再び、病室の天井と対面する。胸部の鈍い痛みに顔を歪ませると、自身の無事に僅かに明るい声音を聞いた。密かに寂しさが込み上げてくる。

「……みょうじさん、」

 花輪喜平だった。どことなくやつれて見える顔に、なまえは体の痛みのことなど後回しで上体を起こす。

「は、花輪さ……、」
「……あなたと言う人は、どうして命を投げ出す真似ばかりするんです!」

 静かな病室の静寂を花輪の怒号が切り裂く。なまえは何も言えなかった。初めて花輪喜平が怒号を上げる様を目にしたと言うこともあるが、同時に今の自身に許されているのは、花輪の憤りや怒り、やるせなさ、苦しみの全てを受け止めるだけだと理解していたからだ。

「以前の任務でもそうです、あなたは自分が迂闊な行動をしたと理解していない……!」

 重苦しい静寂に花輪の独白が千切れて消える。その一つ一つに花輪の胸中が色濃く現れており、葛藤や後悔の深度が目に見えて分かるほどだった。独白の間は花輪、なまえ共にひどく苦しく、ひどく正直な時間に思えた。普段なら決して口にしてはならない内心を明かすことの出来る、唯一の時間のように思えた。いつから、一体、いつから本心を吐露することを止めたのだろうか。本来、人間が孤独たる所以を知る。

「私はあなたを組織に引き摺り込むことしか、出来なかった人間です」

 だから、私にはあなたを生かす責任があります。……これもみょうじさんからしてみれば、ただのエゴだと承知の上です。それでも、
 降り頻る雪の如く、人は他者の心情を留めておくことは出来ない。花輪喜平はまるで真冬の人だった。延々と降り積もるは失った命か、削り続けた命の切れ端か。終わりの見えない道の上でいつ消えてもおかしくない灯火を拾い、その火を絶やすことのないよう、大切に懐に抱え込んでくれた。

「ごめんなさい、」

 何度も何度も幼い子どものように謝罪を口にした。花輪の本心を知ったなまえが今、口に出来るのは無下にしてしまった花輪の優しさへの謝罪だった。どちらが縋っていたのだろう、答えは分からない。ただ、どちらも互いを大切に思っていることだけは確かだ。

「私、花輪さんを助けたかったんです」
「ええ、あなたが撃たれた時もそんなことを言っていました」

 同僚であるエージェントから事の経緯を聞いた時、なまえは居ても立ってもいられなかった。自身が下手に介入することで不測の事態を招く恐れがあると予想していたにも関わらず、なまえは命の危機に晒されることを厭わなかった。

「……謹慎の身でありながら、二度も独断で行動したことは許されないと思っています」
「そうでしょうね。この処分は私が決めたことですから」
「今回の処分も謹んでお受けします」
「ほう、それはいい心がけです」

 苦々しい表情から一変して、花輪はようやく口元を緩め、微かに笑って見せた。のしかかるように重たかった病室の空気が変わっていく。ほんの少しだけ安らぐ心があるのは、それほどまでに緊迫感の迫る思いがあったのだろう。なまえが体を揺らして笑うと、被弾した胸部が痛むらしく、小さく呻きながらも顔には笑みを浮かべている。

 さて、ここであの夜の路地裏の答え合わせをさせてもらいたい。あの時、なまえは確かに銃撃を受けた。閃光弾の強烈な光を浴び、一時的に盲目となった相手の一撃を胸部に受けたのだ。だが、なまえは死に至らず、その体の何処にも銃創は存在しない。なまえは同僚から花輪の危機を知らされた時、まずは自身の命を守る備えに走った。防弾チョッキを予め着込んでおき、その次に閃光弾などの用意に手を付けたのだ。
 なまえの備えはそれだけではなく、花輪と同じ管理者である吉村に応援要請を出し、自身の後方支援について欲しい旨を伝えていた。なまえが花輪の捜索を担当し、花輪と合流した際の合図として、閃光弾を投げ込むという手筈も盛り込んだ上で。しかし、その計画の懸念点が現実となってしまったことだけが悔やまれる。

