花輪の言い付け通り、なまえは回復後も謹慎に処されていた。病室で固いベッドに横たわるばかりの日々が、今度はアジトの一つである寺での生活に変わっただけだ。その味気ない生活になまえはやるせなさを募らせていった。毒にも薬にもならない膨大な時間の中で、ひたすらあの日の夜をなぞっている。
かつて、ただの一般市民だったなまえは偶然、大道寺一派の仕事の場に居合わせた。その日の一派の仕事とは、殺しだった。薄暗く人気のない路地裏でそれは静寂の内に行われた。なまえは悲鳴をあげることも、息を殺して逃げ出すことも出来ず、その場で怯えているだけ。一派の人間が女を始末するのに躊躇いはなかった。今まで手にかけた人間の数がひとり余計に増えようが、大して気に留めることでもないだろう。
だが、それに異を唱えた人物がいる。冷静さを欠いた様子で、全く関係の無い一般市民であるなまえの処分について考える時間をくれと、エージェント達に言ってのけた。司令塔である花輪に詰められた彼らは判断を委ねる他になく、先述の通りみょうじなまえは大道寺一派のエージェントとして迎え入れられた。
『私は、……私にはあなたを生かす責任がある』
今はもう随分と聞いていない花輪の声が鮮明に甦る。自身の過ちを見つめ直す時間ならば嫌という程にあるが、それは花輪への贖罪にはならない。解かれぬ謹慎、忘れていた過去、この体には傷跡だけが残った。手を伸ばせど、空を掴んでばかりで無力さだけが突き刺さる。
「……花輪さんは私のこと、助けてくれてたのに」
後悔が口を突いて溢れ出る。未練と言うのは、たとえ頑なに唇を縫い付けたとしても、その隙間から溢れ出る毒のようなものだ。悔しさを噛み締める、愚かさを噛み締める、至らなさを噛み締める。失うまで気付けなかった無知にひとり向き合っていると、不意になまえが所持している携帯端末が連続して震えていた。
懐から取り出し、性急に端末の画面を確認すると、そこには緊急性の高いメッセージが羅列していた。今回の依頼は罠であったこと、既に花輪の部隊のエージェントの半数が襲われたこと、そして、その場に残された花輪が一人で犯人を追っていること。現状の全てが端末の液晶画面に無機質に並んでいる。
『一つご忠告を。あなたが履き違えている無謀が、周囲の人間を巻き込んで被害を大きくする』
だが、病室で放った花輪の言葉に影を踏まれ、身動きが取れないでいた。謹慎処分を言い渡されている身で、また無断で行動をするのか?だからと言って、何もせずに帰りを待つことが正しいのか?自問自答する度にじっとりと肌が汗ばんでいく。
『ですが、勝手に死なれては困るんです』
それは、同じだった。花輪がなまえを生かす責任を負っているように、なまえもまた花輪の死を見たくはなかった。気付けば、影を踏んでいた言葉は跡形もなく消え去り、なまえは一目散に身支度を整えると、アジトに備え付けの車両に乗り込み、任務で指定された場所へと向かった。
行先は、追跡機能が搭載されたスマートウォッチ型デバイスを頼りに車を走らせた。一定時間ごとに位置情報が更新される仕組みは、容易く花輪の位置を特定することが可能だった。恐らく、一箇所に集約された位置情報はエージェント達のもので、そこから離れていく位置情報こそが花輪のものなのだろう。
アクセルを強く踏み込み、なまえは花輪の元へと急ぐ。こんな時、ふと夜風が身に染みる。花輪の、彼の言わんとしていたことの意味を知ったことで、寒気すら覚える危機感の中であっても、なまえは自身がすべきことをしっかりと捉えていた。
***
完全に不利な状況下に置かれている。心臓は痛いほど鼓動を刻み、背筋には何度も悪寒が駆け抜けている。だが、花輪には引けない理由があった。相手の用意した罠にかかり、奇襲をかけられたことで、殆どのエージェント達が相手の殲滅を優先する羽目になった。それ故に花輪は単身で相手を追い、身柄を拘束しなければならなかった。
しかし、状況は一向に良くならず、寧ろ悪化の一途を辿っている。そして、自分一人では目の前にある懸念点の全てを払拭することは出来ない。終わりの予感が辺りに漂い始め、花輪は見失った犯人の背中を探していた。すると、それは途端に気配を感じさせ、より多くの人数で明らかに花輪を取り囲んでいることを示唆する。
