踏み込んだ関係になりたい鉄爪



 時々、異性に対して深く踏み込めないと思わされる瞬間がある。その原因は未だによく分かっていないが、大抵は臆病になり過ぎているだけのように感じていた。生きる世界や立場で相手との関係を推し量ることをするけれど、要するに友人関係から抜け出せないジレンマを打破出来ずにいる。いつまでも友人などという他人寄りの関係ではなく、より親密な関係になりたいと願うのは我儘に聞こえるだろうか。
 異人町にもそのような関係、展開に足踏みをしている二人がいた。一人は異人町でも名高い横浜流氓の幹部候補である男、もう一人はつい最近異人町に顔を出すようになった探偵の下で働く事務員の女。二人には共通の知人がおり、その知人をきっかけに仲を深めることとなった。八神隆之という男が二人を巡り合わせるきっかけの人物だ。横浜流氓の男、鉄爪からすれば八神は兄弟分であり、事務員の女、なまえからすれば八神は直属の上司である。

「いつもありがとうございます。私なんかの為に着いてきてくださって、」
「何言ってんです、異人町じゃあ八神は俺の弟分。その弟分が世話になってる相手を無下には出来ねえ、それだけですよ」
「ふふ、そんなにかしこまらなくても」
「い、いや、これは、」

 以前より二人は行動を共にすることが多かった。とりわけ、異人町も神室町に負けず劣らずの物騒な街で、そんな街になまえ一人だけを歩かせる訳にはいかない。万が一、トラブルに巻き込まれたら、鉄爪は八神に合わせる顔がないのだ。勿論、それは二番目に重要視している部分で、第一は意中の女の傍にいたいという、至って単純な理由からである。
 初めは鉄爪の申し出をなまえは遠慮し、度々申し訳ないからと断っていたが、一度だけトラブルに巻き込まれたことがある。その時は鉄爪が助けに入り、なまえは事なきを得た。それをきっかけに今日まで鉄爪の言葉に甘え続けている。無理のない範囲で、必要以上に求めず、負担が大きくならないよう気を配りながら。しかし、頬が僅かに弛んでいるのは、鉄爪だけではなかった。

「最近はこの街も全然怖くなくなりました」
「へえ、そりゃあ良かった」
「……ふふ、鉄爪さんのおかげですよ」
「俺なんかでもなまえさんの役に立てて光栄です」
「俺なんか、だなんて。そんな言い方、あまり好きじゃないです」
「だったら、さっきのなまえさんもだ」

 互いを庇い、互いを見つめ、互いに数秒。どちらともなく、小さく吹くような笑い声が聞こえてようやく緩和する。日陰に生きる男はこの瞬間を迎える度、日向の温かさを強く実感させられた。こんな時ほど、抱えたジレンマなどを見て見ぬふりをして捨て去り、無かったことのようにしてしまいたいと思うのだ。だが、そう願うのは決して一人だけではない。

「いつだって、鉄爪さんは優しいですね」

 今から少しだけ女の話を綴る。とある事件をきっかけに神室町を離れた八神に着いていく形で、横浜の異人町へとやって来たなまえは慣れぬ環境に悩まされていた。日中は杉浦や九十九達と共に過ごしているお陰である程度はマシなのだが、単独で行動を起こす時はいつも見知らぬ街に苦労を重ねる。
 異人町も神室町と大して変わらない街なのだが、異人町に来て間もないなまえは自身を守る術を持ち合わせていなかったのだ。たとえば、しつこい付きまといから逃れるための裏道や脇路を知らず。足を踏み入れてはならないエリアの境界線をはっきりとは知らない。つまり、街を知らないなまえは新鮮味を感じると共に新たな脅威に怯えてもいた。

