ハワイの暑く肌を焦がす日差しの下、その男はスーツの上に厚手のコートを羽織って現れた。場所はナイトストリート内にあるアパートの一室。ここはかつて男が寝床として使っていた部屋だと聞き、そこに暮らす女は男の来訪を受け入れるようになっていた。不健康そうな目元が音もなく、女を捉える。
「よぉ、邪魔するぜ」
相槌を必要としない言葉だけを置いては、男はくたびれたソファーに体を預ける。そして、厚手のコートを毛布代わりに横たわるのだ。窓の外は常夏の楽園が広がっているというのに、この一室がまるで真冬を迎えたかのような装いをしている。違和感だらけの室内で、この一室に暮らしている女、なまえは独りでにソファーに横たわる男のことを気にかけていた。
男は、山井豊はこの部屋のソファーで人知れず眠る。元々は山井の寝床なのだから、部屋を好きに使ったとしてもおかしくはないが、初めの頃は驚きを隠せなかった。だが、このアパート以外に行く宛てがないなまえが出来るのは、山井の来訪に合わせてソファーを提供することだけだった。
大きな物音を立てないように部屋を後にする。一応、与えられている部屋ではあるものの、他者が眠ろうとしているのを知りながら、日常を営むことは出来ない。眩しい常夏に誘われて、外吹く風と共に街へ繰り出していく。今から数時間は部屋に戻らない、山井の眠りを妨げるのはいつだって気が引けるのだ。
陽気な雑踏、心地よく肌を焦がす日差し、街に溢れる美しい花々の彩り、観光客は誰もが浮かれ、楽園の日々を享受している。変哲もない横断歩道を渡る足取りですら、楽しげに見えるのはなまえが置かれている環境が影響しているからだろう。なまえは今、ナイトストリート内にあるアパートに暮らしている。それもあの山井が睨みを利かせる縄張りの中にいる。
『ここなら、お前も野垂れ死にはならねえだろう』
この街で極道を束ねているのが山井豊という男だった。安穏と生きていくだけなら、決して関わってはならない相手なのだが、人生とは気まぐれなものだと思い知らされる。関わりたくない人種である男に助けられ、その近くに居ることへの危機感を忘れ、ハワイで生きているのだから。
すると、気まぐれなのは人生だけではないと、肌を濡らす一滴にスコールの到来を知る。長くは続かない雨だが、上手く雨宿り先を見つけられなかったなまえは渋々自宅へと帰ることとなった。予定よりも早い時間に、恐らく山井はまだ眠っているだろうが、このまま湿った格好でいるのもなまえにとっては耐え難かったのである。
***
慎重にドアを開け、中へと入っていく。アパートに到着してすぐに軽々しく手のひらを返したかのような晴天を恨めしく思いながら、じっとりと湿った全身をどうにかすべく脱衣所へと逃げ込む。乱雑にタオルを手に取ると、まずは肌の雨水を拭っていく。なまえは日本の出身でハワイのスコールには度々悩まされていた。ここに来てからは慣れたつもりでいたが、やはりまだまだ慣れないらしいと苦笑しながら腕や足、首元や髪を拭き上げていった。
突然、静寂の間に誰かの声を聞いた。それは自身のものではなく、低い男の声だった。この部屋にいるのは山井となまえの二人だけで、なまえは湿った服のことを忘れてタオルを首にかけたまま、山井の眠るソファーの傍まで様子を見に行くことにした。ソファーの背もたれ側を向いて眠る大きなコートの山に近付いてみれば、苦しそうな呻き声を漏らしていることに気付く。
「……山井さん、」
起こすのは悪いと思ったが、深く刻まれた眉間の皺が悪夢であると告げている気がして、放ったらかしには出来なかった。軽く揺さぶってみても、悪夢は深い眠りの先にあるらしく、なまえはどうにかして目覚めの糸口を掴みたかった。その間も山井はぶつぶつとうわ言に似た何かを呟いていたが、なまえは不意に露出した山井の手を優しく掴んではそっと握り締める。
日頃、寒いと言っている男の手のひらは、ハワイに居るというのに凍えているように思えた。指先や節までうっすらと冷めているのだ。なまえは一抹の不安を覚える。病的な寒がりだと思っていたが、一体何が山井をここまで凍てつかせるのかが分からない。翳る部屋、窓外の常夏。未だ凍てつく悪夢から山井は戻って来ない。
