珍しくなまえが酒に酔っていた。自宅に戻るとリビングでソファーに体のすべてを預けて脱力している恋人の姿があり、なまえが酒に酔っていると知った。理由を聞き出したいが、顔を赤くした恋人の姿に大吾はまずはその隣に腰かけた。あまり強引に話をしても、酒に酔った人間は意固地になることが多い。幸いなことに酒に酔ったとしても、なまえに悪癖は一切見られなかった。
「おいおい、かなり飲んだな」
眠たそうに閉ざされた瞼が持ち上がり、次の瞬間には大吾を見た。どこかうるんで見える瞳は酒に酔っているという背景を含めて、やけに官能的に見える。普段より鈍い反応に庇護欲を掻き立てられるが、まずは話を聞かずして次の行動には移れなかった。次第に大吾の存在を認識し出したなまえはゆっくりと動き出し、帰ってきて間もない大吾と距離を縮めていく。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
「今日も遅かったね」
「……まあな。それでどうしたんだ、一人で飲んでたのか」
「この間のお酒が残ってたから、飲んじゃおうと思って」
「酔ってるだろ、呂律が回ってないぞ」
たまには飲みたいときもあるの。分かるよ、俺なんかそんな日がしょっちゅうだ。でも、俺と違ってなまえはしっかりしてるだろ?だから、気にしてるんだ。……大吾くん、やさしいね。ああ、ありがとよ。
今では東城会会長の肩書も当時に比べてより重いものになっていたが、昔から付き合いのあるなまえの前では肩書のない堂島大吾として接することが出来た。なまえとの付き合いは高校時代まで遡るのだが、ここでは割愛とさせてもらう。ただ簡潔に言えるとするならば、なまえの努力によってこの関係は築かれたということだ。惚れた腫れたの恋は時に想像を上回る結果を運んでくることがある。
「いつにも増して酔っぱらってるが、気分は大丈夫なのか」
「うん、大吾くんもかえって来たし、今はうれしい気分なの」
「はは、それはよかった。それじゃあ、俺も帰ってきたことだし、なまえは寝た方がいいな」
「もう少しいっしょにいたいな」
「いいのか?俺はまだ風呂にも入ってないんだぞ」
するり、と大吾の首元になまえの華奢な腕が回され、体温の高い体を寄せ合う。なまえからはうっすらと甘い香りが漂い、大吾はそっとなまえの背中に手を添える。なまえはお構いなしに次は大吾の首筋に顔を埋めると、肩に自然と顎を乗せていた。
「たばこのにおいがする大吾くんもすき」
「外で吸ってきたんだ」
「たばこ吸ってる姿、かっこいいからすき」
「でも、お前の前じゃあ吸えないな」
「……気にしなくていいのに、」
どこか寂し気な言葉尻に大吾は、大丈夫か?と問いかける。なまえは寂し気な口調のまま、どんなに立場が変わろうとも大吾が好きだと口にした。なまえが並べる言葉には、時々胸の奥を刺されることがある。耳が痛いとはこのことを言うのだろう。最近は本業にばかりかまけて、恋人としての時間を確保することが厳しい日々を送っていた。もちろん、それはなまえも承知の上であると分かってはいるが、それでも一人の人間として彼女と向き合おうとした時、自身の狡さのようなものを感じてしまい、昔のようなじゃれ合うことさえも出来ないでいた。
好きだという気持ちはなまえだけのものではない。大吾もなまえにはそれなりの愛情を抱いており、人間臭い感情を覚えることもしばしばだ。特にそれなりの愛情と称したのは、その愛情に内包されているのは綺麗なものだけではないからだ。時には嫉妬を覚えることや支配欲、先ほど感じたのと同様な邪な思いが溢れそうになることがある。すべてをさらけ出せる様な恋人には、まだなれていない。
「ねえ、手はなして」
「あ、ああ……、嫌だったか」
ううん、こうしたいの。とつぶやくのと同時にそれは抱擁となって大吾を包み込んだ。頭頂部に頬を寄せるなまえの胸元に大吾は顔を寄せている。つまり、今はなまえに抱擁されているのだが、その行動の意味が読めない。ただただ柔らかい感触に抱かれることの心地よさに酔っていると、頭上から愛しさが降ってきた。
「いつでも私のここにきて。そうしたら、わたしが守ってあげられるから」
「お前が、俺をか?」
「ふふ、わたしにはできないことないんだよ」
「そうだったか?今でも理数系の問題は苦手だろ」
「いまはそんな話してないの、大吾くんちゃんと話きいてる?」
愛おしさが不機嫌そうな声音で言葉を紡いでいる。人間臭い感情に悩まされていたはずの頑固な口元に笑みが浮かぶ。
