恋人を溺愛する峯義孝 柔らかな絹糸の一本一本に恐る恐る触れる。美しい髪に櫛を入れ、今は彼女が愛用しているヘアミルクを手に馴染ませ、痛みが伴わないように手ぐしを入れている。これは峯義孝とみょうじなまえの何気ない日常の一場面だ。二人は同棲しており、なまえの風呂上がりには毎回必ず峯がなまえの髪の手入れをする。初めはなまえも自分で出来ると遠慮していたのだが、峯からの強い要望により今では彼女のケアの一部を峯が担っていた。
峯はこの時間が何よりも好きだった。世界でそう多くない、胸の内を明かすにふさわしい相手の為に献身を割ける時間が。勿論、峯が好きだったのはケアの時間だけではない。他に挙げるとすれば、なまえへの贈り物を考える時間や自身が贈ったものを身に着けてくれているなまえと過ごす時間も同様だ。
「いつも、ありがとうございます」
「俺がしてやれることなんて、ほんの少しだけです」
「そんなこと、ないです。峯さんが……、」
ごめんなさい、義孝さんでしたね。……まだ慣れませんか。同棲してからそこそこ経つのに、油断すると出ちゃうんですよね……。なまえさんが言い間違える度に、俺はやきもきしてますよ。
全く嫌味を感じない、他愛ないやり取りだった。気をつけますね。と困ったように笑うなまえも、ええ、頼みますよ。とダークブラウンの髪にヘアミルクを馴染ませる峯も、互いに健全な恋人として共に過ごしている。二人の住処は峯が借り、二人の生活の基本をなまえが担う。今まで一人での生活が二人になるだけで、世界が一変したように感じられるのは、二人で過ごす世界の見え方が大きく変わったからなのだろう。
先に述べた通り、なまえは自身のケアを一人でこなしていたが、峯からの要望で殆どのそれを任せている。峯はなまえをより身近に感じたいからと、独り身の時には体験しなかったことに挑戦するようになった。例えば、峯が使用している個人携帯には専用のカバーが装着されており、その内側には二人で撮ったプリクラを忍ばせていたりする。更にはなまえがかぎ針編みに挑戦した時に作ったコースターもプライベートで愛用していたりなどもする。
他にも挙げたらキリがないが、なまえが好きだと言っていたマスコットキャラクターのキーホルダーなどもペアで付けたり……と自身の在り方が大きく変わった現状に峯は満足していた。そして、同時に峯は日々痛感していた。自身のなまえに向ける愛情が溺愛の域に到達していることを。よく恋人にのめり込む男を目の当たりにしてきたが、今ならその気持ちが何となく分かる。
「でも、まさか義孝さんと一緒に暮らすなんて、思ってもみなかったです」
「俺もそうでしたから、」
「……ふふ、私のこと大好きですもんね」
「そう言うなまえさんも、俺に負けず劣らずでしょう」
からかいと言うよりも自惚れを一つ。極道の男が口にするにはあまりにもありふれた言葉だったが、その青さが苦にならないほど、峯はなまえとの共同生活で一般的な恋人とは何たるかを知った。胸に自然と浮かぶ言葉を臆することなく伝えることが出来る。同じ物を見、聞き、知り、共に思いを共有することが出来る。対価を必要とはせずに無条件で相手を慕うことが出来る。
「義孝さんに出会えてよかった」
実を言えば、二人の関係は両者が互いを放っておけないと認識したところから始まった。峯は頭の切れる合理的な男だが、感情面に乏しい部分が見受けられる。例えば、人とのやり取りも心を交わすほどの深い関わり合いを持たない一面がある。他にも住んでいる世界の違いからか、世間一般では平凡とされる日常生活に対する無知もその一つだ。
そして、なまえは感受性が豊かで表現力にも富んでいるが、危機察知能力が著しく低かった。常日頃から数多の危険と隣り合わせで生きてきた峯からすれば、他者を全く疑わないどころか、いつでも懐に入り込めるなまえの無防備さに驚かされたほど。人が良いという言葉では形容出来ないくらいになまえは他者をよく信じる人間だった。
「あなたのことは初めて会った時から危なっかしいと思っていました」
「……わたし、そんなに危なっかしいですかね、」
「片時も目が離せませんよ。それにもう忘れてるかもしれませんがね、俺はこれでも極道なんです」
「極道から見ても、相当危なっかしい人間だったってことです?もしかして、」
「理解が早くて助かりますよ、なまえさん」
一度だけ峯はなまえに悪意を持って近付いたことがあった。ただの火遊び、魔が差した、と並べる言葉はどれも良くないものだが、その出会いがあったからこそ、今がある。峯義孝という男を一種のトロフィーのように見る異性の多くは共に夜を明かしたがり、親密な仲になることを目的としていた。当時、人数集めで呼ばれた会食の場で真っ先に異性の話題が峯へとシフトした時、その中でも全く野心的な目で峯を見ない人間がいた。
「……でも、初めて会った時の義孝さん。今思い出しても、怖かったなあ」
「俺が怖い?」
「なんか、すっごく完璧な人で。近寄り難い感じがしたんです。でも、」
***
露骨な誘い、あからさまなラブコール、弱肉強食の場が目の前に広がる中でなまえだけは、峯に帰りを促したのだ。自身の外面の良さを理解していた峯は帰りを促すなまえの意図が分からずにいたが、別れの際に見せたなまえの意図に気付くと、そこからは一直線に心が走り出すのを確かに感じた。
