真島吾朗と手にまつわる話



 早る気持ちが何度も革靴を鳴らしながら、男はとあるドアの前までやって来た。普段なら真っ先にドアノブに手を掛けるのだが、一拍置いて深く息を吸う。羽織った上着に乱れがないか、口元が緩み過ぎていないか、髪を軽く整えて男は懐から鍵を取り出し、ドアを開ける。解錠の音で気付いてくれただろうか、もしかしたら中に入ってすぐ熱い抱擁が待っているかもしれない。そのような浮ついた妄想を程々に、男は愛すべき女の待つ部屋へと足を踏み入れた。

「こんばんは、真島さん」
「おう、久しぶりやな。なまえちゃん」

 期待通り、女は玄関で男の来訪を待っていた。迎え入れるように言葉を掛けるものの、今一つ何かが足りない。靴を脱ぐよりも先に、大きく腕を開いて視線を投げかける。真島を迎え入れたなまえは、ぽかんとしていて真島の意図が読めないようだった。だが、腕を広げる真島と目を合わせている内に、なまえにもようやく真島の意図が伝わり始め、パイソンが派手なジャケットの胸元へと飛び込んで行った。
 なまえとしては軽い抱擁のつもりだったのだろう。触れるだけの抱擁に真島が満足出来るはずもなく、自身よりも小柄で華奢な女の体を抱え上げると、両腕に抱えて髭の蓄えた口元をいやらしげに緩める。なまえは驚きこそすれど、抵抗することはなかった。確かに僅かながら気恥ずかしさはあるのだが、決して重いと口にせず、嬉々として抱えてくれる真島に甘えたくなったのだ。

「さあて、この可愛い子ちゃん、どないしよ」
「あの、重たくないんですか……?」
「重たいことあるかい、女の子一人持ち上げられん男がだらしないだけや」
「なんだか、ふふ、嬉しそうですね」
「そんなん言うたら、なまえちゃんもやで?」

 真島は玄関でお粗末に革靴を脱ぎ捨てると、愛用する靴がひっくり返っていることにもお構い無しで、大切に抱えたなまえを連れて廊下を進む。兄弟分である冴島ほど屈強ではないが、好いた女一人を抱えてやりたいと思う気持ちは強い。しかし、だからと言って無理は禁物である。真島はリビングに着いてすぐなまえを下ろしてやり、自身は一人背伸びをする。

「やっぱり重たかったんでしょう、無理しなくていいのに」
「ぜ〜んぜん、ちゃうわ。なまえちゃんがあんまりにも軽いもんやから、」
「……やから?」
「このまま、ウチまで連れて帰るところやった」

 決して痩せ我慢などではなかった。気遣いすぎるおべっかでもない。真島は心底、みょうじなまえという女に惚れており、口から飛び出す言葉は全て本心からくるものだった。今、目の前に存在する姿のなまえを愛おしんでいる。真島は意外にも甘い言葉を囁くことの出来る男だった。嶋野の狂犬と呼ばれていたヤクザ然としての真島からは想像が出来ないほどに、それは柔らかく砕けた態度、上機嫌が窺える言葉尻、惜しげも無く与えられる愛の言葉であった。
 すると、なまえも機嫌が良いのか、まるでワルツの誘いと言わんばかりに真島の手へ自身のものを重ねようとした。指先が触れ合う瞬間、真島は何を思ったのか、革の手を引っ込めてしまった。するり、と空振りしたなまえの手が行く宛てもないまま、真島を待っている。

「ちゃう、これ外さな」

 革の手のひらをぶらぶらとさせる真島に、なまえは首を傾げる。なまえからしてみれば、真島が手袋をしていようが、外していようが、あまり変わらないと思っていたからだ。そして、その様子を見た真島は後頭部を雑に掻きながら、なまえの疑問に答えを添える。

「汚い手でなまえちゃんに触りたないだけや」
「私、一度も真島さんの手が汚いなんて思ったことないです」
「見た目だけの話やない。コイツは血の味をよう知っとる」

 せやから、そないなモン着けてなまえちゃんには触りたないんや。
 さながら、穢れとでも言いたそうに真島は自身の革手袋に指を掛ける。しかし、なまえは真島が自ら手袋を外すよりも先に冷ややかなレザーへと手を伸ばした。

「もし嫌じゃなかったら、私が外しても……?」
「……なまえちゃんが?」
「だめですか?」

 なまえは真島の弱点を知っている。それは、ほんの少しだけ甘える姿勢を見せると、真島は必ず首を縦に振ってしまう。この弱点はなまえしか知りえない秘密でもあった。百発百中の裏技になまえは早速、真島を近くの床へ座らせ、続いてその隣に腰掛けた。そして、たどたどしく真島の革手袋に触れる。
 愛おしい女に駄目かと問われて、誰が首を横に振れるだろうか。少なくとも、真島にはそうすることは出来なかった。ただ思うのは、昔よりも誰かを懐に入れることを許容するようになった自身の変わり様だった。手持ち無沙汰な手はなまえに全て預け、なまえが一つずつ何かを確かめながら手袋を取り去ろうとしている姿を黙って見ていた。

