夕暮れに染まるアロハビーチを一人で眺めていた。日の高い時間に聞く海の波音は優雅でありながら、何処か呑気な自分を受け止めてくれているように感じられた。だが、夕暮れ時のさざ波の音は何故だか物悲しさを感じてしまい、ほんのちょっぴりセンチメンタルに色付いていた。手元には作りかけのレイがある。渡す相手は初めから決めていたが、このレイを九割ほど完成させたところで手が止まってしまった。
知り合いに頼んで注文しておいた白いプルメリアの花を一輪だけ指先で持て余す。まるで夢から覚めた気分だった。そう、夢を見ていたのだ。恋だの、何だのと少年少女が見るような夢を。不純な動機はどこからやって来たのだろう、もう今更無かったことに出来ないのだろうか。今なら、このレイを解いてしまっても、まだ許される気がしている。
「よぉ、ねえちゃん。一人かい、」
場所はカフェ アロハシーサイド傍の席、そこにふらっと現れた男の姿に女は、なまえは目を丸くする。なまえに声を掛けたのは、山井という男だった。常夏の楽園であるハワイで唯一、寒さに備える格好をしたヤクザだ。厚手のタートルネック、きっちりと着こなされたセットアップのスーツ、極めつけにはハワイとは無縁であるはずのコートを羽織っている。
「ど、どうして、ここに、」
「日が沈んだら帰んだよ。ガキの頃、母ちゃんに言われなかったか?」
「言われましたけど……、」
意外性のある返事と共に山井はなまえの反対側の席に腰掛けると、小さく体を震わせて寒いと呟いた。解くに解けないレイを手元に残したまま、遠回しに迎えに来てくれた山井に申し訳ないからと最後の仕上げに取り掛かる。自身が持て余していた一輪は気付けば、山井の手の内にあり、何を考えているのかよく分からない表情で、数分前のなまえと同じく指先にあった。白いプルメリアは夕日を纏って、うっすらとオレンジ色に染まっている。
完成してしまったレイをこれからどうすべきかまで考えていないなまえは、それを理由に迎えに来た山井に帰宅を持ち掛けた。いつまでも指先にあるプルメリアをくるくると回していた山井も当初の目的を思い出したのか、すぐに席を立つと街中を巡回するトロリーバスの停留所へと歩いていく。出来上がったばかりのレイを手に、なまえも遅れて後についていった。普段なら数人が並ぶバス停に人の姿はなかった。
もしかしたら、なまえの傍にいる男のことを知っていたのかもしれない。ハワイの裏社会でも名の知れたヤクザである山井を、この街の住人は警戒している。かつては日本でヤクザをやっていたが、訳あって単身でハワイへやって来たのだと言う。それからは長くこの地で自身の縄張りを広げ、今ではなまえもその中で世話になっている。山井はハワイの街で困り果てたなまえに救いの手を差し伸べた男だった。
とは言え、ヤクザであることには変わりなく、山井が発する近寄り難い雰囲気が、住人や観光客をこのバス停から遠ざけているのかもしれないと物思いに耽っていると、身近なところでブレーキ音が聞こえてきた。視線を道路へやれば、既にバスは停留所に到着しており、運転手が山井となまえの二人を待っている。無言のまま山井はトロリーバスに乗り込むと、がらりと空いた車内中央のシートに腰掛けた。
「さっさと座れ、運転手が困ってる」
「はい、すぐ座ります」
急かす口調ではあるものの、その実、山井はなまえに隣へ座るよう促していた。別々に座ってもよかったが、今更よそよそしい真似などしても意味が無い。しっかりと根付く枝垂れ柳の傍に腰掛けると、バスはゆっくりと発車する。バスの振動に揺られながら、夕暮れ時のホノルルシティの街並みを見ていた。未だになまえの手には用無しのレイが握られたままだ。
こうして、山井と二人でトロリーバスに乗るのは初めてのことだった。同じシートに腰掛け、同じ車窓から同じ景色を見る。普段、自分達が暮らす街を遠くから眺めているのは不思議な感覚だった。どこもかしこも見慣れた場所だと言うのに、この車窓を通じて見えるのはただただ賑やかな街のようで。その中でも特に連れ添って歩く二人に目が行くのは、手の内にあるレイのせいなのかもしれない。
「誰にくれてやるんだ、」
レイの行方を知りたそうな口ぶりになまえは目を丸くする。たった一言零した山井へ目を向けると、山井は依然として車窓から街を見ていた。本当は今すぐにでも解いて、近くの緑に帰してやりたい気持ちだった。渡せるはずがない、何の考えもなく。
「……実は、あんまりそこまで考えていなくて、」