 そんな時、誰かが隣に居てくれることを密かに願っていた時、自身の上司を兄弟分だと言う男に出会った。第一印象はあまり良いとは言えない、顔の傷が物語るのはどう見ても裏の人間であるという物騒さ。八神の兄貴分だという得体の知れない男に、なまえは警戒を捨て切ることなど出来なかった。だが、警戒というものは信頼の積み重ねで緩んでいくものなのだと知る。
 鉄爪はなまえが街に出る時、必ず姿を見せた。勿論、ただ姿を見せるだけではない。まずなまえに付き添うことの可否を訊ね続けた。強引にではなく、自然に。下心など一切見せずに、身の安全のことだけを説いて。すると、初めは遠慮していたなまえもトラブルの一件からは関係性が軟化し、次第に頷く回数が増えていった。そして、気付けば隣に鉄爪が並んで歩く風景はいつしか当たり前のものとなっていた。

「そんな、いつでも優しいなんてことは」
「……それじゃあ、私だけにですか?」

 焦れったさに唇が熱を帯びる。なまえも自身の言葉に驚きつつも、決して間違いではない言葉に、本心に口をきつく結ぶ。

「それは、」

 たかが知り合い、ましてや友人などといった枠に収まっていられなかった。それはどちらもがそうだ。だが、先に枠組みの繋ぎ目に手をかけたのはなまえだった。いつもなら、このような言葉を口にしたりしないなまえは自身でも、何故このような言葉が咄嗟に出てしまったのか、理由が分からないでいる。
 そして、鉄爪は鉄爪で追い詰められていた。まさか、なまえが大胆な一言を口にするとは思ってもいなかったのだ。出来ることなら、自身で詰めたかった距離を彼女に詰められてしまった鉄爪は必死に次の言葉を考えている。無難な言葉はなまえを傷付けることもないが、胸の内を明かす機会も与えてはくれない。情熱的な言葉はなまえに胸の内を伝えてくれるが、一度間違えば全て氷点下に沈んでしまう。

「勿論、そうです。俺はなまえさん以外に、ここまで優しくしたりはしない」

「誤解のねえように言いたいのは、なまえさんを特別視する理由に八神は関係ないってことです」

 熱を帯びたのはなまえだけではない、鉄爪は火傷寸前のところまで迫っていた。どうして八神なのか、その言葉選びにおいて鉄爪はなまえに、なまえ自身を見つめていると伝えたかった。確かにきっかけは八神であるものの、それから後のことは全て彼女一人に由来するのだと。

「なんか変ですね、私たち。いつもなら、こんな話しないのに、」
「なまえさん、ここじゃあ人目が気になって仕方ねえんで、事務所に戻りませんか」

 内心、動揺していたなまえもこの時ばかりは鉄爪の提案に乗らざるを得なかった。何故なら、緊迫した状況にあるのは何も鉄爪だけではない。いつか、こうなる日が来たら良いと薄らと願っていたなまえにとって、その瞬間が今まさに目の前にある。答えるべき言葉も、進むべき展開も分かっていながら、臆病であり続けている。しかし、このまま逃げ出すなどという選択肢を持っていないなまえは鉄爪の言葉に頷くと、先程よりやけに静かな街を歩いて行った。


***


 程なくして、二人は九十九と杉浦が探偵業を営む事務所へと到着する。事務所内に人気はない、また八神と共に例の依頼にあたっているのだろう。二人きりだと告げる静寂、大きな窓の外から差し込む日差しに二人は近くのソファーに腰掛けた。革の強い張り感に浅く沈み、先に口を開いたのは鉄爪だった。

「杉浦達も居ないようで助かった、こんな話あまり大々的に出来ないもんですから」
「ええ、本当ですね。あんまり聞かれたくないですし、」

 どちらとも強ばったトーンで言葉を交わす。部屋の静寂はいよいよだと指折り数え始める。

「俺は金積まれりゃあ、その分の依頼をこなすだけの人間です」

 でも、この件に関してはアイツから金積まれたわけでも、特別な依頼があったわけでもねえ。
 横浜流氓の白面としての日々が長い鉄爪は未だなまえの目を見れないまま、窓越しに街の雑踏を見つめている。だが、鉄爪がいかに自身がどのような人間であるかを明かせば明かすほど、なまえは心の行方がたった一つの道に集約していくのを感じていた。
 表の人間だとか、裏の人間だとか、所詮ただの綺麗事に過ぎないのは分かっているが、それでも真っ直ぐに一点を見つめる心ぐらいは、自身の本心ぐらいは、鉄爪を取り巻く要素の全て無視して、一人の男として見ていたい。綺麗事と現実を擦り合わせて、たくさんの何かが削れていき、それでも残るものがあるなら、その残ったものに意味がある。

