人は眠らずとも悪夢を見るのだと知った。日本を離れた今でも悪夢は背中に爪を立てては寒気を煽るが、過去がフラッシュバックする程に目前の光景から目を逸らしたいと思ったことはなかった。ハワイは常夏の楽園だ、南国の象徴たる植物や街に寄り添うように横たわる海、街を行く人々も誰もが陽気でいて、太陽に愛されているように見えた。空と海と太陽の全てがホノルルシティの人間たちを慈しみ、その胸に抱いては恩恵の全てを惜しみなく与えてくれる、そんな場所だった。
 だからこそ、この寒さを忘れられると思っていたのに。この寒さから逃れられると思っていたのに。異邦人がたった一人、南国の地で身を切る寒さに直面している。盃を交わした親を殺し、言われのない汚名を着せられ、国外逃亡をしたヤクザは単身でハワイへと辿り着いた。見知らぬ土地で今のような在り方を模索するまでは途方もない苦労の連続だった。今ではすっかりナイトスクエア一帯を自身のシマとして持ち、ハワイの裏社会の一端を担うほどの勢力と化した。更には自身を親父と慕って着いてくる部下もいるほどだ。

「みょうじ、ここで何してる」
「山井さんこそ、外にいるだなんて珍しい」

 日差しの降り注ぐナイトスクエアの一角にて、山井と呼ばれた男は、背筋を走る不快な寒気を悟らせぬよう、普段通りの振る舞いを心掛けた。山井が声を掛けた女はみょうじなまえと言い、山井一派の拠点であるキャバレーで共に生活をしている女だ。そして、山井の登場により棒立ちとなっているのは見知らぬ男だった。優男な印象から悪い人間ではないのだと推測出来たが、山井の密かな寒気の根源でもあった。胸の奥が不穏にざわつく。何者にも犯されなかった、『大切』に初めて傷がついた。
 しかし、呼び掛けられたなまえが何の躊躇いや疑いもなく、自身の傍へ寄ってくる様に満たされる思いがある。それでもなお、不快な寒気は続いているが、優男が一人棒立ちの光景に卑しい感情が含み笑いを浮かべていた。山井にはなまえに対して恋愛感情はなかった。だが、今になって優男の登場がきっかけで、自身が無意識に持っていた特別な執着を自覚する。三十年前の悲劇を彷彿とさせ、燻っていた復讐心が涎を垂らしてこの胸の虚ろの埋め方を知る。

「良い男じゃねえか」
「いえ、彼とはそんなんじゃないです」
「へえ?でも、アイツはそう思っちゃあいねぇんじゃねえか」
「まさか、」

 なまえ曰く、ただの友人だと言う。悪気なく告げたつもりが、回り回って優男の胸をずたずたに切り刻む。ああ、分かるよ、その気持ち。悔しいよなあ、惨めだよなあ、憐れだよなあ。どん詰まっちまって行き場もなし、逃げ場もねえ。唯一欲しかった女の心はてめえに向いちゃいねえ、さっさと逃げ出してえよなあ。……寒くて、寒くて仕方ねえよなあ、と胸の内で自分に似た誰かが饒舌に語り掛ける。優男に届いていようが、いなかろうがどうでもよかった。

「そんなつれねえこと言うなよ、」
「山井さんって本当に人のこと、茶化してばっかり」
「悪いな。お前見てると、ついからかいたくなんだよ」

 みょうじなまえは元々、両親の残した劇場と多額の借金と共に自身へ預けられた女だった。この娯楽に困らない時代に、一昔前の劇場が生き残ろうとすれば、今まで以上の業績が求められる。なまえは両親と共に劇場の経営に関わっていたが、結果として廃業せざるを得ず、多額の借金だけが残った。そして、金の回収が芳しくないことから依頼が舞い込み、今に至る。
 ただ意外だったのは、建物を明け渡す代わりに借金を帳消しにすると持ち掛けたことだと言う。てっきり、どんな手段を使ってでも負債の回収をさせられると思っていたなまえは驚きを隠せず、暫くは別の手口で騙されているのではないかと疑っていたと後で知った。当時、徐々に増えていく部下達と自身の寝床さえ確保出来れば何でもよかった背景がある。だからこそ、劇場丸々を手に入れることが出来れば、その時点でなまえはお役御免だったのだ。

「それじゃあ、邪魔者は退散するよ。仲良くやりな」
「またあとで、」

 恥の多い生涯を送ってきた、かの有名な文豪に似た人生である。だが、その言葉に恥じないほどに自身の過去には汚点が目立った。もしかしたら、あの一件さえなければ、まだまともな人生を送っていたかもしれない。全て妄言だ、失ってしまった人間が弱り切った頃に口にする恨み節だ。それでも、最近はあの寒気を忘れられる時が多いように感じていた。南国の温かさがようやく身に染みてきたのか、それとも気ままに接するなまえの存在が大きかったのか。ようやく今になって答えを知る。
 かつて、一人の女に心を奪われていた。全くの別人であると言うのに、時々その女となまえが重なって見える時があった。性格も、言動も、思考も異なる他人だと分かっていても、懐かしくも苦い過去が来訪する。共通点があるとすれば、二人には人を惹き付ける力があることだろう。一人は派手好きの破天荒な女、もう一人は困難に陥っても前向きで芯の強い女。対極的な二人だったが、どちらも眩しいくらいの光を放っているのだ。その光が強ければ強いほど、寄って集る人間も多くなる。自身もそれらと何ら変わらない、ただの盲目な『蛾』なのだろう。


