堂島大吾がまだ荒れていた頃のお話 胸糞悪い夜だった。昨日もその前の日も、多分明日も。冷たいコンクリートの上に仰向けに横たわりながら、見上げた夜空は近くの電柱の光が邪魔で星なんて全く見えない。殴った拳はびりびりと痛み、殴られた頬や体は重く鈍痛を繰り返している。
苛立ちに理由は無かった。ただほんの少しのきっかけがあれば、簡単に触発され、相手が倒れるか、自分が倒れるまで肉を殴るだけだった。今夜は惨敗だった。大吾の口の中はさっきからずっと血の味しかしない。執拗い痛みに大吾は何を考えるでもなく、途切れ途切れに光る電柱とその間を繋ぐ電線を見つめていた。
「あの、大丈夫ですか……?」
相変わらず痛みがのしかかってくる中、女の声が聞こえた。大吾にこの声の心当たりはなく、ただ声を掛けられたからという理由で鈍痛を引き摺る体を起こす。
「俺に何か用か、」
見ず知らずの相手の前で、やたらと不安そうな顔をして見せたのは一人の女だった。神室町を夜な夜な遊び歩く大吾に、やはり彼女に対する心当たりはなかった。
「…怪我してるんじゃないかと思って、」
「それがどうした、アンタには関係ねぇだろ。」
「そうなんです、けど…、」
他人のことだろうが、と大吾は女を見つめていた。口には出さずとも女のお節介にうんざりしていたのだ。取って付けたような優しさは何の役にも立たない。傷を舐め合うくらいなら、気絶する程に殴り合っている方がマシだと、大吾は鋭い言葉を並べたが、彼女にそれを言うまでもないと片付け、相変わらず黙り込んだままで続きを聞く。女は何かを決意したような顔をしている。
「よかったら、私に付き合ってください。」
深く頭を下げた女の丸まった背中を見下ろす。その言葉の意図が分からない、あまりにもその誘いが急であることから大吾は反応が遅れていた。喧嘩に負けたことで自棄になっていたのかもしれない。彼女に付き合ってみても良いと特に深く考えもせず、大吾は女の背中に声を掛けた。
「へぇ、アンタも見かけによらず積極的って事か、」
「ち、違います…!」
「じゃあ、何が目的だ、」
「……付き合ってくれたら、教えてあげます。ですから、お願いします。」
女に言い寄られることはそれなりにある。しかし、相手がここまで必死になっているのは珍しく、特に喧嘩で負けた後の大吾に声を掛けたのは、後にも先にもこの女が初めてだった。
「…わかった。そこまで言うならアンタに付き合ってやる。」
それで体の痛みが引く訳では無いが、ありがとうございます…!と女の見せた嬉しそうな表情に、先程並べた言葉を片付けて正解だと思えた。麻痺する感情の痺れが少しだけ取れたような気がして、大吾は苦笑する。
「それで、俺とどこ行こうってんだ。」
「すぐ近くです。歩けますか?」
こちらを覗き込む女の顔はまだ嬉しそうだ。一体何がそんなに嬉しいのか分からないまま、大吾はその女の隣に立つ。私はみょうじなまえです、と遅れた自己紹介から始まる他愛もない会話を引き連れ、二人は目的地へと向かう。
なまえは何度も大吾の体調を気遣うような発言を繰り返した。大吾はその度にむず痒い気持ちに襲われた。その気持ちの正体が掴めず、もどかしさから大丈夫だと答えようとすれば、途端に傷が痛み出してはなまえに気遣われる。彼女を邪険には出来ないのだと知ると、大吾は大人しく大丈夫だと返した。痛む頬を不意に掻きたくなった、指先で撫でるように触れる。少しだけ痛んだが、馬鹿正直に照れているよりかは良いと思えた。
「えっと、その、…お兄さんはよくあんな事をしてるんですか、」
「…大吾だ、」
え?と驚いたような表情の数秒後にようやく意味を理解したようで、あ、お兄さんの名前ですね、と口の端を持ち上げた。
「俺が何してようと勝手だろ。さっきも言ったがアンタには関係のないことだ。」
「そうですね、」
