恋愛に踏み出せないハン・ジュンギを
紗栄子とソンヒがアシストする 「これ以上、私に関わらない方が今後の為にも良いかと」
これは、ハン・ジュンギがなまえに贈った最後の言葉である。なまえは呆気に取られることはなく、ただ頷いていた。傍目からすれば、なんて酷い言葉なのだろうかと思うが、この言葉を告げたハン・ジュンギの内心にも思うところはある。みょうじなまえとハン・ジュンギは異人町で出会った。一般人であるなまえがトラブルに巻き込まれそうになっていたところをハン・ジュンギが間に入り、助けたのが二人の関係の始まりだった。
二人はそれから幾度となく顔を合わせ、時には恋人らしくではないが、二人きりで出かけることもあった。二人きりの時間が長くなればなるほど、二人きりで交わす言葉が増えれば増えるほど、ハン・ジュンギの中に葛藤が生まれるようになった。先述の通り、なまえは裏社会とは無縁の一般人で、ハン・ジュンギはコミジュルの参謀という位置にいる裏社会の人間だ。
ただの恋愛感情が良からぬ不幸に繋がる。二人は確かに互いのことを特別視しているものの、一線を越える為の理由を持ち合わせていなかったのだ。少なくとも、ハン・ジュンギについては。その判断について間違いはない、だが、異論を唱える人間がいることも確かで。そして、その異論を唱える人間というのが今、ハン・ジュンギと対峙しているこの二人だった。
「なるほど、それは思い切った発言だな」
「なまえのことを思うと、なんだかやり切れないわね……」
ハン・ジュンギが属するコミジュルの総帥であるソンヒと、かつて共に死線を潜り抜けてきた仲間の向田紗栄子だ。何故、ここでこの二人が登場するのかと言うと、紗栄子はなまえと交流があり、ソンヒもまた紗栄子同様になまえと交流があった。なまえの感情の機微など、容易く見抜くことの出来る二人は、なまえが内心に隠している悲しみの正体を探っていたのだ。
そして、浮上したのがハン・ジュンギと二人で出かけた日のこの言葉だった。冒頭にある通り、事実上の別れに似た言葉になまえはただ頷くだけだったが、内心の悲しみは想像するに余りあるだろう。ソンヒと紗栄子はそんな二人の恋路を応援していたこともあり、今回の件をあまり良く思っていないのが実情だった。
「確かに私もお前の立場なら、同じことを伝えていたかもしれん。だが、それ以上にハン・ジュンギ、お前はそれで良いのか?」
「それで良いのか、とは野暮なことを聞く。無論です」
「ハン・ジュンギの決断はもっともね。でも、なまえのことはもういいの?」
「もういい、とは?」
「自分は裏社会の人間だから、なまえから手を引くってことでしょ?それで、なまえが他の男と出来てもハン・ジュンギは納得出来るのかってこと」
「それは、……納得する他にないでしょう」
異論はないだとか、納得する他にないだとか、散々自己暗示に似た言葉を連ねているが、正直なことを言えばそれは全て嘘だ。なまえを諦める為の言い訳を、さも正論のように並べているだけの虚しい行いだ。出来ることなら、許されるのなら、そうなってしまいたいとは思うものの、どうしても現実がちらついて夢現になれない。
「お前の考えは分かった。それで構わないのなら、それでいい。だが、一度くらいはなまえの話も聞いてみたらどうだ」
***
街が暗闇に包まれると、暗くなった帰り道を隣に並んで帰ったことを思い出す。夜の闇に包まれていると、ほんの少しだけ本心をさらけ出すことが出来た。初めて遊びに出かけた日には、なまえの持つ可憐さに心を踊らせたことを。友人の間柄で出かけた日には、ここまで波長の合う相手を見つけられた喜びを。相手を意識するような間柄で出かけた日には、言葉ではなく行動で示したことを。
やけに無口な帰り道、並んで歩く男女の間には手持ち無沙汰な片手。きっかけさえあれば、手を繋ぐことは容易な雰囲気の中、どちらとも一歩踏み出すことが出来なかった。別れまでもう間もなくという時にようやくその手は繋がれた。なまえからハン・ジュンギの指先に触れたのだ。ハン・ジュンギはそのなまえの行動をきっかけに、華奢な手をやんわりと握り締めた。
「……なんだか、緊張しますね」