「面白くないですよね、こんな食事」
「……あなたにも何か計算があるはずだ、」
「でなきゃ、こんな抜け駆けみたいなことしないって?」
「彼女達と何も変わらないと思いますがね」
「ふふ。残念、違います。私はああいう場だと美味しくご飯が食べられないので、あわよくば帰りたいだけです」
じゃあ、私もこのまま帰りますね。と店を後にすべく、律儀に残された彼女らにも連絡を入れたなまえの後を追うと、峯は近くの物陰へと引き寄せる。この相手なら今夜を共にしても構わないと思っていたのだが、腕を引っ張られたなまえは驚いた表情で峯を見上げていた。この時、妙な感覚に襲われる。低い背丈を疎ましく思わない。自身に向けられる視線に卑しさを感じない。先程紡いだ言葉のどこにも偽りが見当たらない。そして、なまえの言葉を疑う必要性すらない。
「あなたさえ良ければ、今から食事に行きませんか」
「……え、今からですか?」
「俺の行きつけがあるんですが、そこの料理が中々美味いんです」
「でも、いいんですか?そんな、」
「たまには俺も誰かと他愛もない話がしたい、それだけです。付き合ってもらえますか?」
一緒に店を抜けた者同士で。ユニークな言葉選びになまえは目を細めて微笑むと、首を縦に振った。この時から峯は無防備ななまえのことから目が離せなくなっていった。本来なら、この誘いですらきな臭さを感じて欲しいのだが、みょうじなまえという女は他者を信頼する才能を持った人物だったのだ。そのような人間が存在するなど、峯は今まで知らなかった。
***
「でも、あの時の義孝さん。なんか放っておけなかったんです」
あのまま一人残して先に帰ってしまったら、恐らく他の異性達に狙われ続けたことだろう。もしかしたら、そのような異性を振り払うことに慣れていたかもしれないが、顔合わせの瞬間から気乗りしていない相手を見つけておきながら、知らぬ存ぜぬは出来ないとなまえは判断したのだった。峯からして見れば、なまえは今も異質な存在である。そこまで気にかけていたくせに、何の未練もなく別れることが出来る人間など、いるのだろうか。
「ただ、冗談でホテル街に連れて行った時のなまえさんは可愛らしかったですが、」
「だ、だって、ご飯に行こうって言ってたのに、」
「俺もなまえさんみたいに不用心ではいられないのでね」
「義孝さんって、時々いじわるな男の子になりますよね」
「ええ、だめですか」
ピンクのネオンに照らされたなまえの顔は今でも忘れられない。全く想像出来なかった訳でもない展開に着いていけず、一人で焦っている姿はからかい甲斐のある印象を植え付けてくれた。決して明かせない本心の一つだが、峯はなまえに対して愛おしさと同量の柔らかな加虐欲を抱いている。時に相手を試す為だけに真逆の態度をとる恋人の話を聞くが、峯の場合はそうではない。
これも秘密の話だが、なまえの困った表情や悩ましげな姿が見たくなる時がある。しかし、だからと言って相手の尊厳を無闇に傷付けたり、相手を尊重しない方法をとったりはしなかった。心を曝け出すことを許されたから、不器用な甘え方を許されたから、病んだ自身さえも許されたから、峯は全幅の信頼と共になまえを愛している。それ故にいつもこう思うのだ、自身は正しく恋人を溺愛出来ているか、と。
「そ、そんなこと言ったら、動物園で義孝さんの手にひよこ乗せてあげた時のこと、今でも忘れてないですからね」
「……それはまた、随分と前の話を、」
「触り慣れてないひよこに、あわあわしてたのがあんまりにも可愛くて」
「この手の話はいつもなまえさんの方が強い」
関係を始めたての頃はこのような戯れなど出来なかった。峯の近寄り難さになまえが距離を考えて接していたのだが、徐々に二人の距離は縮まっていき、それが真隣ほどの距離になっても互いを邪険にすることはなかった。このようにして恋人となると知り、峯はやけに救われたような気持ちになったのだ。男女に差はなく、峯が優位の時もあればなまえが優位の時もある。日々、互いを思って上手く折り合いをつけながら、二人は二人だけの人生を生きている。
「……義孝さん、もうくっついても大丈夫ですか?」
「まだボディケアは終わっていませんが、」
「なんだか無性にくっつきたいんです」
「全く。自由な人だ、あなたは」
「そんな私が好きでしょう、義孝さんは」
冗談半分でそう口にしたのだろうが、なまえが思っているよりも峯は恋人のことを深く溺愛しており、可憐に鳴かれてしまうと弱いのである。
「好きなどと生ぬるい言葉なんかじゃなく、俺なら愛していると伝えますがね」
すると、途端になまえが両手で顔を覆うのが見え、意地悪のつもりで顔を覗き込んでみれば、頬を赤くして峯の言葉を上手く反芻して飲み込もうとする、少女のような恋人がいた。この時ぐらいは柔らかな加虐欲を忘れられたら良いのに、少年の顔をした恋人は少女の頬に微笑む口元を隠すように押し当てるのだった。
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