郷田龍司と料亭で初デート



 いつもより涼しい首筋が寂しいと思った。普段なら下ろしている髪も今夜だけは丁寧に結ってある。あまり派手ではないものを、と選んだシンプルな花の形を模した髪飾りもなまえの黒髪に揺れ、時折きらりと光っては控えめな印象を残す。それに加え、薄紅色に小さな菊を散らした着物が温かで女性特有の柔らかな雰囲気を醸し、全体的に綺麗に纏まっていた。
 着物に袖を通したなまえは滅多に着ることのない着物のおかげか、背筋がいつもより真っ直ぐに伸びている。白足袋に暖色の草履を履いたなまえは服装の乱れがないか、髪が解れてないか、今夜の為に施した化粧に違和感はないか、何度も鏡の前で確かめていた。


 今日のなまえにはとても大切な予定がある。夜の逢瀬、は言い過ぎかもしれないが、なまえは今夜とある男と食事の約束を取り付けてあるのだ。ただの食事かもしれない、もしかしたらデートかもしれない。今夜食事の予定を入れたのは彼で、その真意はなまえには分からない。ただ後者の意味であってくれれば、なまえにとって忘れられない夜になるだろう。呼び出しを待つ携帯を握り締め、なまえは約束の時を待つ。
 彼は自分を一目見た時、どんな反応をしてくれるだろう。ようやるわ、と笑われそうな未来が少しだけ見えた。本当は自分でもそう思う、恋に揺れる自分が出来る精一杯の背伸びが和装だなんて、全く安易な考えだとなまえは苦笑していた。



 それから彼の呼び出しを受け、なまえは今すぐにでも駆け出したい気持ちを抑えながら、バッグを掴んで草履を履き、家を出た。彼の話によると、既に家の近くに迎えの車が待機しているとのこと。家の鍵を閉めた所でなまえは深呼吸を一度、決して慌てず、騒がず、お淑やかに、と心の中で呟く。今日の自分はいつもの自分とは違う、緊張感に飲まれること無く、今夜彼との設けられた時間を楽しむ、それだけの為にこの装いをしたのだから。
夜風に晒された首筋が肌寒い。やはり首元が寂しいと思いながら、なまえは付近で待機している車を探して歩いて行く。

 まず見つけたのは黒塗りのセダン、そして先に動き出したのはなまえではなく、彼の子であるスーツの男だった。車を降り、こちらへと近付いて来るなまえに声を掛け、一礼をしてから後部座席のドアを静かに開けた。

「今日も大変お綺麗です。きっと親父も喜ぶことでしょう。」
「…ありがとうございます。それじゃあ、今日はよろしくお願いします。」
「ええ。さぁ、お体が冷える前に中へ。」

 失礼します、となまえはシートにゆっくりと腰を沈め、男の手によってドアが閉まるのを見届けると、窓の外へと視線を逃がす。蒼天堀は既に夜が始まり、辺りは夜闇の青い濃淡に染まっていた。約束の時間、彼に辿り着くまであともう少しだと思うと、落ち着かせた筈の胸が煩くなった。鼓動は高鳴り、微かに体も熱くなる。緊張の二文字ばかりが頭の中に浮かんで来て、次から次へと不安を誘う。

 正直な話、この装いが自分に似合っているか不安なのだ。普段着はもっと軽く、ゆるいイメージのものばかり着ている自分には似合わないのではないかと。それにもう一つ、今夜の食事は彼の行きつけの料亭で、となっているが、自分が何か粗相をしてしまわないか、と考えたりする。慣れないことはしない方が良いなんて、自分でも良く分かっているつもりなのだが、不思議と彼が絡んでくると可愛い乙女心がやる気に溢れて、予想もしない行動に出てしまうのだ。
 恋は盲目の意味が痛いほど分かる。顧みることをせず、思いのままに行動する。せめて、彼と顔を合わせる前には、この忙しない心境が穏やかなものになってくれる事を祈りながら、蒼天堀の街並みの中を流れて行った。



