頬が触れた先の肌触りの良さに目が覚めた。まだぼうっとしていて視界は鮮明ではないが、体に感じる柔らかさや心地良さだけはきちんと理解出来た。しかし、この場所に心当たりはない。柔らかで心地良く、暖かくて胸を高鳴らせる匂いのするこの場所は。

「おはようございます。みょうじさん」

 その一声に目覚めたての頭は危機を察知する。目覚まし時計より眠気を吹き飛ばす効果のあるその声の主は、なまえ自身もよく知る人物のそれだった。眠気の欠片すらない目で彼の姿を探す。正面には居らず、恐る恐る後ろを振り返って見れば、そこに彼の姿を見つけ出した。ベッドの端に腰掛ける男は、いつも綺麗に後ろへと流している筈の髪が下りたままで、上着のないシャツはボタンが留められておらず、はだけたままになっている。普段目にする恰好と違う男の姿になまえは驚きや戸惑いで混乱するばかり。自身の衣服を確かめれば、恐らくこの一室に備え付けてあっただろうバスローブを纏っていた。

「起きて早々、このような状況じゃ驚かれるのも無理はないと思いますが、何もやましいことはありませんのでご安心を」

 私もこんな恰好ですから、みょうじさんの不安を煽ってしまいましたね。と眉を下げ、困った笑みを薄らと浮かべる男、立華にその理由を問わずともなまえは分かっていた。立華鉄は隻腕故に義手を装着している。不自由なことは多々あり、ボタンを留めるのも髪を整えるのもその一つなのだろう。立華の言葉に嘘は感じられず、内心ほっとする。自分が立華に対して何も粗相をしていないのだと知ったからだ。

「みょうじさんは昨晩のことを覚えていますか」

 ホテルでありがちなその問いかけになまえは時間を巻き戻す。この一室で立華と共に夜を明かすまでの間に何があったのか、記憶は昨日の午後十時半過ぎから再生される。
 昨日午後十時半過ぎ、立華となまえは夜の神室町に居た。定期的に立華は亜細亜街を訪ねることがあり、昨日は立華の付き添いとしてなまえも亜細亜街に訪れていた。細い路地や入り組んだ道、建物の中を迷路のように上手く辿って行けば、目的地のとある店に着く。奥までは通されなかったものの、中華料理屋であるその店では茶を振る舞われ、出された茶を飲みながら立華の戻りを待った。次に立華が姿を現したのは三十分程後のことで、店主との別れを済ませた立華と共にその店を後にした所までは覚えている。

「確か亜細亜街を抜けて……、」
「そこで突然、雨が降り出したんです。生憎、傘を持ち合わせていなかった私達は強くなる雨足に、ここで雨宿りをしようと駆け込んで来ました」

 淡々と自分達がこのような一室にやって来た理由を告げる立華に一つ疑問を抱く。どうしても確認しておきたいことだ、昨夜どしゃ降りの雨に打たれて雨宿りに来たと言うのなら。不穏な何かが胸を過ぎった、なまえは立華が定期的に亜細亜街に通う理由を知っている。

「社長のお体は大丈夫なんでしょうか……?昨日は確か、亜細亜街で治療を受けていた筈じゃ、」
「ええ、幸いなことに熱っぽさやぼーっとするような症状はありません。右腕の痛みもありません」
「それを聞けて一安心です。よかった、何もなくて」
「一つ言い忘れていましたが、みょうじさんの衣服は今替えを用意してもらっているところです」
「替えを用意してるって一体誰が……、」
「このホテルの従業員に無理を言って電話を借りました。尾田さんにここへ迎えに来るよう、そして服が濡れてしまったみょうじさんの着替えを持ってくるよう言っておいたんです」

 立華の手際の良さになまえは何かをしくじってしまったような気持ちを覚えた。本来ならば、そのような連絡、雑務事は自分が対応すべきことだ。それを自分の上司であり、体のことも含めて気を使わなければならない相手に任せてしまうなんて。これじゃあ自分が何のために立華に付き添ったのかが分からなくなる。多忙に殺されそうな尾田の代わりとは名ばかりで、その働きは尾田の足元にすら及ばない。せめて顔には出さぬよう、なまえは暗い感情を飲み込む。立華はなまえの翳る心情を知ってか知らずか話を続けた。

「ですから、みょうじさん。あなたにお願いがあります」
「お願い、ですか……?私は構いませんけど、」
「尾田さんがここへ着くまでの間、私の身支度を手伝っていただきたい」
「髪とシャツ、でしょうか」
「ええ、こんな姿をしていては尾田さんに笑われてしまいますからね」

 バスローブ姿の女と髪やシャツの乱れた男がホテルの一室にいたら、誰だって妙な勘違いしてしまう筈だ。それは自分の為にも立華の為にもならないと、なまえは立華の前に座り直し、緊張する指先でシャツに触れた。
 失礼します。もっと楽にしてください。襟元、失礼します。お願いします。と淡々と交わされる会話の中で力んでいるのはなまえだけで、肝心の立華は涼しい顔でボタンが留められるのを見ていた。恐る恐るといった手つきが胸部から腹部へと差し掛かった辺りで、なまえは自分の頭部に何かが触れたことに気付く。咄嗟に立華を見上げた瞬間、自分より背の高い立華の穏やかな視線が降っていることにも気付いた。頭部に触れていた何かは立華の手で、視線に気付いたなまえの頭を優しく髪の流れに逆らわずに撫でている。

「すみません、気を悪くされましたか」

 立華が頭を撫でたのはその一回きりで、なまえの答えを待っているようだった。気を悪くしたか、などと問われても上手く伝えられずにいた。気を悪くしてはいない、ただ、今の気持ちを立華に伝えるための言葉が見つからない。胸は高鳴り、言葉には詰まり、頬は熱くなり、と体の反応が渋滞を起こしている。

