人が行き交う大通りに面した路上になまえは立っていた。腕にバスケットを通して、片手には栄養ドリンクと思われる瓶が握られていた。そして、なまえの前を通り過ぎる人々に、試供品です、いかがですか?と声を掛けている。
事の発端は勤め先である薬局店に、今度新発売される栄養ドリンクの宣伝を任され、試供品が入って来たのだ。なまえはそれを一定数捌こうと今こうして路上に立っている。バスケットの中身はまだ残っていたが、それなりに受け取ってくれる人が多く、男女問わず声を掛け続けていた。無愛想ではあるものの、受け取ってくれる人がいると少しだけ嬉しくなる。一応、栄養ドリンクである訳だから、受け取った相手の疲れをほんの少しでも癒してくれる事だろう。
そして出来れば、自分の勤めている店にも来てくれると更に嬉しいけれど、そこまでは期待出来ないと次のドリンクを手に取った。黄色のラベルに薬瓶のように暗い茶色のガラス瓶、中身のドリンクが揺れる。まだ十何本と残る瓶がバスケットの中でカチャカチャと鳴る、なまえは再び、人混みの中を通り過ぎていく人々の様子を伺っていた。
***
なまえは体を強張らせていた。今、目の前にいる相手が、その手の怖いお兄さんに見えるからだろうか。声を掛けたのはなまえの方からだった。理由は至って簡単、シンプル。とても目立つ格好をしていたから。きっとお洒落に気を使っている人物なのだろうと思い込み、声を掛けたのだが、振り向いたその姿は明らかに普通とは言い難いようなもので、なまえは今現在萎縮している。次第に手が震え始めた、この季節特有の寒さから来るものだと思いたい。
「お姉ちゃんかァ?俺に声掛けたんは。」
眼帯を付けた強面の背の高い男性。素肌の上に着用しているパイソンジャケットから覗く、酷く威圧的な刺青の蛇がこちらを睨んでいる。窪んだ目元がゆっくりと瞬きをしている、なまえはその一つの眼差しが恐ろしかった。けれど、今時あまり見かけないテクノカットの髪型に、どこかおかしな印象を受ける。
男に抱くものが奇妙な印象であっても、なまえは言葉を失っていた。先程までなら宣伝トークと、お粗末ではあるが、相手を労わるような言葉を添えて、ドリンクを渡す。これで話を切り上げ、お互いに別れて次の相手を探しての繰り返しだった。それが突然、言葉に詰まり、頭の中も真っ白になってしまって、なまえはその男の前で佇む結果になってしまった。
「お姉ちゃん、大丈夫かいな。さっきから何も言わんと突っ立って、」
「は、はい、大丈夫、です…、」
すみません、とまずは一言置いておく。ああ?と男が声を漏らす、正直言って怖い。自分から声を掛けておいて何だが、話しかける相手を間違えてしまったかもしれない。不安と恐怖に心臓が痛い、体も変に熱くなって来た。季節特有の寒さから来る『震え』を打ち消してしまう程に。
「なんか俺に言いたい事あったんとちゃうか?いつまでも黙っとらんと言うてみい、」
「あ、あの、よかったら、これ…、」
「なんやこれ、栄養ドリンクやないか、」
「新発売の商品で、今試供品をお渡ししてるんです…。」
恐怖に苛まれつつも、なんとか宣伝文句と必要最低限の説明を話し終えた。なまえは今の自分を褒めてやりたいと思った、こんな時でも仕事を忘れず、きちんとこなそうとしている自分を。畳み掛けるようにバスケットから栄養ドリンクを一本取り出し、勢いに任せてそれを差し出した。目の前の男は、差し出されたドリンクとなまえの顔を何度も交互に見た後に、ようやくそれを受け取る。
「栄養ドリンクのぉ、俺あんまこう言うもんは飲まんのやけどなァ、」
「…無理して飲まなくても良いかと思いますけど、もし、その、お兄さんがお疲れなら、飲んでみても良いかなとは思います。」
「お姉ちゃんは、見ず知らずの他人にそないな事言うとるんか?」
「えっと、それでもし商品を気に入って、うちのお店まで買いに来てくれたらいいなって …、」
ついうっかり、と言うやつだった。なまえも途中で何を言っているのだろうと思っていたが、こちらを凝視して来るその視線から逃れたい一心でそう口走っていた。実際の所、このような人物が来ても後々面倒な事になるのでは、と後悔が大きくなっていく。何故あの時声を掛けたのか、自分のうっかり加減に嫌気が差す。けれど、この際正直でいる事が正しいような気がして、誤魔化す気などは更々無かった。
男は、ほぉん、と漏らしながら、今度は受け取ったドリンクを凝視する。何かを考え込んでいるのだろうか、男は暫く黙り込んでから、なまえに声を掛けた。
「そうか、お姉ちゃんも色々考えとんのやなァ。」
「あの、急に声を掛けてすみませんでした、」
「なに謝っとんねん。お姉ちゃんは、なあんにも悪いことしてへんやろが。」
ええねん、それで。とまで続けた男の話がよく分からなかった。
「お姉ちゃんは仕事熱心なんやなァ、」
「あ、ありがとう、ございます、」
