女が目の前で泣いている。涙は見えないが、あれは確かに泣いている。彼女に告げたのは、自身の過去と迎えるべき事の顛末であった。生まれ育った国を離れ、ハワイと言う全く縁もゆかりも無い、何も持たざる自分の受け皿となった街で長いこと生きてきた。人間というものは実に不思議な存在で、図らずも似た境遇の人間が自身を中心として集まってくる。
みょうじなまえもその一人だった。訳あって傍で共に過ごしてきたが、彼女が泣き顔を見せたのはこれが初めてだったように思う。普段は溌剌とした表情の多い女が涙を見せずに泣いていた。大罪を犯した気分だ、しかし、ここで自らの体を張らねば守れぬものがある。小さな命を奪うことになんの躊躇いも持たず、あまつさえ簡単にその命の灯火を吹き消すことさえ厭わない人間の存在を知ってしまったからには。
「だから、やめとけって言ったんだ」
自身と馴染みもなく、古い関わりもないくせに一方的に入れ込むのは。だが、それは前に一度告げたことのある言葉だった。それでも、彼女は笑って流していたのだ。太陽によく似た眩しく、溌剌として暖かな笑顔で。その太陽に今、ヒビが入る。ポロポロと溢れるのは欠片だ、後悔が滲んでいることだろう。
「ろくでもねえ人間に肩入れすんのは」
うっすらと乾燥めいたなまえの唇は未だに固く閉ざされている。そのまま何も言わずにこの場を去ってくれたなら、どれほど良かっただろうか。許されないと分かっていながら、彼女に背を向けてしまいたいと思うのは、やはり自身がろくでもない人間だと証明している気がした。
どの面下げて、何の資格があって彼女に触れるのか。涙など流れていないと分かっていても、まるで目には見えないそれを拭うように頬に指の背で触れた。幾分か低い背の女の頬は微かに熱を帯び、凍えた指先にその熱を分け与えてくれる。
「どうして今なんですか、」
「さあな。たまたま、このタイミングだっただけだ」
「こうなるって分かっていたなら、もっと早くに突き放してくれれば……、」
語気の強さは徐々に弱まっていく。咄嗟に出た言葉が彼女の唇を縫い付け、その言葉の残酷さを物語る。なまえはその先を告げることが出来なかった。彼女の目に写る自身がそうさせるのだ、忌々しい過去とよく似た雰囲気が流れ始める。
出来なかったのは、自身も同じだった。ここに来るまで彼女を、みょうじなまえを突き放すことが出来なかったのだ。懐に潜り込むような温かさをどうして易々と手放すことが出来るだろうか。それが出来るのは既に満たされ、物の価値が分からぬ人間だけだ。
「ああ、俺にだって非はある。お前の言い分は間違ってねえよ」
「ごめんなさい、そんなことが言いたかったんじゃなくて、」
「間違ってねえもんは間違ってねえ。耳が痛かろうが、聞かなきゃならねえ言葉だ」
「……本当に行ってしまうんですか、」
「今まで散々逃げて来たんだ、そろそろ頃合いなんだよ」
数多の言葉を飲み込んでは胸の奥に留めている。聡明な女だった。だからこそ、いつまでもこのような場所に、凍えてばかりでどうしようもない自身の傍になど居るべきではない。確かにこの終わりのない凍てつきを忘れられた時はある。今となっては身の丈に合わない施しだったように思えるが、あの日々に何度も助けられてきた。
「山井さん、」
女は震えた声で懇願する。あなたの心残りに、あなたの後悔になりたい、と。綺麗に別れられるほど成熟しておらず、かと言って跡を濁すほど幼稚でもない。清らかな呪いである、純愛を過ぎた成れの果てである。それはかつて自身も持ち合わせていたものだった。たった一人の女の為に奪った命がある、そして背を切られた過去がある。
追い縋る瞳から目が逸らせない。まるであの頃の自身を見ているようで、目を逸らすことが出来ないでいた。ろくでもない人間と関わったばかりに、彼女の聡明さに土が着いてしまったのだ。触れる、濡れた跡のない頬に。触れる、嗚咽に歪む唇に。触れる、誰にも許されなかった後頭部に。
「こうなっちまったら、もうやめとけなんざ言えなくなる」
柔らかな髪に指を通し、ゆっくりと引き寄せた。鼓動が僅かに止まる。息をすることさえ忘れ、目の前の熱に溶解する。抵抗の色は見えず、不格好に収まりの悪い細い手ががら空きの胸元に置かれていた。
──── 俺なんかの後悔になってどうすんだ、お前。
吐息の合間に問う。ふっくらと肉付きの良い唇の感触だけが戻ってくる。束の間に木漏れ日を見た、孤独に似た冷たさの無い青々とした暖かな晴れの日を想う。この身が凍てついてから、どれほどの時間が経っているのだろう。そのことさえ、思い出させるほどに触れた肉付きのよい唇に、いよいよ離れがたさを覚え始める。だから、やめとけと口にしたのは、本当は彼女の為などではなかった。やめとけと切に願ったのは、強く抑えつけようとしたのは、独り身の自分自身に向けてだったと知る。
気づけなかった、いや、見て見ぬふりをしていた。知ろうともしていなかった、恐れていたからだ。また、あの極寒の冷たさに触れたくはないと、ひとり恐れていたのだ。だからこそ、彼女のあたたかな部分だけに触れられるように、触れていられるように自身を律し、遠ざけようとしたのだ。後悔なら嫌と言うほどに抱えている、清算できないほどに抱え込んでいる。そんな男の後悔になりたいと言う女を、どうしてやれれば正しく遠ざけられるのだろう。
「お前、男見る目ねえな」
「なんとでも言ってください、私の言葉に嘘はありません」
「本当に、なんてあんまり言いたくねえが、」
俺だって簡単に忘れられるような男になるつもりはねえ。
だから、悪いな。と今度は口元に笑みを浮かべて三度それを重ね合う。後悔なんてものは軽々しく背負っていいものなどではない、たとえ元ヤクザであっても。たとえ、ただのカタギであっても。もし、と願うことは今まで一度たりともしてはこなかった。分不相応な空想に過ぎないと分かっていたからだ。だが、もし。もし、この先のどこかでこの空想が分不相応ではないとなったら、もう一度だけ彼女を願ってもいいだろうか。春のあたたかさを、夏の厳しい暑さを、秋の切ない冷たさを、冬の刺すような冷やかさを知る彼女のことを。
「……本当に後悔するぜ、お前。ああ、あんな男に身をゆだねるんじゃなかった、ってな」
「出来るならそうさせてください、わたしはそれがいいんです」
腕の中の春は小さく芽吹いていた。柔らかくも切ない風を絡ませて、まるで自身の心などどこかに置いてきてしまったと言わんばかりに。ひとり寂しげに春の嵐を渦巻かせ、去り行く冬の曇天に手を伸ばし続けて。置いていかないでと木枯らしめいたように振舞っても所詮、春の嵐はこの身を凍てつかせることは出来ない。
間違っても、お前でよかったとは言えない不器用な男は、女がうんざりするまできつく抱擁してやろうと目論んだが、そもそも男の後悔になりたいと言う女がうんざりなど思うはずもなく、ただ長い抱擁を交わし続けていた。冬の雪解けを待ちわびるように。春の芽吹きを待ちわびるように。また逢う日のことだけを目前に、二人は最後の夜を共にするだけなのだ。
そして、山井豊は自身の身柄と引き換えに春日一番らを日本まで送り届けると、自身の過去の清算を済ませるべく、周囲の夜闇に溶けて消えた。
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