立華鉄と切ないお話



 衝撃的な一言だった。少なくともなまえにとって、立華の言い放ったその言葉はある意味、戦力外通告だった。神室町の夜景を背景にした社長室には立華となまえの姿しか無い。その場には尾田も桐生も居らず、面と向かって真正面から立華に告げられた。

「みょうじさん、今までご苦労様でした。」
「……社長、どういう意味ですか、」

 ですから、と再び立華は全く同じ言葉をなまえに告げた。これが本日二度目の戦力外通告である、耳を塞ぎたくなった。


「みょうじさん、あなたには他の不動産会社へ籍を置いてもらいます。」

 立華の瞳に躊躇いは無く、代わりに覚悟のようなものが滲んでいた。その一言になまえの胸に秘めた忠誠心がぐらつき始める。



***



 なまえと立華不動産との出会いは数年ほど前。以前勤めていた、不動産会社が所有する土地の全てを膨大な金額と引き換えに讓渡して欲しいと話を持ち掛けたのが、立華不動産の立華鉄だった。目が眩むような金額に土地は全て、簡単に讓渡された。そして、今まで社員一丸となって高い目標を掲げていた、愛着ある会社はその日の内に消滅した。なまえも勿論、そこで職を失う筈だったのだが、私の所へ来ませんか?と立華に声を掛けられ、今に至る。

 当初はとても複雑な気持ちだった。自分の場所を奪った立華の元で働くなど、毎日が嫌悪の繰り返し。しかし、生きていくには職と金が必要であると、なまえは止むを得ず了承した。だが、立華不動産の不動産会社とは思えない業務内容になまえは疑問と怒りを抱くことになる。任された業務内容は前と変わらず事務作業であったが、必要とあれば尾田と共に駆り出され、地上げを行う様を直に目の当たりにしてきた。
 なまえは立華と尾田がどのようにして、神室町の土地を手にしているのか知った時には、嫌悪の果てに軽蔑を見た。多額の金をちらつかせ、立ち退きを強制し、土地を手に入れる。何度も怒りを上書きし、良心が砕けていくのを感じていた。怒りを抱えた人間に従順さも我慢も存在しないのだと、なまえは立華不動産で働き始めてから一週間で退職を申し出た。その時も社長室には、なまえと立華の二人しか居なかった。立華の返事は呆気ないもので、『わかりました』と『残念です』の二言だけを口にした。

 鬱屈した感情からの解放はとても清々しいものの筈だった。見知らぬ男が目の前に立ちはだかるまでは。退職を申し出た日の帰り、なまえは見知らぬ男に声をかけられた。しかし、一目見て思い出す。その男は以前、なまえが尾田と共に駆り出された時に対立した男だった。
 目にどす黒い感情が宿っている。ただならぬ雰囲気になまえは恐怖に声を上げることが出来ない。手に握られていたのは鈍く光る刃物、男の顔が陰っていく。口にしたのは立華不動産への恨み辛み、その男の味わってきた苦しみ、偶然の不幸さえも男の歪な欲を加速させたのだ。無関係ではあるが、無関係ではない。なまえは死を確信した。

「何ボケっと突っ立ってんだ!逃げろ!」

 死に触れる間際、元同僚の声が路地に響いた。こちらへと駆け付けてくるのは、白のストライプが走るブラウンのスーツを着込んだ男、元同僚である尾田だった。尾田は男となまえの間に割り込むと、真っ先になまえの手を引き、複雑な神室町の迷路を駆け抜ける。

「やっぱり、社長の思ってた通りだ…!」
「お、尾田さん…!」
「いいから、黙って走れ!」

 恐怖にかじかむ心のまま、尾田と共に走り続けた。そして、死の淵から救い出されたなまえは、再び立華不動産へと戻って来た。別れを告げた数時間前と何も変わらない、しかし、なまえだけは同じではいられなかった。悪夢に取り憑かれ、体から、心から、恐怖が消えない。尾田によって社長室へ通され、ソファーに腰掛けた後も震えは止まらない。今も尚、生きた心地などしていないのだ、黒い感情に塗り潰されてしまう。


「大変でしたね、」

 ソファーがゆっくりと沈む、なまえは返事を忘れていた。

「でも、みょうじさんが無事で何よりです。」

 気が付くと、立華の視線はなまえを捉えていた。張り詰めた心が欠けた瞬間、なまえは安堵に柔らかく口を結んだ立華へ身を寄せた。ぼろぼろと涙が落ちては、立華のスーツをまだらに暗く湿らせた。立華は何も言わず、義手である右手でぎこちなくなまえの背中を擦り、なまえが落ち着くまで寄り添い続けた。なまえはその優しさが痛く、そして、立華が自分を悪夢から揺り起こしてくれるのだと感じていた。凍えた心から恐怖が溶け出ていった。