「ああ、悪い。もういっかい聞かせてくれるか」
「ここには怖いものも痛いこともないでしょう、聞こえるのはわたしの心臓の音だけ」
だから、大吾くんが安心していられる場所のひとつってこと。……それは心強いな、俺に一番必要な場所だ。
素直なところがかわいいと愛おしさがつぶやくのを、彼女の心音と共に聞いていた。ひどく不安や孤独などの恐怖の類を忘れられる音色だった。たった一人にしか与えられない席に座り続けることの重圧から来るプレッシャーは並々ならない恐怖の象徴だ。誰かに預けられるものならその道を選ぶことだって厭わないが、現実はそこまで極道風情に優しくはない。この席はあまりにも血に塗れすぎていた、今の堂島大吾は過去もすべてその背に抱える覚悟を強いられている。
茨の道を裸足で歩いていく大吾の横に並ぼうとしたのはなまえだった。幾度となく鋭利な棘が皮膚を切り裂き、より肉を深く抉るだけの道を共に歩もうとしたのだ。ただのカタギには荷の重い話だ、それだけでなく自身の命でさえも危険に晒す決断だ。それを止めなかったことはなかった。大吾はなまえと顔を合わせる度にこの関係を切るべきだと諭してきたのだが、忘れられない相手だった、好きになってしまったと涙するなまえの姿を見てから、大吾は自身の考えを改めるに至った。
どうしようもない思いを抱くことは間違いではない。かつて、自身もそれに似たことがあったからだ。だが、どうしようもないからと言って、綺麗事だけで関係を築くことは出来ないと自身にまつわる過去をすべて明かすことを選んだ。高校中退から今に至るまで。二人が顔を合せなかった空白の時間のすべてを大吾はなまえに聞かせたのだ。そして、問う。それでも、自分の選択に間違いはないのかと。今ならまだ間に合う、堂島大吾という男の隣にいることで迎える未来が最悪だったとしても良いのかと。
すると、なまえは泣き濡れた顔であるにもかかわらず、笑って見せた。決して間違いはないと、誤りでもないと。それから、大吾はなまえを自身の恋人として傍に置くことにした。その時になって、なまえという女に心を奪われていたと気付かされたのだ。だからこそ、何よりも優先させるべき存在であると心に決めていた、のにも関わらずの今だ。
「そこまで言うなら、すこし甘えてもいいか」
「たくさんでもいいよ」
「そうか、それじゃあ……」
ぐ、っと大吾は自身の顔をなまえの胸元に埋めると、もごもごと何かを話し始めた。よくよく聞いてみると、真島さんだの、桐生さんだのと大吾に深く関わりのある人物の名前が並んでいる。あの人はいつも人の話を聞かないで、無茶ばっかりして、こっちの身にもなってくれってんだ、とより話の内容は鮮明にかつ具体的に私情の入り混じったものへと変化していく。
なまえは意外にも、あの堂島大吾の愚痴を聞いていた。普段は疲れた顔をしてはいるが、決して愚痴をこぼしたことのない大吾の姿に目を丸くして聞き入っていたのだ。あまりにも苦労の多い愚痴になまえは自然と大吾の後頭部を撫でていた。大吾もそれはそれで心地が良いのか、それに甘んじて時折なまえの愛撫を噛み締めるように無口になる場面が度々見られた。
「……悪い、すっきりした」
「やっぱりたいへんだね、大吾くんも」
「なあ、まだ酒って残ってるのか?」
「うん、あるけど」
深いため息と共に大吾はなまえの抱擁から離れ、俺も飲むか、今夜くらいは。とテーブルの上に置き去りのグラスを思い切り傾けた。そして、片手で胸元のネクタイを緩めるとそこからは慣れたものだった。上着をソファーの背もたれに任せ、ネクタイも一緒に預けると傾けた空のグラスに次の一杯を注ぐ。そして、お前も飲むか?となまえにもグラスを差し向けると、あまり酒に強くないなまえもこくりと頷き、大吾のグラスから一口、二口を飲み下す。
「今夜は付き合ってくれるか、深酒になるが」
「じゃあ、大吾くんべろべろに酔わせちゃおうかな」
「これでも昔から鍛えられてんだ。朝、起きて後悔するなよ」
「言っとくけど、いつも気持ち悪くなって吐くの、大吾くんだよ」
じゃあ、今日はお疲れさん。乾杯!と二人は二つのグラスを並べて、縁いっぱいに注いだ酒を口にする。それから二人がテーブル上の酒を飲み干すのに時間はかからなかったが、案の定、翌日はひどい二日酔いになり、心身ボロボロの状態でその日一日をなんとかやり過ごすことになるのである。
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