「渡す相手もいねえのに作ったのか?」
「前から作りたいとは思ってたんですけど、」
枝垂れ柳の黒々とした髪がハワイの海風に揺れ、山井はなまえを見やると至極真面目な顔でこう告げる。
「貰ってやるよ」
「山井さんが、ですか……?」
山井の申し出になまえは驚きの連続だった。山井という男が花などの自然と無縁に見えるからではない、意外性という言葉はこの場において不適切だ。なまえが真の意味で驚いていたのは、本来の贈り先である男が貰ってやると言い出したからなのだ。なまえは山井に贈るレイを一日かけて作っていたが、あの夕暮れ時に目が覚めてしまった。
「俺ぁ、こっちに来てから、一度もこんなもんは貰ったことがねえ」
「本当に一度もないんですか?」
「……どうも俺には人が寄り付かねえらしい」
で、どうすんだ。と答えを迫られ、なまえは少し考え込んでから、山井の首にレイをそっと掛ける。そして、先程考え込んだ理由を、極めて簡潔に口にした。
「ようこそ、ハワイへ。この街を代表して、あなたを歓迎します」
山井に悟られぬよう、なまえは目的を変えた。プルメリアのレイの言い伝えを知らないと踏み、なまえは山井の歓迎を目的に据えたのだ。常日頃から伝え切れぬほどの感謝を抱え、何か力になれたらいいと献身に徹するなまえは、密かに山井を想う気持ちを隠し持っている。本当ならば、山井には告白の意味を込めてレイを渡すつもりだったが、今になって理解したことがある。これで良かったのだ、と。慕う相手の何かにならなくとも良いと、ハワイの夕暮れを見て気付いたのだ。
「歓迎されるのはいつだって悪くねえもんだ」
「まさか、この街に来て一度もレイを貰ったことがないなんて、」
山井の言葉には時々、良い意味で驚かされるが、ハワイに来て一度もレイを貰ったことがない人間を知らなかったなまえは、密かに破顔する。あまり大袈裟に笑ってしまっては悪いと思ったのだが、意外性はこう言った時に悪戯をする。
「……そんなに面白ぇか?」
「あ、いや、ごめんなさい」
「今回だけだ、次はねえ」
「はい、気をつけます」
次は無いと脅したにも関わらず、山井が上機嫌に見えるのは、意外にも首元のレイが似合っているからだろうか。だが、これ以上、直視するのは失礼な気がして、なまえが視線を街へと逃がそうとした瞬間。それは何気なく与えられた。
「良いもん貰ったからな、これは礼だ」
骨張った長い指先が、左耳にうっすらと触れ、髪の隙間に何かを挿し込んでいく。肝心の山井はと言うと、体をこちらに向けてなまえに何かを施している。先程の礼とやらが終わるまで、なまえの視線はひたすらに山井の首元にあった。店に置いてあるようなものとは出来が違うが、それでも何故か首元にあるレイは一番よく出来ているようにすら思える。
グレースタイルにまとまった格好の山井に、そのレイは差し色的な役割を果たし、変に浮くことなく上手く一体化していた。ごそごそと耳元で聞こえたのを最後に、山井の指先はなまえから離れていった。未だに何をされたのか、何を施されたのか分かっていないなまえとは反対に、山井はいつもと変わらない無愛想な顔をしていたが、やはり上機嫌なのだと知る。
「な、何をしたんです?」
「お前が持て余してた花、挿してやったんだよ」
「プルメリアを、ですか」
「ああ、そう悪かねえ」
ニヤついた笑みを浮かべる山井に釣られて笑う。山井が迎えに来てくれたことが今になって、酷く嬉しかった。日が沈んだのだから帰るのだと言う、昔懐かしい言葉も相俟ってより嬉しかった。渡し損ねかけたレイを気遣い、受け取ることを厭わなかったのが嬉しかった。そして、何よりこうしてささやかな触れ合いが出来たことが、なまえは一番嬉しかったのだ。
「山井さんもお似合いですよ」
「馬鹿言ってんじゃねえ、」
「でも、嬉しそうに見えますけど」
「面と向かって歓迎されりゃあ、悪い気はしねえ。それだけだ」
大切にしますね、この花。勝手にしろ。山井さんも大切にしてくださいね。……部屋にでも飾っとくか。
互いに同じ花を身につけた二人はバスに揺られながら、夕暮れの空が徐々に夜を纏っていく瞬間を眺めて帰路に着いた。時折、他愛もない話でじゃれながら、自然と訪れた沈黙に身を任せながら、二人だけを乗せたバスは目的地である停留所へと向かっている。その道中でうたた寝する白百合を枝垂れ柳はそっと懐へ引き寄せ、寝顔に残るあどけなさから目が離せないまま、その肩を抱き続けていた。
| 枝垂れ柳は俯いて笑う |back