「つい、このようなことを。すみません」
「い、いえ、社長が謝ることでは、」
「何故でしょうね、みょうじさんが落ち込んだ顔をしている時、私はこの手を差し伸べたくなります」

 立華の思いもしなかった一言になまえは相槌や返事をするのを忘れ、ただ聞き入っていた。何故なら、あまりにも穏やかな表情をする立華がそこに居るからだ。立華の交渉力やどれほど頭が切れるかを知らない訳では無い。彼の下で働いている以上、同僚や上司の能力というのは常日頃から目にする機会のあるものだ。嘘偽りはない、だからこそ無条件に差し出された思いやりの理由が分からない。それは本人である立華にも分からないものなのだから、他人である自分は余計に分かるはずもなく。

「みょうじさんにしてみれば、迷惑な話かもしれませんが、私はあなたの前では良い人間でありたいようです」
「……それなら、」

 我儘を一つ口にした。あともう少しだけ良い人で居てくれませんか、と。何かを察した立華は、かまいませんよ。とどこかに逃がしていた手を後頭部に添えた。戻って来た優しい感触になまえは目を細め、シャツのボタンを留めることさえ忘れて、ただその感触に身を任せている。すると突然、事態は一変した。
 頬が何かに触れた。まるで誰かの胸に抱かれるような感触になまえは細めていた目を開き、近くを見た。耳元にはどくん、どくん、とその人が存在する音が響く。片腕でぎゅっと抱き締められるように感じるのは気のせいではなかった。

「あなたはよく似ています、私の大切な人に。ですが、似ているからではなく、もっと他の感情でみょうじさんを、」

 その先を聞く覚悟は何故か既に出来ていた。紡がれる言葉の節々から感じ取れる感情に、耳を澄まして聞いている立華の心臓の音に、そして抱き寄せられたという現実に、なんとなく覚悟は出来ていた。だが、耳にする心臓の鼓動がまるで残り僅かなカウントダウンのようで、決めた筈の覚悟が揺らいでしまいそうだった。不安、心音、喧騒、あと数秒後にやって来るだろう言葉。その不安が緊張によるものだと知ると、堪らなく心細くなって立華の背中のシャツを掴んでいた。
 怖い。そう思うよりも前に戻って来た感触があった。髪の流れに逆らわず、優しく撫でる手の感触だ。心でも読まれているかのように、求めるよりも先にそれが与えられた。深呼吸、立華の背中に回した腕の力を抜く。深呼吸、回した腕をほどき、立華と僅かに距離を置く。深呼吸、ようやく視線を合わせ、唇を閉ざす。

「もっと傍に置いておきたいと考えています」

 降り注ぐ言葉、降り注ぐ視線。何故だとか、どうしてだとか、この瞬間に水を差すような返事は到底選べそうになく、瞬きを返す。惹かれ合う視線に引っ張られ、自分の視界に影が降る。肌で感じる次の展開になまえは全てを委ねるように目を閉じた。暗転、近付く熱の気配、心臓はまだやかましい。恐らくあと数センチのところで、立華の声が聞こえ、閉じていた目を開く。

「……すみません、急用が入ってしまいました」
「急用……?」
「お迎えの時間ということです、残念ですが」

 残念という感情は微塵もなかった。しかし、数分後にやって来たドアが開かれる音に反射的に顔をやれば。あ、と小さく漏らす尾田の姿があり、その顔は気まずそうに見える。

「尾田さん」
「……社長、」
「随分と早いお迎えですね」
「いや、昨日電話もらって今の時間じゃ遅すぎるぐらいだと思ってたんですけどね……、」
「こちらも尾田さんに心配をかけている身ですから、こんなこと言えた立場ではありませんが」
「とりあえず社長に頼まれたものは持って来たんで」
「ありがとうございます」
「……じゃあ、俺は外の車で待ってます」

 いつの間にかベッド付近までやって来ていた尾田から替えの服を受け取ると、尾田はその一言を最後に部屋から出て行ってしまった。とても居心地の悪そうな顔をしていた、と人の心配をしていた所で我に返る。自分が尾田の心配をしている場合ではないことを。立華とのこの状況を目撃されており、その事実になまえは密かに震えた。

「しゃ、社長、」
「どうしました、」
「なんかまずい気がするんですけど、」
「そうでしょうか」
「……すっごくまずいと思います」
「それよりもみょうじさん、さっきの続きを」

 続きを、と言われ、なまえは咄嗟に首を振る。し損ねた行為の続きなど、我に返った状態では出来そうにない。何も言い出せないなまえを見た立華は一人何かを察したように笑い出す。なまえは立華が笑っていることに驚いていた。滅多に笑う相手ではない立華が笑っている、その理由を探してみれば。

「……みょうじさん、さっきの続きと言うのは、」

 立華が耳元で囁いた言葉に見せる顔がない。勿論、耳元で囁かれる弱さもあるが、何より恥ずかしさの割合の方が大きい。少しだけ深読みしてしまった自分を恨む。いつまでもそんなことを引きずっている自分を恨む。自分に甘い、都合のいい自分を、慰めてやりたい。

「では、続きをお願い出来ますか。シャツと髪、最低限のところで構いませんから」

 これが終わったら着替えてください。尾田さんが素敵なものを用意してくれたようですので。といつも通りの微笑みを見せる立華に、こてんぱんにされたような気分だった。絆創膏だらけの腫れ上がった乙女心はしばらくの間、休息が必要かもしれない。



| 密室殺人 |


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