変貌していく錦山彰に寄り添う



 眠れない日は決まって、少し前の思い出を取り出すことが多くなった。夜が深まっていく部屋で一人、適当な場所に座って、ただ遅すぎる時間の流れに逆らっている。なまえは部屋の窓の傍に腰掛けた、窓の外は淡白な月明かりとべったりとこびりつく闇があった。しかし、月明かりが次第に薄らいでいるようで、直に雲に隠れてしまうのだと、窓枠で区切られた狭い夜空を見上げる。
 今日も彼は部屋に居ない、つい最近自分の組が立ち上がったこともあってか、錦山は多忙で余裕の無さが見て取れた。しかし、また最近になって錦山と言う男が変わってしまったように思えた。

 多忙に殺されたから、余裕の無さが一周したから、と言う訳ではない。ただ漠然と前の錦山彰はもう居ないのだという風に捉えていた。錦山も昔と比べて口数が減った、人が変わったかのように目付きの鋭さが増した、いつでも相手に牙を向けているような威圧感も昔のものとは違う。そして、彼の言葉に感情が見えなくなっていた。


「俺、自分の組を持つことになったんだ、」

 それはとある日、錦山がなまえに突然告げた事だった。錦山の口にした言葉が持つ意味を、錦山は全て教えてくれた。自分に組を与えてくれた人の為、自分に期待を寄せてくれた人の為、自分の為に身代わりになった兄弟分の彼の為。たくさんの理由や意味が絡み合ったそれが錦山に、果たさなければならない約束を取り付けた。
 複雑な心境を抱える錦山の霧を少しでも払いたくて、なまえはその日錦山を連れて神室町へと繰り出した。お祝いだ、めでたい日だと、照れ臭そうに笑っていた錦山の手を引いて、新たな門出を祝福した夜だった。

 しかし、組を持つという事はそれなりの苦悩や問題がつきまとうのだと錦山は苦笑した。子を纏められない自分の力量、反発してはお互いに怒号を飛ばし合う、まるで力で押さえつけるような野蛮的な関係。そんな日々の繰り返しに錦山は明らかに摩耗していた。なまえは次第にゆっくりと擦り切れていく錦山の姿を見ていられなくなった。
 いつしかなまえは消耗していくだけの日々に、自分に出来ることは何かと考えるようになった。そして、なまえは錦山が摩耗した分だけ、それを補うように尽力することを決めた。立ち止まりたいと言うならば、気が済むまでこの部屋での時間を貸し、寄り掛かりたいと言うならば、気が済むまで自分の背中を貸した。全てが全て補えた訳では無いが、悪い、と眉を下げて笑ってくれる錦山が救いだった。錦山が完全に豹変してしまうまでは。


 今でも覚えている、あの地を打ち付ける強い雨音を。轟々と鳴り響く雷鳴を、傘も差さずに雨の中、一人で立ち尽くしていた錦山の姿を。鈍色の雨に濡れた錦山は斑な赤をシャツに散らしていた。貫く様に凶暴な眼差しを忘れられない。その日から錦山はなまえの好きだった喜怒哀楽を凍らせた。

「なまえ、もういい。」

 視線すら噛み殺すような瞳がなまえに牙を向けていた。鼓動は深く刻まれ、体を流れる血がどんどん冷め切っていき、錦山との積み重ねた温かな何かが崩れ去った。

「今まで悪かったな、俺に懐くのも今日が最後だ。」

 錦山の言葉が毒に変わっていく。傷んだ心の隙間に入り込んでは、深刻な感傷を発症させる。なまえはその時一つだけ錦山に、とある頼み事をした。


 その結果が現状の通りである。錦山はなまえと顔を合わせる事をやめたが、その代わりここへ訪れる様になった。なまえが眠りに着くと錦山はここを訪れ、なまえが目覚める前にここを出て行く。目覚めた後、この部屋に残されているのは、錦山が愛飲する煙草の残り香だけだ。切ない目覚めの朝はいつも雨で濡れている。
 だからと言って、こうして夜更かしをしていれば錦山に会えると思ってはいけない。そう考える日もあったが、そう言う時に限ってなまえは錦山を待ち切れずに眠りに落ちてしまう。だからこそ、今日も今までと同じ様に眠りに落ちて行くだけだと、月明かりが遮られた暗色の風景画をぼんやりと見つめていた。



