久々に再会した彼女は昔の愛らしさを失うどころか、年相応の大人びた雰囲気を持ち合わせていた。時は二〇一九年、島野の狂犬と呼ばれた極道はただの元ヤクザへと成り果てた。
「真島さん」
落ち着きのある声音で呼び掛けたのは、かつて真島と付き合いのあったみょうじなまえという女だった。神室町で出会い、言葉を交わし、交流を重ね、清くも深い仲だった彼女とは共に暮らしてはいない。一方はカタギで、一方はヤクザ。互いが傍にいることを世間は良しとしない。時代と倫理観の犠牲にならぬよう、二人は何も結ばず、何も契らず、何も交わらせずにいた。清くも深い仲とは、そう言った関係のことを指している。一般的な男女が恋仲になった場合、日々の生活だとか、互いの住処だとか、触れ合いだとかが一緒くたになるものの、真島はそれを望まなかったのだ。
「久しぶりやな、なまえちゃん」
「突然、電話を寄越すから驚きました。会いたいだなんて、」
「もしかしたら、これが最後になるかもしれんからな」
「また、そんなひどいこと言って」
大阪や。……大阪?俺らは東京を離れて、大阪へ行くんや。突然、ですね。これしか方法がなかったっちゅうんが正しいわ。
思いを馳せる。かつて極道にとって、良い時代があった。力で他者を捩じ伏せ、どれほど血で血を洗おうともその格は落ちることを知らず、我を貫くことを許され、数多の命と金を転がして来た。だが、世の中はいつまでも蹂躙され続けることを良しとはしなかった。この国の法は極道に首輪をつけようと画策し始めた。それを危惧したのが、東城会と近江連合である。二つの極道組織は同日に一斉解散を宣言し、数多くのヤクザが誇りにしていた肩書きを奪われ、路頭に迷う結果となった。真島吾朗もその一人である。
「堂島さんが立ち上げる警備会社に勤めるんですね」
「せや、俺らが行き場を失くしたヤツらの受け皿を用意せなあかんからな」
「なんだか寂しくなりますね」
「世の中的には清々したハズや。散々、好き放題にやられとったからな」
「そんな言い方やめてください」
いつだって他者から疎まれる存在であったことは否定出来ないが、それでも真島吾朗という男を一心に見つめ、人となりを知った人間からしてみれば、そのような物言いはあんまりだったのだ。更には自身に最後の別れを告げようとしている真島になまえは小さく溜息をつく。こうする他になかったと言うが、真島の進むべき道の先に自分自身の姿がないと答え合わせをさせられている気分だった。
「せやから、最後に顔見せに来たんや」
「最後は嫌ですってば、」
寂しがり屋やからなァ、なまえちゃんは。と返す真島はみょうじなまえという人間をよく知ってくれている。両親や友人の次に、なまえについて知ってくれている人間だった。それほどまでに二人の関係は長い。ただ長いだけの関係は友人止まりで決してその先に進むことを良しとしなかった。真島は望まなかった、しかし、なまえはどうだっただろうか。先を望まない、その言葉が持つ意味はなまえにとって、酷く心を揺らがせる夜を作るまでに強大だった。
だからこそ、伝えなければいけなかった。自身と決別する為に、過去の果たせぬ思いを弔う為に。そして、真島に一人きりで居なくても良いことを伝えたいが為に。至ってそれはごくありふれたフレーズのようになまえから投げ掛けられた。真島もこの場において、そのような申し出を受けるとは思ってもいなかったのか、暫くは目を丸くして動けないでいた。
「私と結婚してください」
一度たりとも誰かに心を許したことはなかった。一度たりとも真島を横目で見るような真似はしなかった。一度たりとも世間のように疎ましく思うことはなかった。
「それが出来たらええんやがなァ、」
躊躇う口元を吊り上げた真島は何を思っているのだろう。真島吾朗には、かつて愛した女がいた。一人は籍を入れたものの離別、その後再会を果たすが死別した。もう一人は生きているが人生の伴侶を見つけ、幸せを手にしたと言う。自分以外の誰かに寄り添った過去が疎ましいのではない、それも含めて今の真島がある。そして、その真島を見つめているのはなまえだけだ。
自惚れでも何でも構わなかった。都合のいいことを並べ立てる勘違いな人間だったとしても、ここまで誰かをひたむきに愛したことはなかった。距離を置いていた間も、誰にも靡かず、惹かれることのなかった心はいつも真島だけを見つめていた。時が過ぎ、周囲にお節介を焼かれても、他の誰かを愛する気にはなれなかったのは、真島吾朗という存在があまりにも大き過ぎたからだ。
「元暴の男とデキたらなまえちゃんが苦労するだけや」
「私、真島さんと会えない間、すっごく頑張って、結構稼げるようになったんです」
「なまえちゃんは昔っからよう出来る子やった」
「それに、今の真島さんはカタギでしょう?」
「それでも、元暴や」
すぐに満足のいく稼ぎにありつけなくとも良い。真島が生きてきた今までを否定する世間に溶け込まなくとも良い。住処が見つけられなくとも、カタギとしての生き方が見つけられなくとも、
「そない真っ直ぐな目したなまえちゃん、初めて見たわ」
「真島さん、……真島吾朗さん」
──── わたしじゃあ、だめですか。