 なまえが真島の指先に触れながら、ぴったりと張り付く質感のレザーを外そうとしている。その横顔はどこか不安を孕みつつ、得も言われぬ妙な美しささえ感じられた。意中の相手が自身の為に尽くそうとしている姿だ、目を奪われない筈がない。細い指が手首に触れ、中へと潜り込み、優しく慎重に外していく。肌に引っ掛かる感覚を残しながら、極めて丁寧に取り外そうとするなまえに真島は良からぬ感情を抱いていた。
 良からぬ感情は悪戯に膨らんでは胸の内を密かに熱くさせる。しかし、真島は衝動的になろうとはしなかった。衝動に駆られるまま、手を出してしまえばこの瞬間が失われてしまう。今まで長い時間を共にした恋人との初めての瞬間が奪われてしまうことが、何よりも大きな損失であると考えていたのだ。急いては事を仕損じる、真島は待つことを選んだ。

「痛くないですか?あんまり、上手く外せなくて」
「おう、むしろくすぐったいくらいや。手袋ん中でもぞもぞしとるからなァ」
「……私、やっぱり手袋してる真島さん、好きです」
「そらァ、嬉しいこっちゃ」
「私ね、真島さんが私に優しくしてくれる度に、ああ、好きだなあって思うんです」

 だから、先程抱えてくれたことも、なまえを気遣って安易に触れようとしなかったことも、こうして我儘を聞いてくれているのも、真島からの愛情が感じられて嬉しいのだと明かす。そのように鳴かれてしまっては、真島も内なる感情を明かさずにはいられない。真島はなまえが触れていない革の指先に歯を立て、要領よく手袋を外すともう片方も同様に取り外していく。

「何もなまえちゃんのやり方が気に食わんからやのうて、」

 素手になった男の手が女の頬に添えられる。頬から伝わる男の体温に女は息を呑む。

「俺の我慢が利かなかっただけや、怒らんといてな」

 男の親指が愛おしい頬を何度も撫でる。女は恥じらうように視線を切り、唇を噤んだままだった。

「……わたしが外したかったのに、」
「せやから、堪忍や」

 むすっとした顔のなまえを前に、真島はふと何かを考えるような素振りをして見せる。あからさまな態度というものである。

「あ〜、でも、そやな、」
「……ん?」
「なまえちゃんがどうしてもって言うなら、何も脱がすんは手袋やなくてもええ」

 途端に漂ういやらしげなピンクめいた空気を感じ取ったなまえは眉間に深く皺を寄せ、鼻の下を伸ばした真島を見た。先程まで頬に触れていたはずの手がいつの間にか肩に添えられており、それは徐々に体のラインをなぞるように降下している。

「……真島さんのすけべ」
「な、何やねん、いきなり、」
「じゃあ、この手どかしてください」
「あ、いや、これは、ちゃうで、何もなまえちゃんとそないなこと……!」

 後味の悪さと警戒心だけを残して、なまえは真島の傍を離れていった。それを止める方法は今の真島にはなく、数分前の恋人然とした空気感がやけに恋しい。

「なまえちゃん、ええ子やから戻ってきてや」
「いやです」
「ほ、ホンマにやましいことは考えとらん、」
「うそ。真島さん、完全にやらしい感じ出てましたもん」

 押し問答の果てに、先に折れても構わないと思っていたのはなまえだった。男である真島が危うい雰囲気になってしまいがちなのはある程度許容していたが、困った顔をしている真島を見る機会と言うのは滅多にない。充分、真島の困り顔が見れたからと助け舟を出そうとしていたのだが、

「なまえ、」

 意識が一点に集中していく。気を引かれている。本能が振り返ることを拒めない。

「はよおいで」

 肌が粟立つ。真島は怒っているのでもなく、不機嫌でもない。唸るように聞こえる低い声音には恋しさが滲んでいる。はい、と返事をしてすぐなまえは真島の傍へと戻っていった。恐る恐る腰を下ろし、真島の顔を覗き込めば煌々と瞳を輝かせている。

「よし、ええ子や」

 引力の果てにあったのはただの愛撫だった。傍へと戻ってきたなまえの頭を真島は上機嫌で撫でた。基本、二人は互いを対等に見ているが、ふとした時に立場が変化することがあった。時には尻に敷かれる真島と尻に敷くなまえ。時には主人の振る舞いをする真島と従者のように付き従うなまえ。

「……そないな顔したらあかんわ。またやらしい感じなるで」
「だって、真島さんが私のこと呼び捨てにするから」
「こうでもせんと、戻ってこんからや」
「ふふ、そんなに傍に居てほしかったんですか」
「あったり前や。次はいつ会えるか分からんからな」

 どちらも本心を包み隠さず口にする。自分たちの戯れを忘れ、次の瞬間には恋人同士の顔をして、二人は触れ合っている。真島の大きな手のひらに撫でられ、なまえは安堵を覚えており、真島も自身の手のひらに体ごと預けるようななまえに愛おしさを募らせているのだから。

「ねえ、真島さん」
「なんや、」
「もう少しだけ撫でてって言ったら、続けてくれます……?」
「お安い御用や、好きなだけ撫でたる」

 ほれ、と頭のてっぺんのくすぐったいところを優しく触れる真島に、なまえは微弱に体を震わせていたが、後から込み上げるぽかぽかとした温かさに酷く満たされる。真島はと言えば、すっかり無防備同然となったなまえを見て、決して褒められないだろう独占欲が満たされていくのを感じていた。



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