***


 酷く悴んだ指先で女に触れる。一人きりの部屋は以前と何一つ変わりはしないのに、凍えた空間と化していた。明かりもまともに点けず、陰りの中で男は女に触れていた。吐息は白く散る、確かにこの目で見たのだ。自身が組み敷いた女も、なまえもまた凍えた唇で真っ白な吐息を漂わせているのを。過去をそっくりそのまま持ち込んだような表情は、あの人と全く同じだった。裏切りの際に見せた、取り乱した表情は今も尚、目前にある。

「……や、山井、さん、」

 過去がなまえの姿をして、こちらを見上げている。悪夢が目の前で、あの日の夜を繰り返そうとしていると知りながら、理性は、体は抗えない。触れた指先には女の動脈があり、肌越しに感じる血の温かさに目眩がする。何も女の体を暴きたい訳ではない。寧ろ、そんなものは望んでおらず、今の自身に必要なのは変わらぬ日々の温もりだった。だが、どうか?恐怖に怯え、震える女は体の熱が失い続けている。まさか組み敷かれるとは思っていなかっただろう、積み上げた信頼が音を立てて崩れていく。まさか汚れた手で触れられるとは思っていなかっただろう、この瞬間に無条件で何かが分かたれた。

「なあ、お前はアイツのことをどう思ってる」

 この問いの答えなど用意していなかった。無責任な問いではあったが、今一度聞かずにはいられない。あの優男は昔の自分自身だ。復讐を遂げたいのはあの人だけにではなかった、愚かな自分自身に対しても復讐心は牙を向いていたとようやく知る。

「本当に、ただの友人なの、彼は」

 言葉は違えど、立場は違えど、まるっきりあの日の再来だった。静かに血の気が引いていく、冬の海辺で波が満ちるのをただ突っ立って、ひとりで待っていたかのように。肌に張り付く冷たさがこの身を凍り付かせていく、絶望の真の姿を目の当たりにしてしまったかのように。

「山井さんは、なんて言ってほしいんですか……?」

 潮が満ち、胸元まで押し寄せる波に心臓を一突きにされた。わたしになんていってほしかったの、と過去が胸の虚ろに手を潜ませ、奥に隠された『大切』に爪を立てている。目眩と頭痛が深刻化していく、震える手でこの手を掴んだのはなまえだった。

「手、震えてる」
「……離せ、」
「何に怯えてるのか分からないけど、」
「離せっつってんだろ、」
「私はずっと山井さんのことを ────、」

 心を暴かれた女が吐露したのは、不出来な愛情の全てである。どんな形であれ、自身に救いの手を差し伸べてくれたのは山井だけだと真下にいる女が嘆いている。だが、このようなことになってしまっては見えていたものが見えなくなってしまう。抱えていたものさえこぼれ落としてしまう。信じていたものが虚しくなってしまう。綺麗に結べるはずだったものが、歪に湾曲して強引に結び付けられてしまう。どうしてくれるのだ、もう前のように綺麗な姿ではいられなくなってしまった、と。

「一体、誰なの……?誰があなたをそんな風にしたの……?」

 なまえの心からの叫びに、復讐心はいつの間にか息絶えていた。自身から溢れた呪いが女に染み込んでいるのを黙って見ていることしか出来なかった。呪いに犯された女は呪詛を口にした。やり場のない怒りを、穢されたことへの怒りを、涙と共に吐き出し続けている。
 ああ、そうか、ようやく腑に落ちた。自身がなまえに田端唯を重ねていたのは、なまえも同じタイプの人間だったからだ。性格や言動などではない、もっと根本的な部分。誰もが隠し持つ利己的な部分、そこが彼女によく似ていたのだ。だから、惹かれていたのだ。だから、固執していたのだ。だから、奪われることを良しとしなかったのだ。

 ──── お前だよ、みょうじ。
 お前が現れたから、俺は今も悪夢を見続けている。終わることのない冬に閉じ込められ、お前越しにあの人を見続けさせられている。
 久々に肉の味が知りたいと、男は互いに白い吐息を漂わせた唇を重ね合わせた。凌辱と言っても構わなかった、それほどまでに男は女を求め、執拗に失ったものを取り戻そうと、女で胸の虚ろを塞ごうとした。女は行為中に男が見せる寂寥に当てられては何度も体で賄おうとした。愚かさを極める、どちらも互いの心を見ようとしなかった。ただひたすらに目の前にある肉体に現実逃避し、図らずして呪いは成就する。
 もう二度とまともな人生を歩むことは出来ないと血脈に刻まれた二人は束の間の色欲に溺れていくばかり。やがて、なまえに想いを寄せていた彼との交流は途絶え、二人は強く刻まれた呪いに生かされるようになった。一人が凍えているのならば、それを癒さんと体を暴いて微かな温もりを分け合っている。そして、一人が死した恋慕を弔うのならば、それを背負わせんと心を暴いて穢れを分け合っている。

 ひび割れた氷像が砕け散るのは今日か、明日か。山井豊とみょうじなまえはハワイの日差しに肌を焦がすことはない。今の二人はあの忌々しい日差しの熱に溶けてしまうことだけを恐れている。



| 凍傷 |


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