答えを求められることは幸せなことであると知る。答えを出せない、出さない相手に詰め寄ることの憐れさを知る。分かっている、真島がなまえの提案したことの全てを望んでいないことを。だが、このまま別れを迎えることなど出来ないなまえは自身が持ちうる全てを捧げようとしていた。何も要らないと口にする真島に対して。
「自分を安売りしたらあかん。これから先の苦労は全部自分でケジメつけな、あかんもんや」
「もう極道でも何でもないのに、」
「すまんな、なまえちゃん」
みょうじなまえは真島吾朗と長い間、それなりの距離を取り続けてきた。この時のために真島は自身と深い仲にならなかったのだと知った時には、何故だか陽の当たる世界が忌々しく思えた。降り注ぐ温かな光をこの身に受け続けなければならない、愛する男と一緒になれぬ代わりに。まだこの身に降り注ぐと言うのだろう、誰も迎え入れられない一人きりのままで。
「やめてください、振るならちゃんときっぱり言い切ってください」
いつまでも水面に映る星に手を伸ばす少女でいられない。もう二度と、苦しまないように息の根さえ止めて欲しいと願っている。
「じゃないと、きっといつかって期待してしまうんです」
いっそのこと、結わえた薬指ごと引き千切ってほしい。もう二度と、真島の隣に立てる夢を見ないで済むようにと。
「……この先、五年はキツい思いが待っとる。それが極道だったツケや、そないな思いなまえちゃんにはさせられへん」
「やっぱり、私じゃあ駄目なんですね」
「なまえちゃんに迷惑かけたないだけや」
「迷惑なんて思うわけないじゃないですか、」
「元ヤクザの老い先短い男なんぞ、相手にせんでもなまえちゃんやったらもっとええ男が……、」
それ以上は言われたくないとなまえの強ばった表情からはそう読み取れた。真島もいよいよ言葉を選ばねばならない。恐れていると言えば、そうかもしれなかった。自身の傍にいた女は皆、言葉では尽くせないほどに理不尽な目に遭ってきた。例に漏れないと言うのなら、なまえにだって想像はつく。真島はそれだけが許せなかった、自身が理不尽のきっかけになってしまうことを恐れ、それを防ぎ切れないだろう不甲斐なさを許せないでいる。
「真島さんは、私のことをどう思っていますか」
突き放さずに済むのなら、それに越したことはない。離れずに済むのなら、それに越したことはない。諦めずに済むのなら、それに越したことは。
「ま、真島さ、」
引くに引けなくなっていた。理性と思惑。倫理と私欲。壁際までなまえを追いやると、真島は自身の影の中に女を閉じ込め、目の前にある真白を黙って見下ろしていた。翳りの中にいる白は暗色を帯び、そして、黒に身を寄せた。体温の高い女の肌が、冷めた肌の男にじんわりと馴染んでいく。
泣くでもなく、怒るでもなく、女はただ身を寄せていた。翳りに自分の身を隠そうとする女に男は告げる、今まで腹の奥に隠していた思いの全てを。いつだってその柔肌に溺れてしまいたいことを。いつだって眩しい笑顔に励まされていたことを。いつだって美しい生き方に救われていたことを。清い関係でいることの代償を多く払ってきたが、それは今でも後悔していないと添えて。
「俺のせいでなまえちゃんが傷ついてもうたら、俺は一生自分を許せへん」
「そんな言葉、一度くらい傷つけてから言ってくださいよ」
「……ほんまはなァ、なんぼでも手ェ出したかったわ」
俺が何度ギリギリのところで踏み止まったことか。その独白を聞いたなまえは間隙を縫うように、真島の翳りの中で背伸びをして見せた。なまえとしてはそのような独白を受けて何もせずにはいられなかったのだ。悔しいではないか、全部男の思う壷などと。清い関係なんてものは今日限りで終わりにしてしまえと。
「どうせ、一緒になれないんです。これくらい、いいでしょう?」
「えらい大人びたやないか、なまえちゃん」
口元の髭がくすぐったいと思えることがどんなに幸せか。不意を突かれた時の真島の表情がどんなに可愛いか。追い詰めたつもりが逆に追い詰められ、遠慮がちに回される手がどんなに愛おしいか。
「綺麗なまま終わりたくないですからね、私」
「俺の気も知らんと好き勝手言うてくれるわ」
「ふふ、ねえ、真島さん」
「なんや、」
「やっぱり私と結婚してください」
遅れてきた愛おしさが可愛げに鳴く。これは真島にとって困る話だが、何故か今なら、今のなまえなら娶ってしまっても良いと思えた。束の間の錯覚だろうか。
「……そこまで言うなら考えといたる。せやけど、答えがいつ出るかは俺にも分からん」
「どんなに時間がかかっても良いですけど、答え出してくださいね」
「俺の居らん間に手のつけられん子になってもうたわ、」
するり、と再びその感触に襲われる。なまえは真島の口髭のくすぐったさを幸せだと思っているが、真島にも思うところがある。なまえの柔らかな唇に触れていると、安堵と多幸感に包まれるのだと。
尊敬だけでは隣に立てず、敬愛だけでは隣に居られず。二人は尊敬も敬愛も取り払い、目の前にいる人間を愛してみようと思った。限りある時間の中でそれだけが今の二人に許された全てだ。静かに迫り来る別れ、ようやく恋人らしくなる二人。革の手のひらが幾度となく、女の頬を撫でれば、革の手に素手を重ねて男に微笑んでいる。
明日の見えない時代に、世間に、何故だか二人は一緒になれるような予感がした。
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