「……みょうじさんは、自分の死を誰が悲しむのかと言っていましたね」
「今思えば、良い発言ではありませんでした、」
「ええ、全くです。ですが、この発言を受けて、あなたに伝えておかなければならないことがあります」

 花輪は極めて真っ直ぐな目でなまえの瞳を見つめると、真一文字に結んでいた口を開いた。

「ゆくゆくは、あなたに私の代わりを務めてもらおうと考えています」
「花輪さんの代わり……?」
「備えておくに越したことはありません。私ですら、いつ消えてしまうか分からない人間ですから」
「つまり、それは、」
「みょうじさん、私はあなたを生かすだけでなく、あなたを管理者候補として育てておきたい」

 期待しているんです、それほどあなたはよくやってくれているのでね。
 吐露された本心は、今の今まで花輪がひた隠しにしてきたものなのだろう。花輪の期待が自身に向けられていることなど、なまえはこの瞬間まで気付けなかったのだから。人は何故、秘められた優しさに触れた時、心が熱く震えるのか。そしてその熱は容易く目頭へと伝わり、視界を揺らがせる。

「まずは私の右腕にでも……、」

 ぼろぼろと涙を零して泣いたのはいつぶりだっただろうか。荒んでいくだけの自分を真摯に見つめてくれているなど、知りもしなかった。まるで心を抜き取られた胸の風穴に新たなそれを埋め込まれたように、感情の全てが色付いていく。凍結の日々が雪解けを迎え、もう一度体に血が通っていくのが分かる。
 悲観から泣いているのではないと花輪は理解していた。鼻の頭を、目を真っ赤にして落涙する女の涙が止まるまで傍にいることを選んだ男がいる。いつもの小言一つ零さずに、この時ばかりは静かに寄り添うことを選んでくれた男を、女は心から慕っていた。そして、自身へ向けられた期待に応えたいと強く願うようになった。


***


「みょうじもかなりの無茶をするんだな」
「お恥ずかしい話です。あまり他者には話しませんが、浄龍は特別です」
「いいのか?お前から聞いたと俺が花輪に言うかもしれねぇぞ」
「では、試しに聞いてみてください」
「俺の一に対して、あいつは百を返してくるだろうな」

 私もそう思います。と口角を持ち上げるなまえはアジトの外では見せない柔和な笑みを見せている。恐らく、その一件からなまえは花輪の下で期待に応え続けて来たのだろう。みょうじなまえは、今や花輪喜平の右腕と呼ばれるほどに管理者としての実力を備えていた。しかし、管理者補佐として収まっている辺り、花輪の部下でありたいなまえの意向を上層部が汲んでいるのかもしれない。

「ですから、もし浄龍がこの先花輪さんと衝突することがあれば、……いえ、余計なお世話ですね」
「肝に銘じておく。ま、そんな日が来れば、な」
「私の心が読めるんです?」
「今のお前を見ていれば分かる。みょうじは花輪とぶつかったことのある人間だからな」
「ふふ、あなたが大道寺のエージェントになって、本当に頼もしい限りです」

 花輪さんも、浄龍も、私にとって大切な同僚です。少しでも長く、共に居られることを願っています。
 全く表情を崩さない浄龍を前に、なまえは席を立つ。案の定、長話になってしまったことを詫び、なまえはその場を後にする。一人残された浄龍は内心、なまえの言葉に共感していた。それを明け透けにしようとは思わないが、数多くいる一派の人間の中で、あの二人は特別だと思えた。不器用な男と器用な女。つくづく人の過去は多岐に渡っているのだと、かつて桐生一馬だった男が縁側にひとりきり、木々のざわめきに思いを馳せていた。



| 翳る夜に生きるということ |


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