「私は、いつまでもこのままの関係でいることに耐えられません」

 本心を冗談めかさないと明かせないような、友人という響きだけの良い関係など。

「でも、ここで駄目になったからと言って、今までと同じ関係に戻ろうとも思ってません」

 何の代償もなしに過去には戻れない。ましてや、そのような都合のいい関係に成り下がるくらいなら、今までの全てを断ち切ってしまった方が良い。

「……なまえさんは少し頑固なところがある。俺がアンタを好きな理由だ、」

 ここでようやく二人は互いの目を見た。窓からの日差しに輝く褐色の瞳、日差しを背に陰る暗褐色の瞳。不思議と今なら何でも言える気がしていた。

「好きなんて安い言葉じゃねえ、俺はなまえさんに惚れてんだ」

「友人なんて関係で終わるつもりなんかありません。出来ることなら、このまま一緒になっちまいたいくらいで」

 多くを口走ってしまったのだろう、鉄爪は途端にぎこちなく笑い、……笑い、沈黙。それでもなまえから視線を逸らすことはしなかった。

「それなら、次は付き添いなんかじゃなくて、一緒に過ごしてくれますか」
「俺なんかでよけりゃあ、」
「俺なんか、って言葉あまり好きじゃありません」
「へへ、そうでしたね。さっきも怒られたばっかだ」

 ふと、思う。人間における関係性の変化とは、いつも知らぬ間に始まっており、こうして言葉で確かめ合う頃にはとっくに互いを受け入れていて、けれど物言わぬままではいられないからと、やはり言葉にせずには先へと進まず。

「じゃあ、次の為に連絡先教えて……、ってあれ?」
「ん、どうしたんです?」
「鉄爪さんっていつも街に出る時にお会いしますけど、私の連絡先知らないですよね」
「ええ、そりゃあなまえさんの個人情報ですから」
「どうやって私の行動を把握していたんですか?」

 ぎくり、と背筋が固まるのは先程まで意中の女を口説いていた鉄爪だ。今の今まで視線を逸らさなかったくせに、なまえの鋭い質問には顔を背けてすらいる。

「い、いや、その、異人町にはたくさんの同胞がいるっつうか、なんつうか、」
「怒ってないですから、こっち向いてください」

 まるで小さな子どもに言い聞かせるかのような、柔らかく優しげな声音でなまえは鉄爪を呼ぶ。

「今更ですけど、これ、私の番号です。ほら、鉄爪さんの携帯貸してください」
「仕事に使うのはあるんですが、個人的なものは持ってなくてですね」
「……そうですか。時々声を聞いたり、メッセージとか送れたらって思ったんですけど」

 友人の先にある関係とは、こういうものである。今までと打って変わってより親密さに拍車がかかる。徐々に現実が鉄爪に圧をかけたのだろう、鉄爪は必ずもう一つの端末を用意すること。連絡を取り合う中でなまえに迷惑が行かないよう、足がつかないものにすること。仕事柄、常に連絡は取り合えないことを告げた。

「ふふ、別に足がつかない端末じゃなくても大丈夫ですよ」
「い、いや、それじゃあ、どうにも落ち着かねえ」
「職業病ですね」

 でも、少し分かる気がします。ウチも探偵業なので。と笑いかけると鉄爪は緊張で強張った顔を破顔させ、すぐさま懐の携帯を取り出してはどこかへ連絡を入れていた。その内容は推理するまでもなく、足のつかない端末を一台用意してほしいという話で、なまえは自身がいよいよこの街に染まっていくのを感じ、内心密かに浮き足立っていく。



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