 車が次に止まったのは、暫く後のことだった。お待たせしました、とドアは開かれ、外の空気に触れる。履き慣れない草履が地をしっかりと踏み付け、店先を仄かに照らす行灯や夜風に揺れる暖簾、広がる石畳を目の当たりにして、遂にここへやって来たのだとうるさかった鼓動がより一層騒がしくなった。

「さぁ、親父が待っとります。」

 スーツの男の心底穏やかそうな表情が救いだと安堵の溜息を少々、なまえは軽く頷き、自分の前を歩き始めた男の後ろ姿を追うことしか出来なかった。戸を潜り、履物を預け、彼の待つ個室へと通され、そこへ繋がる廊下を静かに歩いて行く。緊張はやはり解れてくれない、彼に会うのがほんの少しだけ怖い。

 こちらです、と男の立ち止まった襖の前で、なまえも同じように足を止めた。溜息か、呼吸か、分からないものを口にしながら、今一度裾が捲れてないかだとか、本当にここに彼が居るのかだとか、心が時間稼ぎをする。そんななまえの様子を見ていた男は、また穏やかな顔で告げるのだ。

「親父もこの日を待っとりました。二人きりでの食事を。ですから、そない硬い表情せんと親父に会うたってください。」

 その男の一言がいとも容易くなまえの強ばる心を溶かしていった。ありがとう、と目の前の彼に小声で伝えると、男は襖の前で正座をし、失礼します、と襖に手を掛けた。物音を立てずに開かれた和室の奥には、今夜の食事の相手である彼、郷田龍司が居た。スーツの男は、親父、みょうじなまえさんお連れしました。と告げ、なまえを龍司と同じ部屋に残し、静かに退室して行く。


「いつまでもそこに居らんと、こっち来たらええんとちゃいますか。」
「あ……、はい、失礼します。」

 なんや、硬い顔しよって、と傷の入った口元を緩めて、不敵に笑っている。微かに震える緊張の足取りで、なまえは自分の席に着くと、正面の彼を差し置いて、自分の手を見つめていた。慣れない恰好に慣れない場所、落ち着こうにもまだ居心地が悪い。

「まるで幼い子と一緒に来たようや、落ち着かんのやろ、」
「……ええ、とても。」
「多少の粗相なら目ェ瞑ったりますが、あまりにも酷いようなら…、そこで終いや。」

 不敵な笑みの中で不意に眼光が鋭さを増していく。喉元に刀の切っ先を宛てがわれているような錯覚と、一気に張り詰めた場の空気になまえは密かに息を呑む。自分の手から離れた視線は、龍と呼ばれる男のそれとぶつかっていく。今にも取って食われそうだ、と内心怯えの色が見え始めた頃、その龍は体を小さく震わせ、吹き出すように大きく口を開けて笑った。豪快で大きな笑い声が部屋に響いた。

「本気にしたらあきまへん、冗談っちゅうやつですわ、」

 暫くはその大笑いが止む様子はなく、なまえはからかわれたのだと理解した時には、同じようにつられて笑っていた。なんて嫌な人だろう、と思えば、不思議とけらけらと笑いが零れ落ちていく。龍司となまえは顔を合わせて間もない、しかし、気が合うかのように二人して一緒に笑い声を上げていた。

「ワシが都合してもろたんや、その好意を無下には出来まへんやろ?」
「…でも、きっと本気なんだろうって思ってました。龍司さん、とても怖い顔してくれるものですから。」
「そない軽口叩くんはアンタだけですわ、」
「ごめんなさい、私もじゃれてみたくって。」

 まぁええわ、今日ぐらいは大目に見といたるさかい、と座椅子の背もたれに体を預けた龍司はなまえの頭から顔、上半身を何度も吟味するように見た。なまえは依然変わらずの鋭い目付きにどきりとしながら、何かおかしいですか…?と龍司に問う。龍司は問い掛けられてから、すぐに返事を返しはしなかった。先程と同様に何度もなまえの事を見つめながら、視線を移動させる。それから数分経った頃にようやく龍司はその問いについて答えた。

