ハイヒールが歩く度にカツカツと鳴る。気だるい疲労を背負って帰路を辿っている。仕事終わりの遅い時間でもこの街は明るい。どこもかしこもきらきらと光っていて、仕事疲れの酷使した目に優しくない。またヒールが鳴る、少しだけ歩くスピードを早くしてみた。今日は思ったよりも疲れているようで、一刻も早く家に帰りたい、そんな気分だったのだ。遠くで誰かの高笑いが聞こえてくる、酔っ払いだろうか。なまえはそのご機嫌な高笑いを聞き流して、また歩いていく。


 あ、と思った時には既に遅かった。前のめりに体勢が崩れ、転んでしまいそうになるのを堪えていたが、ハイヒールを履いた足元では踏ん張りなど出来ず、そのまま膝を付くように転んでしまった。手のひらと膝がじわじわと痛み始める、目の前にあるコンクリートの地面は冷たい。沈んでしまった気分をそのままにして、起き上がってみれば、これがもう情けない姿だったのだ。

 小さな小石がくっ付いた膝と手のひら、どちらも擦れているようで赤い線が皮膚に何本も浮かび上がる。一番悲しいと思ったのは、ストッキングが完全に伝線してしまっていたことだ。仕事でしか履くことのないストッキング、疲れた体にその伝線した様は悲しいやら恥ずかしいやらとかではなく、ただ疲れたとそう思えるだけのものだった。偶然だったとはいえ、自分の余裕の無さに視界が微かに滲む。
 泣くまでもないが、この時はほんの少しだけ疑問符を口にしたくなる。けれど、その疑問符を口にしてしまえば、自分の中の何かが崩れてしまいそうで。だから、家に帰ろう、それに尽きるのだ。そう思い、なまえはまたその足を前に踏み出した。

 ぐらり、と不自然に揺れたつま先。また体が左右どっちつかずに揺れる、その足元に違和感を覚える。右足の踵がぐらぐらとしているようで、後ろ足を上げ、振り返るように視線を落とせば、繋ぎ目が破れて今にも取れてしまいそうに、だらしなくぶら下がっているヒールがあった。今度ばかりは視界の揺らぎが大きくなる、それを止める術を知らないのが悔しいが、どうしても考えるよりも先に悲しさに飲み込まれてしまう。

 またどこかで誰かの高笑いが響く。気分が悪い。鼻を鳴らしてすぐに暫く長居していた足を動かし始める。ひょこひょことした足取りは頼りなさそうに不安定に体を揺らして、少しずつ前へ。折れたヒールの足を爪先立ちにして、ゆっくりと歩いていく。高笑いの声が近くなっている気がするが、今はもうどうでもいい。
 足元ばかりに気を取られていたせいなのだろう、前方からやってくる人影に気付けなかった。体に伝わる鈍い衝撃、今度は尻餅をつく様な形でなまえは体勢を崩した。

「あ、あの、ごめんなさい、…ちゃんと前見てなくて、」

 見上げた先にいたのはあまり人柄が良さそうに見えない男の姿だった。妙な威圧感を出していて、睨みを効かせているのだろう、視線が痛い。

「…なあ、姉ちゃん。別にぶつかった事は気にしてねえよ。でも、二人っきりで話でもしようや、一緒に休める所に連れてってやる。」
「え、あ、あの、わたし、」
「俺のことは良いから、ほら、行こうぜ。」

 嫌な笑みを浮かべている目の前の男は、嬉しくない誘いを持ち掛けてくる。強引に腕を掴んでくる手を振りほどこうとすれば、男は苛立ち始めた。自分だってついて行きたくないが、きっとこの男は良しとしてくれないだろう。

「お姉さんよォ、いい加減にしろよッ!」

 痺れを切らしたかのようにあまりにも露骨な怒声が響く。しかし、そのせいで男は後から近付いてくる人物に気が付かなかった。先程のなまえと同様に男の体が揺れ、どん、と鈍い衝撃が伝わるあの感触。男は後から来た男とぶつかってしまった。

「おい!てめぇ、どこ見て…、」

 それ以上、男の口から言葉が出てくることは無かった。この腕を掴んでいた手もするりと解けてしまって、次の瞬間にはその男は道路に伏していた。何が起こったか分からない、この目は一人佇む男を見上げた。