「なあ、お姉ちゃん。自分のおる店っちゅうんはどこにあんねん。」
「そこの脇道を入って道なりに歩いた所にある、小さな薬局です。」
「覚えとくわ、ほなまたな。」
男はそれだけを言い残し、なまえの前から立ち去ってしまった。ドリンクを握ったままの手を振って、人混みの中へと消えてしまったのだ。心臓はまだ静かに鼓動を刻んでいた、生きた心地の無かった時間が薄れていくのを感じる。そして、意外と人当たりの良さ気な人物だと思った。見た目で判断してしまった事を反省したい、なまえはまた自分の持ち場に戻る。一応、念の為、怖そうな人には声を掛けないようにもしようと思う。
それから三十分ほどは手元のドリンクを捌いていた。けれど、一旦店に戻らなくては、と先程の男に説明した道を一人で歩いていく。店の看板が見え、自動ドアの近くまで来た時だった。
ドアのガラス越しに店長と誰かが話し込んでいるのが見えた。それは、先程勘違いから声を掛けてしまったあの男で、彼が店長と話をしている。人影を感知したセンサーが目の前のガラス扉を開けてしまい、その物音で店長とその男はなまえの方に視線を逃した。
店長はこちらを見てハッとしており、男は陽気な声で、こっちや、お姉ちゃん、待っとったでぇ!と呼び掛ける。ご機嫌そうな声音で、こっちや、こっち。と手招く男に近付けば、目の前に居座られた店長の顔はすっかり青ざめている。自分が来るまでに一体どれくらいこの男の相手をしていたのだろう。考えただけで可哀想に思えて来るが、その役も今度はなまえへと回ってきた。お互い様、というやつだろうか。
「あ、あの、お兄さんって、さっきの…、」
「せや!あの後、お姉ちゃんの言われた通りにやって来たら、ほんまにこの店があって、試しに入って見たら…。なんやオッサンしかおらんで、せやから、お姉ちゃんの事聞いとったんや。」
「あ、そ、そうなんですね、すみません…、」
「さっきまであそこにおったんか?」
「はい、まだ手元に残っていたもので、」
寒いのにほんま、よう働くお姉ちゃんや、と店長の前から立ち去ると、今度はなまえの前で足を止める。なまえが声を掛けてしまった時と同じように。
「お姉ちゃん、あの栄養ドリンク、ここでも買えるんやろ?」
「ええ、確かに取り扱ってますけど…、」
「なら、何本か買うてくわ。お姉ちゃん、レジしたってや。」
急なリクエストに、はい!とだけ答えて、男の要望にあった栄養ドリンクを数本手にしたまま、レジに立つ。腕に掛けていたバスケットは近くの棚に置き去りにして、レジの下からビニール袋を一枚取り出し、袋の口を広げておく。そして、ドリンクのバーコードを読み取り、更に個数を入力して金額を計算する。
ある程度まで処理を終えたレジの画面には数千円と購入金額が提示され、男は懐から一枚紙幣を取り出すと、釣りはいらんで。と言い残した。受け取った紙幣は一万円と印字されたもので、更に男の言い放った、釣りはいらん宣言に頭が混乱しそうになっていた。
「あの、お釣り、」
「いらん言うとるやろ。俺はこれさえ買えれば満足やねん。」
「で、でも、さすがに、」
「…なんや、俺の金が受け取れへんっちゅうんか?ああ?」
なまえはまた言葉を詰まらせた。いらないと言われたお釣りは実は悩みの種で、その後も頭を悩ませることが多く、疲労してしまう。だからこそ、なまえは購入金額以上のつり銭を受け取れなかった。
「じゃあ、あの、一つお願いしてもいいですか…?」
「なんや、言うてみい、」
「このお釣りは受け取れません。ですから、またこのお金でうちにお買い物に来てください。」
ぐいっと強引に身を寄せる男の顔は怖いままだ、けれど数秒ほど睨みを効かせた後に、その表情を一変させて頭を縦に振った。
「あ、ありがとうございます…!」
「お姉ちゃんには敵わんわ。ここの常連になってまうかもなあ、」
にやついた顔をしてみせる男に釣られて、なまえもその口元を緩める。男が睨みを効かせた時、なまえはもう終わりだと思った。彼には見えていないが、実はレジ下の足元はがくがくに震えている。
「…そや。ほれ、差し入れや。」
袋に詰める前のドリンクを一本手に取り、男はそれをなまえの目の前に置いた。それらを袋詰めしていたなまえは、え?私に?と疑問符を辺りに漂わせている。
「お姉ちゃん言うたやないか、疲れてるなら飲んでみてもええんやないかって。その言葉、今お姉ちゃんに返したる。」
「あの、」
「頑張っとる姿が健気で堪らんかったで。」
今度来た時はお姉ちゃんごとお買い上げや!と意味深な言葉を残して、この場を去っていった。なまえは差し入れに貰った栄養ドリンクを手の内に収めると、もう帰ってしまった男を名残惜しむように、閉ざされた自動ドアを見つめている。これはもう少しだけ取っておこうと、手の中にある栄養ドリンクを優しく握りしめた。
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