窓の外を流れていく雲の大群、真横を通り過ぎる風景、見知らぬ顔の隣人たちが遠くへ行くのを眺めていると、不意にどこかへ行ってしまいたいと思うようになった。春風が気ままに通り過ぎる季節、いつだって今の在り処を離れて別の居場所を密かに思い、慕う時期が来たのだ。東京の街に暮らすようになってそれなりに時間は過ぎた。あの神室町で知り合いが出来るほどには、東京の街に慣れたつもりだった。新しい環境には不安を抱いていたが、実を言えば期待感すら抱いていた気がする。今となっては、ここまで時間が経ったというのに気持ちばかりが浮ついて、どこかに行きたそうにしている。
「ほんなら、俺んとこはどや?」
あまりにも意外な一言が自分目掛けて飛んできたことになまえはすぐに返事が出来なかった。言葉の意味を探る、どのような意図があって真島はそう口にしたのだろう。真意は如何に。
「確かにずうっと同じ場所に長く居ると、嫌気が差して出て行きたなる時もあるわ」
片手にはもう長らくお馴染みの紙たばこが添えられており、白い煙は細く長く上へと伸びている。軽い、あまりにも重みのない軽々しい一言が今は何故か心地よく響く。軽薄さを問いたいわけではない。東京の街、特に神室町になんていると、それくらいの軽い一言が救いのように思えてくるのだ。この街には人には言えない何かを抱えた人間が多い。だからこそ、戯れであれど空気のように軽い言葉が心地よく聞こえる時がある。今のもそうだ、真島の放った突拍子もない言葉がどこかへ行きたいくせに、まるでこの足には枷があるのだと嘆くなまえの、弱く女々しい部分を優しく撫でてくれる。
真島はなまえを自身の右側に置くことが多い。今夜も真島は律儀に右側を勧めてくれる、本心はそれがとても嬉しいけれど、本心を簡単に明かせるほどの素直さは失くしてしまった。東京に染まるということは純朴な子供のままではいられないことを意味する。真島にも純朴な頃があったのだろうか、現在の隻眼の姿しか知らないと気付く。
「みい〜んな、今の場所から遠く離れていくんや。俺も好きで残されたわけやないんやが、」
「……みんなって、もう誰も残ってないんですか」
「強いて言うんなら、今は東城会となまえちゃんだけやな」
「関東最大の極道組織と同列にしてもらえるなんて恐れ多いですね」
「ほんで、なまえちゃんはどこに行きたいんや」
特には決まってません、ただいつも何処かへ行きたいと考えてるだけなんです。ほおん、こらァ重症やな。そうですか?おお、いつ居なくなるか分かったもんやないっちゅうことやろ?……確かに。
真島の言う通りだった。いつも何処かへ行く夢を見ていると言うことは、いつでもここを出て行けると言うことだと今更になって知る。それはつまり、真島の右側を空け、下手したら誰かに譲ることと同じなのだ。そこまで気づかされると、途端に惜しくなるのは損得勘定で生きている人間だからだろうか。
「だったら、真島さんも一緒に行きませんか」
「二人でどこ行こうっちゅうねん」
「一緒に考えてくれたら助かるんですけどね」
「随分と計画性のない旅やなァ……」
からかうような、突っつき合うような絡みに真島は口元を歪ませる。への字口のまま、眉間に皺を寄せているところを見ると、意外と真剣に考えてくれているのだろうか。真島にとっても右側が重要であるのなら、より救われた気持ちになる。これが片思いの苦しいところである。何度冬を超え、雪解けを目の当たりにしても芽吹かぬ不出来な蕾は今年で何年目になるだろう。もうそろそろ芽吹くところを見たいのだが、未だに自分自身は器用な女になれないままでいる。
「ちょい待ち。まずは俺の質問から答えな、ズルなるで」
「真島さんの質問?」
「せや、俺んとこに来るっちゅう話や」
「それって、どういうことなんでしょう」
「……ほんまか、なまえちゃん」
「だって、真島さんのところって仕事的な意味でしょう?」
「なまえちゃんには俺が仕事人間に見えるんか?」
「え、だって、そうじゃなかったら、」
「前から思っとったが、なまえちゃんは変なとこが鈍感や」
