失恋後、真島吾朗に甘やかされる たった今、繋いだ糸が千切れる瞬間を見た。なまえは何も言わず、いや、何も言えず、彼氏だった男から告げられる残酷な話を黙って聞いていた。今まで積み重ねた時間や心、感情、言葉の全てがなまえの中にだけ遺棄されてしまった。その男の話が重要なのではない、糸が千切れてしまった事の方が重要なのだ。ぐるぐると解けないように巻き付け、結んだ筈の糸でさえも簡単に切れる。どれだけ二人の間に大切な何かを積み重ねようとも、それを崩すのに時間はいらないのだと知る。
神室町西公園、午後六時過ぎ。男の話はまだ終わらない、サンドバッグでも殴っているような感覚なのだろうか。殴られるサンドバッグはこんな気持ちなのか、と不意に重なる視線に最早心は揺さぶられない。いつもならすぐ感情に左右される瞳も今だけは渇いているようだった。
全てが終わりという結末を迎えた頃、なまえはその場から立ち去ろうとしていた。いつまでもこんな場所にいても仕方ないと踵を返せば、見慣れた格好の男が一人。
「あないな阿呆、ホンマに居るんやなァ…、」
「…真島さんにそう言ってもらえて何よりです。」
自分ではそんな言葉を吐き出せそうになかった。たった一欠片でも口にしてしまえば、脆くなった感情の波に飲み込まれてしまいそうだった。けれど、皮肉にも渇いていた筈の瞳がようやく何かを思い出し、ぽろりと一つ、二つ涙を零した。いつの間にか懐から煙草を取り出して咥えていた真島も、なまえが見せたその涙に煙草をしまい、一人佇むなまえの隣に立つ。
「他ん所、行こか。」
ぽろぽろと落ちていく涙を気にも留めずに、なまえは首を縦に振った。
「せやなァ…、俺ん所、来るか、」
もう一度首を縦に振る。鼻の頭も頬も赤く染まり、潤んだ瞳は何度も瞬きを繰り返す。大層な部屋ちゃうが、話くらいはまともに出来るやろ、となまえの肩を抱き、西公園前の風景に溶け込むタクシーに乗り込んだ。真島は手短に運転手へ行先を告げると、再びなまえの肩を抱いた。
涙で霞んだ風景に新しく質素な部屋が追加された。真島に肩を抱かれたまま、タクシーに揺られて辿り着いたのは、最低限の生活が出来る程度の物が揃えられた部屋だった。なまえは辺りを見渡しながら部屋に上がり、ほれ、こっちや、と先行く真島の声を追う。自分の部屋ということもあり、真島はとても気軽に羽織っていたジャケットを脱ぎ捨て、両手の革手袋も外してしまった。
夕闇に潰れた部屋に明かりを灯す。白熱灯が更に質素な雰囲気を醸し出す中、真島は寂れて見える冷蔵庫から缶を二つ取り出し、適当な壁際に腰掛けると未だ自分の居場所を作れないなまえを見た。
「…立ち話の方がええか、」
真島にそう声を掛けられ、困惑した表情でなまえは顔を横に振る。
「それは俺も同感や。変な遠慮しとらんと、こっちこい。」
それでええやろ、と強引になまえの居場所を捩じ込んだ真島の隣へ静かに腰掛けた。沈む感情は落ち着いてはいるものの、悲観にしがみつかれてしまって出口が見えない。彷徨う心がかつての温もりを求めている、なまえの隣で缶が一つ開く音がした。ぷしゅっと炭酸が弾ける音につられて、真島の方を見れば、缶ビールを傾け、その中身をごくごくと喉を鳴らしながら飲んでいる姿があった。ある程度飲み切った所で真島は口元からそれを離し、もう一つ未開封のそれをなまえへと手渡した。
「やけ酒にならんとええなァ、」
「もし、そうなったら、…すみません、」
「俺はそこまで面倒見のええ男ちゃうで、」
