教え込まれただろう几帳面さ、立ち振る舞い、思考に言動、機を見定める力は充分に備わっており、花輪が自身の部下として手元に置きたくなるのも頷ける、優秀な人材だ。

「しかし、驚いたな。まさか、みょうじが花輪に叱られることがあるとはな」
「ふふ、本当に昔のことです。よく居るでしょう、今の仕事に慣れてくると油断だとか慢心が出て来る人」
「みょうじ、お前がそうだったのか?……今の姿からは想像も出来ないが、」
「露骨にそうだった、とは思いたくないですけどね。でも、当時の花輪さんからしたら、私もそんな人間だったんだと思います」

 結構、長い昔話になるんですけど、聞きます?ああ、時間なら嫌ってほどあるからな。
 二人は大道寺のアジトである寺の縁側に座しては目の前に広がる枯山水の砂紋に視線を移した。これからなまえが明かすのは、浄龍がまだ桐生一馬の名で表舞台に立っていた頃の話だ。当時のなまえはまだ経験の浅いエージェントで、花輪は既に管理者の座についていたのだと言う。


***


 それは、クライアントの護衛任務だった。機密事項の絡みで詳しくは記せないが、会合帰りの議員の周辺警護である。花輪は指揮を、なまえは後方支援を、そして、他のエージェントは実働部隊として各所に配置されていた。しかし、誰が予想出来ただろうか。何事もなく無事に終わるはずだった任務が一変し、花輪らに不測の事態を招くなどと。たった一瞬の綻びが二人の関係に亀裂を入れることになるなどと。
 この世の中にはどうしても標的を消し去らんとする存在がいる。明確な力関係、握られた弱みの大きさ、自身の立場への執着の深さ……、つけ狙う動機というものはこの世に無数に存在する。悲劇はいつだって人間が抱く危うさから引き起こされてきた。そして、それは今回も例に漏れず、花輪らの元を訪ねたのだ。

 まず、結果だけを話すとするならば、クライアントは帰路の途中で襲撃を受けた。だが、大道寺のエージェント達の働きによって、本人は無事だった。しかし、内一名が負傷するという事態に陥り、花輪の部隊は撤退を余儀なくされた。負傷したのは後方支援に回っていたなまえで、各所に配置されたエージェント達でクライアントの警護を固めていたにも関わらず、奇襲を仕掛けた犯人の追跡を独断で行ったのが原因だった。
 この場は逃がすと決めた犯人に固執し、独断で突撃したエージェントが判断を誤り、窮地に立たされたものの、応援として駆け付けた他の部隊によって救出される。これほど惨めなことがあるだろうか。彼女は心身共に傷付き、上司として憧れていた人物と確かに積み上げていた信頼を、その不手際になし崩しにされる。勿論、それだけではない。当時の『彼女』は酷く憤ってもいたのだ。自身の不甲斐なさに、自身の憐れさに、自身の惨めさに、自身の無力さに。

 ──── まるで生き延びたことさえ、不名誉であると言わんばかりに、『彼女』は大義名分の全てを組織に委ねていたのだ。自らの命はあくまでもスペアであり、スペアであるからには役に立たねば意味が無いのだと。

「病んだ目をしていますね、今のあなたが置かれている状況と同じようだ」

 几帳面で嫌味ったらしい声の主は上司のものだった。あの一件から負傷したエージェントとして、一時的に任務から外されていた。無理もない、負傷の度合いは致命傷にはならずとも、回復に時間を要する程度のものだったのだから。

「……私は何も間違ったことはしていません」
「そうですか、非常に残念です。まさか、あなたがあのような判断に及ぶとは」

 声音から女に対して失望しているのが読み取れる。だが、女も腹に隠している思いがあった。下がらぬ溜飲を引き摺ったまま、女は、なまえは病室にいた。この時、なまえは憧れていた花輪へ対する敬意の全てを忘れていたのだ。

「私は組織の為に動いた、それだけです」
「勇敢と無謀を履き違えているようですが、」
「……クライアントは、」
「心配には及びません、無事ですよ」

 居心地の悪いシーツに横たわりながら、なまえは苦虫を噛み潰したような表情で花輪を捉えていた。花輪もまた固い表情を崩すことなく、なまえと対峙している。

「一つご忠告を。あなたが履き違えている無謀が、周囲の人間を巻き込んで被害を大きくする」
「吉村さんから話は聞いてます。私が追跡した犯人の身元、ならびに裏にいる組織の正体が掴めたそうですね」
「その通りですが、今のみょうじさんには関係の無いことです」

 自身の命を危機に晒したことさえ忘れて、容易く手にした成果が、なまえから感情を奪い去っていく。明日を約束されない存在が生を実感するのは、命が手元にありながら組織に貢献した瞬間である。偏った正論がなまえの柔和だった口を冷酷に縫い付ける。

「……私が死んだとして、誰が悲しむんです?」

 使い捨ての消耗品を使い切ったところで、一体誰が摩耗した『それ』を哀れみ、悲しむと言うのだろうか。消耗品なのだから、消えて無くなるのが当然の末路だ。そこに何の疑問を抱けばいい?そこに何の憐れみを見い出せばいい?そこに間違いなど、ないくせに。
 大道寺のエージェントは皆知っている。明日に至る境界線で生き長らえることの安らぎを、だが、その先の明日までは約束されていないというあやふやな恐怖を。常軌を逸した環境にやがて人は慣れていく。感覚が麻痺していくのだ、それを、『死』を身近に感じることで恐怖を友とする。既にその用意は整っている、だからこそ、いつ命を落としたとて ──── 、

「私は、……私にはあなたを生かす責任がある」

 静寂が燃える瞬間を初めて見た。花輪が口にした言葉に、なまえは心当たりがあった。今のなまえが大道寺のエージェントとしてあるのは、花輪喜平の取り計らいによるものだと教えられていた。

「みょうじさん、あなたはご自身が死んだところで誰が悲しむのかと言いましたね」

 湿った路地裏、かつて逃げることさえ出来なかった女を憐れんだ男がいた。

「結論から言えば、我々はあなたが倒れたとしても喪に服すことはありません」

 流れた血、温もりの抜けた亡骸から目を逸らすように手を引いてくれた男のことを今になって思い出す。

「ですが、勝手に死なれては困るんです」

 透けたレンズの奥にある瞳は静かな怒りに染まっており、なまえは二の句を継げなくなってしまった。何故なら、なまえは怒れる花輪の姿を見たことがなかった。今までのなまえは従順で真っ直ぐなエージェントだった。いつだって自身を救ってくれた花輪の為に働くことを願う、一人の女だった。

「……療養後も謹慎処分とします。任務復帰に関しては期待を持たない方が身の為です」

 ──── みょうじさん、今のあなたは組織にとって必要のない存在です。
 それだけを言い残して病室を後にした花輪に追い縋ることなど出来なかった。どのような顔をして縋ればいいのだろう。出来るはずがなかった、手を引いてくれた男が花輪喜平であったことを忘れていた自身などでは。愚かさが一周すると、人は泣けないのだと知る。極まった愚かさに笑みだけが溢れるのは、もう取り返しのつかない状況へと進んでしまった現実を突き付けられていたからだ。

back