「…すみません、でした。社長や尾田さんにご迷惑をかけて、」
「謝罪は結構です。」
「でも、」
「従業員を守るのが私の役目だと思っています。」

 違いますか?と問い掛けてくる立華の声に、なまえは忘れていた忠誠の意味を思い出した。この日からなまえは再び立華不動産の社員として、尾田と共に働いていくことになる。



***



「私は、嫌です、」

 震えた声が部屋に響く。立華はなまえを見抜いたまま、何故ですか、と問い掛けた。表情は冷たく青い、なまえは震える涙腺の事など気にしていない。

「私は、立華不動産の社員です…!」
「それもあと少しです。」
「私はもう、普通の人には戻れません。」
「いいえ、まだ間に合います。」
「私は奪う人間です…!他者から何度でも大切なものを奪って来ました、そんな人間を、社長は…、」

 涙が砕けた、神室町がぼやけて見える。立華の曇った表情も歪み、はっきりと見えない。

「いいえ。みょうじさん、あなたは与える人間です。例えその手が黒く汚れていても、私にはあなたを与える側へ、元の道へ戻す責任があります。」
「……私はもう、必要のない人間なんですか…?」
「ええ、もう充分です。」

 本当ならばまだ言いたい事はたくさんあった。しかし、もう充分だと立華の口から言われてしまえば、なまえはこれが一つの終わりなのだと、心のどこかで酷く物分りの良い自分がそれを呑み込んでいた。誓った忠誠はこんな時でさえも口を塞ぎ、立華の為にと考える自分を気付かせる。
 濡れた沈黙、手懐けられた忠誠心、真っ直ぐな黒い瞳、俯く切ない瞳。最後に、となまえは途切れそうな声で告げた。

「今まで、ありがとうございました…、」

 こちらこそ、と返ってきた立華の言葉が救いだった。大理石の足元にはいくつもの散らばった涙が微かに光っている。頭を上げたものの、もう立華の顔を見てはいけないように感じ、なまえは社長室の扉へと踵を返した。

「みょうじさん、」

 ドアノブに手を掛けた瞬間、立華の声がなまえを呼び止めた。振り返りはしなかった、縋り付いてしまいそうだった。

「簡単に人を信じてはいけません。ですが…、」

 立華はそこで言いかけた言葉を口にはしなかった。部屋の静寂に背を押され、なまえは立華不動産の社長室を出た。



『簡単に人を信じてはいけません。ですが…。』

「そこがあなたの良いところです。」

 今までありがとうございました、と一人きりの部屋で先程の続きを口にした男は、しばらくその場に佇んでいた。

 何故、彼女が他の会社に籍を置くことになったのか。それはこれから起こるであろう最悪の未来に抗う為であると、立華は告げられなかった。しかし、これで良い。これが彼女にとって一番良い選択なのだと、立華もいくつか言葉を飲み込んでいた。
 そして、この別れの後、立華不動産は桐生一馬と共に、カラの一坪を巡る抗争に巻き込まれていく。



***



 季節は冬。肌を刺すように冷たい風に身を震わせながら、なまえは神室町で暮らしていた。今の職場は、やはり前の職場と違い、身の危険を感じることは無い。法の定めに則った、物件や土地の売買をし、地上げなんて以ての外で、誰もが胸を張って勤められる、そんな場所だった。
 居心地も良い、働きやすい環境だ。しかし、なまえはいつも劇場前広場で足を止めてしまう。広場から見上げるのは、丁度一年前に今の職場に籍を移すように言われた、とある不動産会社がある建物。

 あの日から立華とは会っていない。いや、会えていないと言うのが正直なところだ。今思えば、立華の言いたかったことがほんの少しだけ分かるような気がして、一緒に勤めていた時を懐かしむように話がしたいと思った。しかし、相手は立華不動産だ。滅多に尻尾を見せない影のような存在に早々会えるわけも無い、とも思うのだ。

「私は、人を信じる人間です。だから、」

 言いかけてやめた、あの日の立華のように。なまえは見上げていた視線を戻し、再び歩き出した。またいつか再会することがあるなら、その時は素直な気持ちを伝えたい、いや、伝えようと決めた。前向きな未来を見つめるなまえの瞳は、大切な感情を滲ませ、温かく揺れていた。


 一九八九年、カラの一坪を巡る抗争に終止符が打たれてから一年が経った。立華不動産があったあの物件は現在、空きテナントとなっている。



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