またごくりと喉が鳴る。散々傷を付けられた胸元は焼けるように熱い。実のところ、なまえは既に自棄を起こしていたのかもしれない。だからこそ、こうして慰めてくれようとしている真島に寄り掛かりたかったのだ。普段じゃ滅多に飲まないビール缶を開け、なまえは苦々しいそれを真島に倣って喉に流した。得意じゃない苦味に舌を痺れさせながら、次の二口目を飲み込んでは大きく深呼吸をする。
「…美味しいです、」
「ホンマかいな、その割にはあんま美味そうっちゅう顔してへんで。」
「本当は苦手なんですけど、……今は不思議と飲めるんです。だから、きっとこれが美味しいってことなんじゃないかって、」
「阿呆、そないなこと言うてるようじゃあ、まだみょうじちゃんには早いってことや。」
「…すみません、」
「みょうじちゃんは、俺に謝りに来たんか?せやったら、今すぐ帰った方がええ。」
そこにいつもの陽気な顔をする真島はいなかった。その代わりにいたのは、眉間に皺を寄せて、微かに怒りを滲ませている真島だった。
「縋り付いて、泣き喚いたらどうや。その為に態々ついてきたんとちゃうんか。」
何の為に俺ん所来たんや、そないやったらなァ、と真島の鋭い言葉が次々に並んでいく。
「みょうじちゃんに声掛けた俺が阿呆やないか、」
その一つ一つが傷口を深く抉ると同時に、自分でさえも気付けなかった意地や虚勢、それらで塗り固めた殻を破っていくようで、なまえはようやく悲しみを零した。ぼろぼろと溢れて止まらない、鼻もぐずぐずで小さな嗚咽も聞こえる。手にした缶も適当に置き去りにして、なまえは真島の目を忘れ、ただ涙が尽きるまで泣き続けた。真島はなまえの肩を抱き、近くにあったティッシュを手に取ると、慣れない手つきでなまえの顔を優しく拭い続けた。
***
「こない泣き腫らして可哀想になァ、」
真島の声が心地良く響く。散々泣き散らした後は真島の懐で、ぼんやりと心音を聞いていた。いつの間にか頭に置かれた手は時折そっと髪を撫でる。みっともなく声を上げ、縋り付き、忌まわしい感情を吐き出し続けた。それでも何も言わず、涙を拭い、ただ頷き、宥めるように背中を擦ってくれた真島の行動に慰められていた。
部屋は静まり返る、なまえに聞こえるのは真島の心音のみ。どくん、どくん、と一定間隔で脈打つ、その音を愛おしく思う。
「みょうじちゃん、」
真島に呼ばれ、顔を上げる。荒んでしまった胸の奥で、再び火が灯るのを感じる。心を寄せていた。たった一時間程度でも付き添ってくれた真島に、破れたばかりの心を寄せていた。弱みにつけ込まれている、そう言われればそうかもしれない。けれど、真島は破れてばらばらになった心を拾い集めてくれたのだ。傷口から溢れる血を受け止めてくれたのだ、何度も頬を濡らす涙を拭ってくれたのだ。
「みょうじちゃん、一度しか言わへんからよう聞いとけや、」
真島が続けた言葉はなまえにとって救いと言えるような言葉だが、それは同時に無慈悲な誘惑でもあった。弱り切った相手に施すにはあまりにも残酷な一言を、真島は何の躊躇いもなくなまえに告げたのだ。真島はきっと分かっていた、自分がそう告げればなまえがなんて返事をするのか。なまえは真島が今まで見てきた人間の中で一番扱い易い人間だ。なまえはそれを知る由もない、真島の好意に甘える程に衰弱していた。
たった一度、真島の前で頷く。それが意味するのは、真島に差し出された首輪を受け入れると言うことだ。嵌められた枷は重く、二度と外れることは無い。なまえが真島の真意に気付いているかどうかは定かではないが、真島を見つめる瞳に恋慕が芽生えている事は確かだった。