「ええ、私も柄になく緊張しています」
触れ合う手のひらはやがて体温を高めていき、同じ温かさを共有するまでになった。そんな時、ふとなまえがどのような顔をして隣を歩いているのか、知りたくなったハン・ジュンギは横目で隣へ視線を滑らせる。そこに居たのは、いつものように柔らかな笑顔を浮かべるなまえではなく、唇をきゅっと結び、俯きがちになっているなまえだった。
夜の闇ではっきりとは見えないが、頬を赤らめているように見える。そして、なまえの余裕のなさが目に見えてからは、ハン・ジュンギも同様の病にかかってしまった。今まで考えたこともないようなことが脳裏に浮かぶ。じりじりと焦げているのは恋慕か、もしくは理性か。
「それじゃあ、私はここで」
あまりにも短い触れ合いだったが、ハン・ジュンギはひどく満たされていることに気付く。同時に自身の青臭さを思い知らされ、なまえと繋いだ手のひらを見れば僅かに震えていた。たとえ、裏社会に生きる人間であろうと何も変わらない。心を寄せる相手と触れ合えば、満たされる思いがある。だが、そこから先へ進む決断だけは出来なかった。日陰者は日向を夢見ることを忘れてしまった人間だ。
***
真正面から会う勇気がなく、ハン・ジュンギはなまえが住むアパートのベランダに姿を現す。実はこのような訪ね方は今回が初めてではない。おおよそ九時過ぎ、仕事を終えたなまえは自室でゆっくりと寛いでいることが多く、ハン・ジュンギは以前からその時間帯に足を運ぶことがあった。事前に連絡を取り、なまえの了承を受けてから束の間の逢瀬となるのだが、今回ばかりは状況が違う。
突発的にやって来たハン・ジュンギはベランダに佇んでは、懐の携帯でなまえを呼び出す。随分と見慣れた十一桁の電話番号はハン・ジュンギの通話履歴に重複して表示されている。果たして彼女は、なまえは会ってくれるだろうか。関わるべきではないと言ってのけた自身と。コール音がまるで無限に続いているように思えた。しかし、無限の静寂を破るようにその声は聞こえてきた。
「もしもし、」
「……なまえさん、」
たった一言だけで分かる心情がある。緊張と困惑、そして恐れ。声を聞いただけで、なまえが如何に疲弊したかを知る。無視することも出来たこの電話に出たなまえは何を思っているのだろうか。
「どうしたんですか、こんな遅くに」
「その、なまえさんと少し話がしたくて、」
上手く言葉にすることが出来ないのは、今ハン・ジュンギの心は両極端に揺れ動いているからだ。関わりを断ち切り、突き放すべきだと厳しく構える自分と、覚悟を決めた上で心のままに従うべきだと構える自分の間で揺れ動いている。だが、ハン・ジュンギは今の自分がとても無責任な状況にあると勘づいていた。
何故なら、彼女を突き放すべきだとするのならば、このような形でのなまえとの接触は望ましくないからだ。そして、心のままに従うべきだとするのならば、理屈ばかりを並べていないで、今すぐにでも寂しげな声音のなまえの傍に向かった方がいい。
「……もう、会えないって思ってたのに、」
携帯のスピーカー越しに聞こえた悲願にハン・ジュンギは思い知らされる。ソンヒや紗栄子の言っていた通りだった。何も告げずに去ろうとした自身の薄情さを、こうもまざまざと見せ付けられることになろうとは。
「中に入っても構いませんか、」
なまえからの返事はない。沈黙は数秒以上続いていた。踵を返すことをなまえは望んでいるのかもしれない。遅かったのだろう、不用意に押し付けた薄情さが冷ややかに纏わりついてくる。目の前が真っ暗になっていくのと同時に後悔の意味を噛み締めていると、不意に小さく音がした。それは内側からベランダの窓の鍵を開ける音だった。そして、程なくして通話は途切れた。
鼓動に急かされるまま、ハン・ジュンギは窓のサッシに手をかけた。ゆっくりと窓を開け、丁度通れるくらいの隙間に踏み込んでいくと、そこにはぎこちない表情をしたなまえがいた。緊張しているのが丸分かりなほど、なまえはハン・ジュンギのことを真っ直ぐに見つめていた。
「また会えるなんて、思ってもみなかったから」
少しずつなまえの声が震えていく。
「てっきり、嫌われちゃったのかなって」