「やけに物わかりが良いじゃねぇか。俺はありがたい説教でも食らうのかと思ってた。」
「大吾さんが喧嘩して怪我するのも勝手なら、私がその大吾さんを助けるのも勝手ですよね、」
ああ?とガラの悪い声が自然と口を突いて出てきた。なまえは表情を柔らかに崩したまま、こちらを見た。
「…ダメですよ、喧嘩なんて。」
「今のは説教か?それとも忠告か?」
「いいえ、私の勝手な意見です。」
「少しくらいなら聞いてやる、言ってみな。」
なまえは表情を曇らせると、その場で足を止めて大吾へその勝手な意見とやらを口にした。
「折角の男前が台無しです、怪我なんてしてたら。」
「それだけか、」
「ええ。これだけです。」
さぁ、あと少しで公園に着きます。行きましょう。となまえが先に歩き出すと、大吾も後を追うように着いて行くのだった。
公園に着いてから、二人は同じベンチに腰掛けた。なまえは自分の膝に置いた鞄の中をごそごそと漁り、大吾は彼女のお目当ての物が出てくるまで待っていた。数分待てども、それは一向にやって来ず、今度不安を覚えたのは大吾の方で、大丈夫か?と問いかければ、なまえは残念そうな顔で項垂れた。
「ごめんなさい、絆創膏持ってると思ったんですけど…、」
「たったそれだけの為に俺をここへ連れてきたのか、」
「あの、大吾さん。まだお時間は平気ですか…?」
なまえは今から近くのコンビニまで必要なものを買いに行くと言い出した。大吾はそこまでする必要はねぇ、と言ったのだが、なまえがまたお願いします…!と懇願するものだから、大吾は公園に一人取り残される結果となった。
「……何やってんだ、俺は。」
自分が勝手に暴れて打ちのめされただけだと言うのに、何故彼女のことを振り切れないのか。ついさっき出会ったばかりの女に向けられる優しさが心地良く、大吾の痺れる感情を撫でてくれるからだろうか。
くだらねぇな、と独り言を呟く。全くその通りだ、殴られ過ぎてどこかおかしくなったのかと自嘲するような笑みを浮かべていた。すると、どこからか抵抗する女の声が聞こえた。
妙な胸騒ぎがする、なまえのことを思い出した。コンビニに行ったっきり戻って来ない、すぐ近くのコンビニに行った筈なのに。胸騒ぎ、心当たり、嫌な予感。なんでもかんでも彼女のことへと結び付ける単純な頭に、痛む体のことを忘れて大吾は数分前の彼女の後ろ姿を追った。
***
大吾を一人残して公園を離れるのは少しだけ心苦しかった。自分でもどうして彼に声を掛けたのか分からなかったが、ぼうっと真上の夜空を見上げている横顔が寂しそうに見えたから。そんなことを本人に言える筈がなく、なまえは半ば強引に大吾を連れてきた。
柄でも無いことをしてしまった、と自分でも思う。雑多な事ばかり考える頭を片付け、なまえはコンビニの自動ドアを潜る。そこで購入したのは消毒液と絆創膏、それとタオルを一つ。たったそれだけを詰め込んだ袋を手に、コンビニを出た時だった。
人とすれ違いざまに肩がぶつかってしまったのだ。その反動で倒れはしなかったが、代わりに嫌な声がなまえの耳に聞こえてきた。いったいなァ…、と不機嫌な男の声がなまえの体を強ばらせる。なまえの正面にいたのは、個々の主張が激しい格好をした男が三人ほど。
「なぁんだ、お姉さん大丈夫?」
「え…?ええ、」
「それなら良かった。でもさ、こっちは大丈夫じゃないんだよねぇ、」
「あ、あの、ぶつかってしまって、すみませんでした…!」
「いいよいいよ、気にしてないし、」
「…それじゃあ、あの、人を待たせてるので、」
男達の横を通り過ぎようと足を前に出した途端、男達は突然道を塞ぐように体を移動させた。
「待ってよ、お姉さん。ぶつかったのは気にしてないけどさぁ、」
「もっとお話したいなぁって思ってるんだけど、」
「そいつのことなんか放っておいてさぁ、」