「にしても見違えるようですわ、今日のその恰好、」
「見違える……?」

 それは褒め言葉と捉えて良いのだろうか。実際の所、なまえと龍司はそこまで親しい訳じゃない。互いに出会ってからは些細な会話を交わす程度で、ここまで踏み切ったような話をしたことが無かった。だからこそ、龍司の口にする言葉には敏感になってしまう。なんせ、今日のなまえはいつもの自分では無いのだから。


「ええ女、言うたら、分かってくれはりますか。」

 予想外の一言になまえは自然と口元に手を添えていた。自分の指先が驚きに開いている唇を覆い隠す。

「これは冗談とちゃいます。二度は言われへんから、よう聞いといてください。」

 みょうじはん、と名を呼ぶ声が心を揺さぶる。

「ええですか、みょうじはん。そない粧し込んできてもうたら、まるで今日が楽しみやった言うてるのと同じなんですわ。」

 揺さぶられた心の奥を龍司の言葉が暴いていく。龍司の言葉はなまえの思惑をなぞり、なまえはそれを口にされる恥ずかしさに唇を結んだ。龍司はその恥じらう表情を愉しんでいる、なまえが火照る頬を何とかしようとしている時に。
 喉元に宛てがわれていた切っ先は、いつの間にか胸へと向けられていた。薄皮を毟り取るように、それは、龍司の次の言葉は、なまえの乙女心を覆う何もかもを取り払ってしまった。


「ワシの為、粧し込んで来たんとちゃいますか。」

「その薄紅色の着物も、綺麗に結った髪も、薄化粧も。」

 どないなんです?と飄々と聞いてくる龍司に、なまえは震える唇を薄く開いた。しかし、躊躇いは言葉を簡単に忘れさせた。何を伝えるべきかも分からなかったが、それよりも自分の思いをありのままに話す言葉が出て来ない。大切な乙女心を暴かれてしまっては、今更どんな言葉でその思いを飾ればいいのか、それも分からなかった。

「…図星でっか。みょうじはんも、なんや可愛げのあることしてくれるやないですか。」

 自分の椅子にふんぞり返っていた龍司は席を立つと、何を思ったのかなまえの隣へと腰を下ろした。その場に座るとなまえの方を向いて胡座をかき、膝に肘をつくようにして龍司はなまえとの隙間を埋める。

「りゅ、龍司さん…?」
「アンタ、ホンマにええ女やな、」
「……あの、ちょっと、」

 手ぇ出したなったんや。そう聞こえた次の瞬間には、視界を埋める金糸と唇に重なる分厚い感触だけがなまえに許されている全てだった。唇に吸い付く感触にくらくらと目眩がする、不安定な体を支えるように龍司の腕が体に回された。

 息も乱れ、頭も真っ白になっていく中、部屋の外、なまえに近い襖の向こうから、失礼します、と女の声が聞こえた。きっと料理を運びに来たであろう彼女はすぐ近くにいる。一気に現実に引き戻される感覚に、なまえは龍司との間に腕を割り込ませたが、龍司は一向にそれをやめる気配が無い。ようやくの思いで離れたかと思えば、あかん、取り込み中や、と現在進行形で廊下に顔も知らぬ彼女を待たせ、再び唇を重ねた。


 息の上がった口付けの後に龍司は自分の席に戻ると、すんまへん、もう入ってきてもろてええですわ、と襖の奥で待つ彼女に声を掛けた。なまえは平静を装い、龍司は何事も無かったかのように再び自分の椅子にふんぞり返る。廊下で待つ彼女も何も知らないまま、失礼します、と襖を開け、熱い静寂に塗れるなまえと龍司へと温かな食事を運ぶのだった。



| 薄紅は今宵、 |


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