「さ、寒くない、寒くない……、」
気休めだった。遂に山井の手を両手で握り締めれば、僅かに肌が粟立ち、ぶるりと震える。この時だけは日頃の恩義だとか、感謝よりも心配が先立っていた。目覚めを祈る時間の中でそれは不意に聞こえてきた。姐さん、と呟く山井の表情は例えようがないほどに寂しげなものだった。なまえはその顔から目が離せずにいると、ようやく悪夢から解放された山井が目を覚ます。
「……何してんだ、お前」
「ごめんなさい、」
慌てて重ねた手を解くとなまえはそのまま部屋から出て行こうとした。だが、それは上体を起こした山井によって阻止されることとなる。解いたはずの手が再び二人を繋ぐ。今度は山井がなまえの手を掴んでいた。
「だから、言わんこっちゃねえ」
「……え?」
「そんな薄着で外に出るからだ」
「あ、ああ、スコールに見舞われて、」
「別に俺が居るからって出て行かなくったっていい」
「でも、」
それに俺ぁガキじゃねえんだ。あやすような声掛けはいらねえよ。……起きてたんですか?うっすらとな、お前の声が聞こえて徐々に目が覚めた。
山井は自然に手を離し、毛布代わりに掛けていたコートを羽織り直すと、ソファーの背もたれに深く体を預けた。そして、大きなため息を一つ。次に心情の吐露を一つ。
「まともに眠れねえ時はいつも同じ夢を見る」
「さっきのもそうなんですか、」
「聞いたところで何にもなりゃあしねえ、昔話だよ」
「ひどく魘されてました」
「ハッ、情けねえ話だよな。裏社会の人間が悪夢に魘されてるなんざ、」
山井はふと窓の外へ視線を逃がした。依然として、外の常夏は眩しいままだ。何を考えているのだろう、一人真冬のような男は。
「よかったら、一緒に出かけませんか」
「ああ?」
「今日もハワイの日差しは強くて暑かったから、少しは寒気も収まるかもしれないと思って」
余計なお世話なら一蹴してくれれば良いと、なまえは何の気なしに持ち掛けた誘いだった。山井の視線は未だ窓の外にあったが、声音からあまり迷惑がっていないように感じられた。
「どうせ、またふられるだけだ」
振り返り、スコールに降られたばかりのなまえを見ては寡黙めいた口元を歪ませて笑う。
「にしても、ひでえふられ方をしたな」
「だから、戻ってきたんです。ずぶ濡れで気持ち悪かったし、」
「俺に構ってないで、さっさとシャワーでも浴びてこい」
「分かりました。山井さんは?」
「何だよ、俺と入りたいってのか?変なところで積極的だなあ、お前」
ち、違います……!と咄嗟に声を荒らげるなまえに山井は喉を鳴らして笑っていた。一々、ムキになるな。冗談だよ、冗談。と不気味に笑う山井に、心配して損しました……!と言い残してなまえは再び脱衣所へ向かっていった。じっとりと肌に張り付く衣服に気持ちだけが焦っていく。心配して損したと口にはしたが、先程の寂しけな表情は未だに網膜に焼き付いたままだ。
寒くないと唱えながら山井の手を握り続けている間、なまえは漠然とした感情が胸の奥で渦巻くのを感じていた。時々、このような考え方をする時がある。誰が為の献身を必要以上に割いてしまいたくなる、そんな時が。自身の心を切り分けて誰かの胸の穴を塞ごうとする、そんな考え方を。このような考え方は不健全であると分かっていながら、ヤクザである山井にはそれを与えようとしている。果たして、それは何故か?
『どうせ、またふられるだけだ』
山井が自身をこのエリアに匿ってくれた日から、ずっと募る思いがあった。だが、それは尊敬や恩義といった堅苦しい言葉で片付け、見て見ぬふりをした。気付かないつもりでいた感情が、山井と言葉を交わす度に気付かせてくる。心が傾倒し始めているのだと。いつもこの部屋に来る時、自身のことを明かしてくれる山井豊に、みょうじなまえの心は惹かれているのだと。
ほんの数分間、物思いに耽っていると突然体がぶるりと震えた。中途半端に濡れた体が寒気に震えたのだろう、なまえは寒いと零しながら無機質なシャワールームへと足早に入っていくことしか出来なかった。だが、この時なまえは知らない。自身がシャワーを終えて上がる頃には、すっかりいつもの調子に戻った山井が部屋で待ち受けていることを。
| καρδιά |back