「…なんや、軽〜く一発入れてやっただけやないかい。ホンマにおもろないわ、このど阿呆が。」

 倒れた男に悪態をつく男の手には金属バットが握られている。その先端には赤いものが付着しており、地面へと滴り落ちていく。

「…あの、ありがとう、ございました、」
「ああ?…なんや、姉ちゃん、このど阿呆に絡まれとったんかい。」
「はい…、この人にぶつかってしまって、それで…、」

 未だ地面に座り込んでいるなまえと視線を合わせるかのように身を屈め、その距離を縮めていく。初めてきちんとぶつかった視線の先にあったのは、酷く鋭い眼差しを向けた男の顔だった。真一文字に閉ざされた口元に整えられた髭、頬のところで切り揃えられた髪がさらりと揺れる。
 それよりも気になったのは、鈍く光る瞳が一つだということ。もう片方は黒の眼帯に覆われており、異様な雰囲気を醸し出す。隻眼の男は、倒れた男に向けていた眼差しを潜めると、目元を細め、口角を吊り上げて笑みを見せた。助けてもらって有難いのだが、その風貌や血の滴る金属バットがあまりにも物騒で恐ろしい。

「姉ちゃんも災難やったなぁ、あない怖い男に言い寄られて怖かったやろ。」
「え、ええ、…それに無理矢理腕を掴まれて、」
「せやろなァ、この街には怖い輩が仰山おる。姉ちゃんも気ぃ付けんとあかんで。」
「はい、ありがとうございます。」

 会話は一旦そこで終わった筈だった。普通ならここでお互いに別れて立ち去ってもおかしくないのだが、何故か目の前の男はなまえの前に居続けている。二人の間に気まずい静寂が流れ、倒れた男はまだ意識を失ったままだ。

「あの、もう、いいでしょうか、」
「俺はええけど、姉ちゃんはええんか。」
「それは、どういう…、」
「ヒール、折れとるで。」

 ぎくっと体が跳ねた。あまりにも強烈な光景を目の当たりにしてしまい、すっかり忘れていたが、なまえは今、右足の折れたヒールに悩まされていた。

「…なんとかなりますから、お気になさらず。」

 そう告げて立ち上がってみせる。まだ慣れていないせいで体はふらついたが、自分は大丈夫であると今度は笑ってみせる。しかし、やっぱり隻眼の男も怖い訳で、ぎこちないものになってしまった。その様子を見ていた隻眼の男は腰を低くしたまま、何かを考え始めたようで顎に手を置いている。
 数秒間、男が考え抜いた先にあったのは、先ほどと同じ強面の笑顔。そして、やっと立ち上がるとなまえの右肩の当たりを人差し指でつん、と押した。ほんの少しの力で軽く押されてしまった、それだけなのにまた体が大きくぐらつき、後に倒れそうになった寸前の所で。革の感触がする手のひらに腕を優しく掴まれた。

「ああ〜、やってもうたわ〜。すまんのう、姉ちゃん。…なんや、ヒールが折れとるやないか!」
「え、だから、それは、あの、元から…。」
「あかん!こない迷惑かけといて姉ちゃんをひとり置き去りになんか出来へん!」
「え、ええ、え…?」
「よっしゃ、場所変えるで。まずはどこも怪我してないか、きちんと確認せんと。…大事な体なんやから。」

 隻眼の男は再度身を屈めると、なまえの胴体を担ぎ上げた。視界が一転する、コンクリートの地面が見えた、ついでにあの倒れている男も。

「近くに静かでゆっくり出来るとこ、あんねん。」

 ただ一言それだけを言い残して、男は歩き始めた。なまえの頭には数え切れないほどの疑問符が浮かんでくる。何故、自分が今さっき助けてもらった男に担がれているのだろうか。そもそもこの男は自分をどこへ連れていくのか。と言うか、この男も倒れている男と同じ事をしているのではないかと思ったが、そもそも頭が混乱しているので言葉も上手く出てこない。ただ目を丸くしながら、男に連れられ、倒れている男の姿が小さくなるのを見届けていた。

 不意にどこかで聞いたような高笑いの後に機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえてきた。






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