「みょうじちゃん。俺はみょうじちゃんの素直なとこが好きや。」
「せやから、ホンマにアイツは頭が足りとらんのや。こないな子、簡単に手放してもうて…、」
「俺の方が見る目あったっちゅうことや。」
口角を吊り上げ、歪んだ笑みを見せる真島から目が離せない。ヒヒヒ、と笑いを逃がした後、なまえは唇に苦味が伝うのを感じ、顔に掛かる翳りの中で目を閉じた。
その日から、あの苦味が忘れられず、なまえはよくビールを口にすることが多くなった。真島に慰められた日に飲んだ、同じラベルの缶ビール。ようやくビールの苦味に慣れ始め、舌先の痺れる感覚も少しずつ受け入れられるようになった。
忘れられない、あの日の何もかも、忘れられない。真島に施された救いを求め、なまえは再びあの日と同じ玄関先に立っていた。その手には、ここ最近お世話になりっぱなしのこの部屋の鍵を握り、気怠そうに顔を出した家主に頭を下げる。
「なんや、今日も来たんか。…ま、ええわ、上がり。」
寝起きと思われる真島の髪には癖が付いており、なまえは不覚にも胸を高鳴らせる。丁度寝とったんや、せやから、まともに相手出来ひんが堪忍な、と真島は雑な足音を響かせ、寝床へと戻っていく。なまえは、お邪魔します、と一言置き、靴を玄関先に揃えた。すると、また真島の声が聞こえ、なまえがその場で振り返ると廊下の壁にもたれかかった状態の真島が居た。
「…なんやったら、みょうじちゃんも寝てくとええ。ちぃと狭いかもしれんが、みょうじちゃんの欲しいもん手に入るかもしれへんで。」
まァ、何が欲しいかは知らんがなァ、とにやついた笑みを残して真島は一人部屋の奥へと歩いて行ってしまった。胸のざわめきはなまえしか知らない、静寂と共に置き去りにされたなまえの膨らみ始めた希望を真島は知らない。欲しいものが手に入るかもしれない、人の形をした『それ』をなまえは手に入れられるのだろうか。
破れた心の患部が熱を持つ、赤く腫れ上がり、次第に増す鈍痛に苛まれ、なまえが患った病は急速に悪化していく。独りよがりの好意、心を寄せる切なさに身が焼き切れそうになりながら、真島の後ろ姿を求めて一歩踏み出した。
薄暗い部屋、なまえを呼ぶ声はどこか眠そうである。床に敷かれた布団、真島の体はこちらに背を向けるようにして横たわっている。
「真島さん、」
「こっちや、みょうじちゃん、」
一つ返事をし、なまえは真島の横たわる布団の近くに座り込む。
「あかんやないか、無闇矢鱈に来るようなとこちゃう言うてるやろ、」
「…ごめんなさい、」
「で、今日は何しに来たんや。また慰めてもらいに来たんか。」
なまえは言葉を詰まらせた。自分の我儘で、この部屋へ来たなどと言えるはずが無い。真っ当な理由は持ち合わせていなかった、真島に名前を呼んでもらいたいが為にここへ来たのだから。
「癖になるんか、極道モンに慰めてもらうと、」
「そ、そういう訳じゃ…、」
「せやろなァ、みょうじちゃんはそない阿呆なことは考えとらんやろ。」
何も言い出せない間が沈黙に潰れていく。
「はよ観念した方がええ、その方がずっと楽や、」
俺ならそうするで、と壁を見つめたまま、真島は言い放った。なまえの無理矢理繋ぎ合わせた不格好な心が震える。鈍痛と共に大きな鼓動を刻み、継ぎ接ぎからは微かに血が溢れ出す。心のままを口にすることに怯えながら、なまえは静かなる部屋の中で真島へとそれを告げるのだった。静寂が消えるまで、僅か数秒後。
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