***



 次に意識がはっきりと戻って来たのは、突然眠りから突き放された後だった。背中が固まって痛い、壁にもたれかかったまま、眠ってしまったようだ。外は暗色に変わりなく、もうそろそろ柔らかな布団の中へ戻ろうとその場を立った時だった。
 鼻先が雨の匂いを嗅ぎとった。なまえはここで頭を抱える、窓辺で眠ってはいたが、窓を開けて夜風を共にしていた訳では無い。だから、外の空気の匂いなんて分かるはずがないと思い、不意に窓を見た。外は暗色のまま、しかし、窓ガラスが薄らと濡れている。雨が降っていると理解した時、なまえは自然と玄関へと向かった。


 心臓がうるさくなる。もしかして、と求める心に希望が灯る。薄暗がりに慣れた瞳はあの人を探していた、リビングと廊下の繋ぎ目、そこで立ち止まる。玄関から湿った空気と雨の匂いがした、小さな寝息が静寂に掻き消されずに存在していた。

 少し前の思い出のように、錦山くん、と声を掛けてしまいそうだった。反射的に自分の手が自分の口を覆う、声を掛けてはいけない。ここで彼が目覚めてしまったなら、きっと錦山は当然のように自分の前から立ち去ってしまうと思ったからだ。その隣に行く前になまえは寝室へと戻った。あまり物音を立てぬように毛布を手に取り、リビングのソファーからブランケットを回収すると、再びリビングと廊下の繋ぎ目で立ち止まった。
 深呼吸を一つ、手にした毛布は二つ、伝えたいことが三つ。『おかえりなさい』、『お疲れ様』、『ありがとう』、声なき声が呪文を唱えながら、影に潜んで眠る錦山の隣を目指す。寝息が途切れませんように、眠りから突き放されませんように、寄り添うことが禁じられませんように。この時だけでも錦山の眠りが穏やかなものでありますように、と祈り終えた頃、なまえは無事、錦山の隣に腰を下ろしていた。

 数分前の自分と同じく、壁に背中を預けて眠る錦山の顔は見えない。仄かに漂う雨の匂いごと包み込むように、錦山の体にそっと毛布を被せ、なまえも自分の体を覆うようにブランケットを羽織り、冷えた体に温い体を寄せる。
 おやすみなさい、たった一言だけを呟き、なまえはそのまま目を閉じた。懐かしい感覚に閉じた瞳が潤むのを感じたが、今は眠ってしまおうと意識を暗闇に手放した。



***



 懐かしい感覚に襲われた。随分昔に慣れた筈の温かな感覚だ。久しぶりに感じた彼女の柔らかな匂いに、まだここに居ても良いとさえ思えた。微睡み、真っ暗闇の瞼の裏に彼女の姿を見た。これは夢だろうか、彼女の匂いも、瞼の裏に見た幻想も。答え合わせをするように閉ざしていた瞼を開ける。
 目覚めは夜が明ける手前、部屋を照らす青白い光がぼやけていた。記憶に無い毛布が体を覆っている、身に覚えのない優しさは一体どこからだろうか、と疑問に対する答えを探すべく、辺りを見回した時だった。

 隣に寄り添う自分より小さな人の影、自分と同じように温かな毛布を身に纏い、未だ眠りから覚めないもう一人の誰か。男は知っていた、その人影がなまえであると、錦山は知っていた。控えめに身を寄せたなまえの体が一定のリズムで上下する。錦山は早々に立ち去ろうと考えたが、それは良い選択肢ではないと気付いた。今ここでこの場を離れようとしたなら、彼女は眠りから覚めてしまうだろうと。厄介だという感情が一つ、それでも憎めないという感情が一つ。

「…ったく、お前は。」

 錦山は観念したらしく、自分に被さっていた毛布をなまえに被せ、静かに溜息を吐いた。

「……大馬鹿が、」

 これじゃあ、煙草が吸えねぇ、と錦山は天井を見上げた。部屋の至る所が薄暗い寒色に染まっている。自分も、なまえも、同じ空間で同じ色に染まっていても、決して同じにはなれない。例え、寄り添う体があろうとも、二人は隣同士で並ぶことも、同じ場所に立つこともない。

 俺とじゃあ、幸せにはなれねぇよ。何も知らない寝顔を見つめる、なまえの唇から微かに声が漏れた。


「悪いな、なまえ。」


 不覚にも満たされた心に錦山は口元を人知れず緩めた。今だけ、今この時だけだと、なまえの穏やかな寝顔に郷愁の意を覚え、いつの日かの遠い記憶を、思い出せるだけ思い出そうとする。今はまだ鮮明に映る彼女が笑っている記憶を、目を閉じ、一人瞼の裏で広げていく。
 すると、突然閉ざした視界が滲んだ。錦山は一体どうしてと滲み行く視界を止められずにいたが、たった一度彼女の記憶を取り出すと、その理由が分かったような気がした。ああ、そうか、と全てを理解した時。

 不意に雨の匂いがした。



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