だって、真島建設はいつも従業員を募集してるじゃないですか。それは真島建設の話やろ、俺がしとんのはなまえちゃん個人に対しての話や。ああ、そうみたいですね、となると……。ここまで言って答えが出せへんなら、俺もそこまでの関係やったってことになるで。そこまでの関係、だなんて。
あの真島吾朗にここまで言わしめて初めて勘繰り始めたのは、真島の右側という立ち位置についてだ。いつだって真島は自分を右側に置いていてくれた。それは何故か、今はそれを問うべきタイミングであるような気がした。なまえは恐る恐る口にする、右側の意味を。
「そこまでの関係から変わってしまってもいいってことですか、」
「なまえちゃん、今まで彼氏が出来ひんのはそこが悪さしとったからや」
「考えたこともなかったんです、私は真島さんの隣にいることに慣れてしまったので、」
「どこの世界を探しても、ヤクザの隣に置いてもらえるカタギの女なんぞ、おらへん」
「……私のことなんて気にしてないと思ってた、」
「気にしとらんかったら、なまえちゃんをここまで気にかけへんで」
預けられた右側、一度も咥えられぬ煙草はその身が灰になろうとも微動だにしない。見知ったはずの街の景観が真新しいもののように見え、見えていなかったものが見えたような気がする。
「真島さんの隣以上に居心地のいい場所があるんでしょうか」
「そら、山ほどあるわ」
「じゃあ、教えてくれます?」
この大胆に開放された胸板や革手袋の内側に閉じ込めた素手であるとか、極めて紳士的に取り繕ってきた外面を取っ払った素の姿など、真島は挑発的に口角を吊り上げて口説き落とすことに徹する。決して男女の湿った会話ではなく、いつもとさほど変わらないからかい程度の会話に心は決まっていく。片思いの時期もとうに過ぎていたのだと気付くのに、かなりの時間を要してしまった。ならば、自分からも行動に移すべき機会が来たのではないだろうか。敬愛を、心よりの愛おしさを。
自分が右隣に来てから一度も嗜まなかったたばこのお陰で嫌な風味は全くしなかった。おしゃべりな唇は意外にも厚く、口元に蓄えた髭がくすぐったいと感じるほどに、その一瞬に集中していた。最後に見えたのは、うっかり革手袋の左手から火をつけただけのたばこが落ちたシーンだった。激情が渦巻き、意識が点滅する。後頭部に添えられた手は優しくあろうとしているくせに強引で、手放せないと暗に告げているようで。
静寂に塗れる、熱に浮かされた二人は周囲に誰もいないのをいいことに恋人然としている。二人がいつも落ち合うのはミレニアムタワーの屋上だった。欲望の街を見ながら二人は神室町で生きてきた。一人は極道として、もう一人は一般市民として。手を取り合うことは決して困難ではないが、手に入れると同時に失うものもある。その代償は、一時の気の迷いなどでは片付けられない。女はいつだって何処かを望んでいた、自身の心の行方を探して。男はいつだって右隣を空けていた、この先のどこかで女の気が傾いてくれる時を待ち続けて。
人が何処かへ行きたいと願うのは、今、思い悩む何かから身を引くことが出来れば、その悩みが解決するかもしれないと夢見ているからだ。答えは初めから知っている、分かっているが、それでも心の思うままに飛び去ってしまいたいと。そんな時に自分の居場所を見つけ出してくれるような相手がいたら、その時には真の意味ですべての悩みなどなかったことになるだろう。それが真島吾朗という男だったのだ。自分をいつも右側に置いてくれる男の不器用な思いをようやく知り、もう行き場所を探さなくても良いと二人だけの静寂に羽を畳むことが出来た。
「にしても知らんかったわ、なまえちゃんがここまで鈍感やなんて」
「し、仕方ないじゃないですか。私と真島さんは色々と違ってたんですから、」
「ほんなら、俺がたばこを吸えへん理由も教えなあかんか?」
「……いえ、それは何となくわかります」
ほんまによう分からん子やなァ、なまえちゃんは。と口の端を持ち上げる真島に嫌な気がしないのは、自分自身の在り処さえも見つけることが出来たからだろう。近い将来、この背に携えた羽は衰え、いつか退化していくのだ。
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