手持ち無沙汰で置き所のない指先が、強く握られている。
「だから、もう……、」
この時ばかりはハン・ジュンギも互いの立場などは考えていられず、咄嗟になまえを抱き寄せてはその後頭部を何度も撫でた。
「……すみませんでした。私から言い出したことですが、やはりあなただけは、」
内心を全て明かす。姉やその友人、いや、大切な仲間であった彼女らの言葉に背中を押されながら、ハン・ジュンギはなまえへ抱いていた思いの全てを口にした。そして、どのような答えであろうと構わないとなまえに問う。
「私はあなたの気持ちを理解していなかった。ですから、差し支えなければ教えてください」
「なまえさん、出来る限りで構いません。私の隣に居てくれますか」
腕の中に抱き寄せた最愛が頷いて見せた。途端に離れ難く感じられ、いつまでも抱擁が解けないでいる。なまえが首が痛いと零すまで、ハン・ジュンギはなまえを抱き締め続けていた。恋人のように触れ合う二人を知るのは、窓の外に広がる夜闇だけだった。
***
「それで、今度はどうしたの?」
「ああ、紗栄子。すまない、突然呼び出して」
某日異人町、ソンヒと紗栄子は伊勢佐木ロード北にあるプラージュに集合していた。二人の話題は勿論、なまえとハン・ジュンギについてだ。先日、ソンヒと紗栄子のアドバイスにより、二人は晴れて恋人同士になったのだが、ここから先がソンヒが紗栄子に相談したいことなのである。
「アイツ、ハン・ジュンギがまとまった休みが欲しいと私に言い出してな、」
「へえ、珍しい。どうして、いきなり?」
「恐らく、なまえと恋人になったことで浮き足立っているんだろう」
「ハン・ジュンギも可愛いところがあるじゃない」
「休みの理由は、なまえと泊まり掛けで遊びに行きたいらしい。異人町ではなく、別の街に」
ソンヒは淡々と話をしていたが、気付けば眉間にうっすらと皺が寄っている。紗栄子はソンヒの意図が読めずにいた。恋人が出来たことで浮かれているハン・ジュンギに対して怒っているのか。それとも、コミジュルの人間が気安く遊びに出かけようとする行動が理解出来ないのか。生唾を飲み込み、恐る恐る訊ねる。
「ソンヒは、どう思ってるわけ……?」
あまり刺激することないよう、慎重に選んだ言葉がこれだった。組織を束ねる総帥を担うソンヒの言い分も充分に理解してやれるつもりでいた。だが、そのような気遣いをすぐに忘れてしまうほど、ソンヒの答えが突飛過ぎて紗栄子は耳を疑っていた。
「私としては快く送り出してやりたいが、不安が先行している」
「……い、いいんだ、遊びに出掛けても、」
「ああ、たまには良い思いをさせてやらんとな。それにアイツには無理をさせている、休みも必要だ」
「でも、ちょっと意外。やっぱり右腕がいないと寂しいんだ、コミジュルの女王も」
「いいや、そうじゃない」
ソンヒはハン・ジュンギに対する心配や不安の理由を並べ立てた。一時、好きなドラマのDVDがレンタルに出ていたからと全巻借りてきては、全て見切れないまま返却期限を過ぎ、延滞料金を支払ってもらったこと。最近はトレーニングに精を出し、毎日必ず決まった時間にトレーニングを始めること。トレーニングだけではなく、体づくりに必要な食事も自らこだわり抜き、食材の調達から手をかけていること、など言い出したら止まらない勢いだった。
「そこまでされると、ソンヒが心配するのも分かる気がする……」
「そうだろう?ましてや、恋人のなまえと一緒なんだ、何をやらかすか考えただけでも落ち着かない」
「でも、どうするつもり?」
意を決したようにソンヒは鋭い眼差しで紗栄子を見ては、真剣に言い放った。
「紗栄子、私達も一緒に行かないか。交通費、宿泊費などは私が面倒見てやる」
「ソンヒにここまで言わせるんだから、よっぽどね」
紗栄子は大きなため息を吐いたものの、予定が分かったら教えてと携帯電話のスケジュールアプリを開き、先の予定をざっと確認するのだった。余白の目立つスケジュールに、新たな予定が追加されるのもそう遠くない。
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