小さく喉を鳴らす。自身の読みの甘さに、冷や汗が流れ落ちる。不躾に命を掴まれた時、人はその際限のない不愉快と恐ろしさに足がすくむ。黙り込んだまま、周囲に張り詰める空気の危うさに警戒を強めていく。しかし、路地裏の狭く、複雑な構造の全てを把握していない今、命を落とす可能性は一段と高くなりつつある。まさに、花輪喜平は袋の中の鼠だった。
もしも、数で詰められたなら。もしも、力で押されたなら。もしも、既に銃口が自身を捉えていたのなら。恐ろしさに凍える理由はあれど、この足を止める理由にはなり得ないと花輪は歩を進めていった。凶弾に倒れる瞬間は常日頃から想定する結果の一つだ、そのくせ、何故、
『……私は何も間違ったことはしていません』
病んだ瞳の女が自身の姿と重なる。立場が違えば、花輪自身が命を投げ出す側だったかもしれない。そして、あの時の彼女と同様に、自身は間違っていなかったと口にするのだろう。悔やまれる、素直に生きていてほしいと告げられぬ自身の無口さが。悔やまれる、どうしても強引なやり方しか出来ぬ自身の不器用さが。
定刻通りと言わんばかりに路地裏の細い通りから第三者の足音が響き渡る。さながら死への誘いだ、刻々と迫る最期に足首を掴まれている気がした。先程、花輪が想像した最悪の殆どがこの場に居合わせており、途切れた運命の淵に佇んでいる。あとは飛び込むだけだと、死が囁く。今宵、この場に一人でくるべきではなかったと路地裏に吹き抜ける風が嘆いている。
死が好奇心を剥き出しに顔を覗かせ、その手には凶器を携え、亡者のように生者へ集ろうとした瞬間だった。遠くで花輪を呼ぶ女の声が聞こえた。張り上げた声に誘われるがまま、花輪は腕で視界を塞ぐ。引き抜かれたピン、放り投げられたそれは地面に触れると、強く眩い光を発し、周囲の人間を撹乱させる。未だ光の余韻が残る中、花輪は路地裏の入口に女の姿があることに気付く。
「……花輪さん!」
「ど、どうして、みょうじさんが、ここに、」
「話してる場合じゃありません、早く逃げないと……!」
「え、ええ、そうですね、今の内に……、」
コンマ数秒。二人の耳に響いたのは遅れてやって来た死の宣告である。発砲音、命の灯火を貫かれたのは花輪ではなく ──── 、
「……みょうじさん!」
凶弾に倒れることを想定しない日はなかった。だが、それが自身ではなく、みょうじなまえであったことは一度もなかった。着弾の衝撃で体勢を崩したなまえが膝を着くのと同時に、花輪は衝動的になまえの体を支え上げ、一心不乱に入口へと連れ歩いていく。
矢継ぎ早に何かが空気を割いて駆け抜けた。相手の凶弾か、もしくは。……花輪さん、花輪さんは無事ですか、と弱々しい声音で問い掛けるなまえに口を噤むように言い付け、花輪はただひたすらに路地裏からの脱出を試みる。
「きっと、もう、大丈夫です。相手は今夜の内に一掃されるはずです、」
「いいから、あなたは黙っていてください……!まだ前の傷も治り切っていないでしょう……?!」
「既に吉村さんの部隊が、応援に……、来てくれ、てますから、」
「今夜、あなたはここに来るべきではなかった……!私が何故、みょうじさんを外したのか、」
花輪は最後まで言葉を口にすることが出来なかった。必死に抱えていたなまえが吐血していると知り、それ以上を明かすことが出来なかった。迫り来る最悪が女の体を愛おしそうに抱き締めている。
「わたし、花輪さんのことを助けたかったんです、」
うわ言のように何度も繰り返すなまえの体を支え、花輪は路地裏から脱出すると外に停まっていた車両になまえを乗せ、その場を後にする。理性が効く内に花輪はアジトへ戻らなければならなかった。決して取り乱すな、彼女が命を落とすことなどない。決して、と強い言葉を並べ、花輪は絡みついて離さない最悪の手を解くことにだけ尽力していた。彼女が攫われてしまわぬように。
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