男達はなまえに対して完全に足止めをしていた。行く手を塞がれたなまえの焦りは増していくばかりで、何度謝罪と理由を伝えてものらりくらりと躱される。キリがない、俯きがちになっていくなまえを見た男はその手をなまえに伸ばすと、細い手首を掴んだ。
***
「人の女に何やってんだ、お前ら。」
コンビニの近くで彼女は男達に囲まれていた。彼女と周りの男達は一斉に大吾の方を見たが、彼女の不安は大吾の登場だけでは拭えず、男達もどこか嘲笑うように、にたにたと大吾を見ている。
「何、お兄さん。ボロボロの格好で、」
「挑発に乗る気はねぇ、さっさとその女返してもらおうか、」
どうしようかなぁ、となまえから手を離す気にない男達は、余裕をぶら下げて仲間内で呑気に話をしていた。男達は三人、その中でもなまえの腕を掴んでいた男の横顔が一瞬で弾けた。なまえは小さな悲鳴を上げ、弾けた衝撃に男はコンクリートに倒れ込む。仲間連れは誰か一人でもやられたなら、一気に火が点くものだと大吾は知っていた。残りの男達は驚きのあまり、さっきまでぶら下げていた余裕を忘れてしまったようだ。
「お前らの挑発に乗る気はねぇ。…そうは言ったが、俺はあまり気が長い方じゃねぇんだ、」
大吾に釘付けになっている男達の隙間からなまえがするりと逃げていくのを確認すると、今度は大吾の方からあからさまな挑発を仕掛けた。
「お前ら、それでいいのか。こんなボロボロの俺に仲間がやられたまんまでよ、」
そっちの方が格好つかねぇんじゃねぇか、と吐き捨てる。既に火が点いた彼等が燃え上がるのはいとも容易く、大吾の安い挑発に乗った男達は二人がかりで襲い掛かって来た。
「…丁度むしゃくしゃしてたんだ。気が晴れるまで、とことん付き合ってもらうぜ、」
それだけを最後に言い残し、大吾は自らに襲い掛かる男達を相手に拳を構えた。
結末は冒頭とは違うものになった。コンクリートの上で伸びているのは大吾ではなく、群がっていた男達三人だった。肩を大きく揺らしながら大吾は荒い呼吸を繰り返している。なまえはと言えば、男達に囲まれた時よりも不安を露わにした顔で大吾の方へと駆け寄った。
「大丈夫ですか…!」
「…ほらよ、この通りだ。」
まだ呼吸は荒いままだったが、なまえに一切の怪我が無いことに安堵していた。
「あの、ごめんなさい…、わたし、」
なまえが曇る表情の理由を口にしようとした時だった。神室町のどこか遠くからサイレンの音が聞こえ、なまえと大吾の二人は一瞬で気を逸らされる。ここから逃げなければ、と先に動き出したのは大吾だった。なまえの手を掴み、行くぞ、と告げて、素早く周りの人混みに紛れる。
「ちょっと、大吾さん…!どこに行く気ですか…?」
「もう少し行った先にホテル街がある。そこの適当なホテルでサツをやり過ごす。」
「…ごめんなさい、厄介事に巻き込んでしまって…。」
「今更何言ってんだ。今日俺に付き合えって言ったのはアンタだろ、」
「でも…、」
「うるせぇ。ごちゃごちゃ言ってる暇はねぇ、ここで捕まる方がもっと厄介だ。」
大吾の強い言葉になまえは躊躇う思考を捨て、分かりました、と頷いた。
「ホテルに着いたら、手当てさせてください、」
「……アンタの好きにしろ。」
なまえの瞳は大吾だけを映していた。瞳の中の自分は傷や怪我でボロボロだった。それでも不思議と悪い気がしない、理由はまだ分からない。ただ、彼女に、なまえに声を掛けられなければ、今日も相変わらずな胸糞悪い夜だったのだろう。たった一日だけでも負のループから抜け出せたことに免じて、今日だけはなまえに付き合ってやるのだ。
決して彼女の献身に落ちたのではないと思いたい。更に強く握り締めた手のひら、なまえの握り返す感触に自然と頬が緩んではズキッと痛んだ。やはり今日は強く殴られ過ぎたのだと、無理矢理納得出来る理由を取り付けた自分に苦笑した。
| マルチエンディング |back