ハンニャマンにもう一度会いに行く 会いに行く理由を探していた、神室町、現在の時刻は午後四時過ぎ。沈み行く夕陽にまた今日も行けなかったと肩を落とす。なまえはあの日、般若の男と出会ってから何度も西公園のその先へ行こうと試みた。しかし、何故かあの場所に行けずにいた。例え、西公園までやって来たとしても、突然足取りは重くなり、近くのベンチに腰掛けるだけ。
もうあの噂を理由にして向こう側へ行けなくなった。新しい理由を探す。けれどなまえはもう神室町で恐ろしい顔をした男の噂を耳にすることは無くなっていた。それはつまり、と先を急ぐ思考を止める、無理矢理にでも。
もう会えない。誰にそう言われた訳ではないのに、その事実を目の当たりにするのがとても恐ろしかった。なまえは今、自分に向かって来る臆病風を薙ぎ払う理由が欲しい。完全に日が沈む前に帰ろうと、なまえが公園の出口に視線を逃がした時だった。
出口を入口として、この西公園にやって来た人物が一人。その男の格好はとても奇抜なもので、漂う異様な雰囲気と素肌に羽織ったジャケットの隙間から覗く刺青を見た。たった一目見ただけでなまえは、男がその筋の人間だと察する。男もこちらに気付いたのか、その場で足を止め、先程のなまえと同じようにこちらを見ていた。あまり見てしまっても悪いとなまえは急いで視線を散らし、妙に気まずい雰囲気のまま、男が立ち去るのを待つことにする。見ず知らずの他人とは言え、やはりその手の人間には少なからず警戒心を抱いてしまう。触らぬ神に祟りなし、その言葉を今だけは拝借しようと思う。
ジャケットは蛇柄模様、男の髪型は今時あまり見かけないテクノカットと思われ、すらっと伸びた足を包むのは革のパンツ、そして煙草を持つ手、反対に何も持たない手はパンツと同じ革に包まれていた。男が西公園へやって来てから既に数分が経過した頃、男は遂にその場から動くようでなまえは安堵に胸を撫で下ろす。
だが、西公園を出て行くと思われた男は、なまえの予想を裏切るように踵を返した。尖った爪先がこちらへとやって来る、俯きがちの顔には片目を覆う眼帯が付けられ、ジャケットから覗く刺青に見間違いではなかったのだと知らされる。顔をそれとなく背けてみたが、視界の隅には蛇柄が朧気に映り込み、明らかになまえの方へ近付いてきている。不安、緊張、微かな恐怖、なまえは自分の手を握り締めた。
「隣、ええか、」
蛇柄は煙草の匂いを纏ってなまえの前に現れた。不意に声を掛けられ、なまえは反射的に、はい、と答えた。すまんな、と本当に真隣に腰を下ろした男に、なまえは息を呑む。
「自分、ようここに来るんか、」
その問いが自分に投げられているのかと、なまえは恐る恐る隣の男の方を見た。男は真正面を見つめていたが、辺りには誰も居ないことから自分に問い掛けているのだと推測し、控えめに返事をする。
「…ええ、最近になって、ですけど、」
「誰かと待ち合わせでもしとるんか、」
「いえ、そう言う訳では…、ただこの公園のベンチに座ってるだけです、」
「俺もなァ、ここにはよう来とんねん。ま、一服しに来とるだけやが、」
「そうなんですね…、」
あまり弾まない会話はすぐに途切れる。
「なァ、姉ちゃん。姉ちゃんはさっき、誰とも待ち合わせしとらん言うとったが、ホンマにそうなんか?」
「それってどういう…、」
「姉ちゃんは待っとらんでも、他の誰かは待っとるんちゃうんか、っちゅう話や、」
「他の誰か…、」
「ま、ええわ。…邪魔してすまんな、姉ちゃん。」
男はベンチから腰を上げると、出口に向かって歩き始めた。なまえは妙な気分だった、見知らぬ男に声を掛けられ、話をするなんて滅多にないことだ。遠くなる背中を見ていた、それは自然と見送りをするように。ふと男が立ち止まり、そして、ああ、あともう一つ、と更に男は台詞を付け加える。
「知っとるか、姉ちゃん。」
「西公園には、ごっつう顔の怖い男が出るらしいで。」
ほなまた、と男はひらひらと左右に手を振り、遂に西公園から去ってしまった。
彼は一体なんだったのだろうかと考えていた。しかし、それよりも妙に引っ掛かる所がある。男の左目の眼帯、尖った爪先の靴、西公園の噂。般若も同じく左目を眼帯で覆っていた、履いていた靴も爪先にプレートがあり、似たようなデザインの靴だった。他人の空似と言うのは意外とあるものだと思うのだが、何故彼はあの噂を口にしたのか。
急にぞわぞわと鳥肌が立つ、偶然の連続に直感が冴える。なまえは咄嗟に駆け出し、西公園前の通りに出たが、結局あの蛇柄の背中は見つけられなかった。けれど、なまえが躊躇っていたあの扉の向こうへ行く理由が、それを確かめる為の理由が出来た。なまえは今夜、般若に会いに行く。
***
何故、今夜を選んだのかはなまえにも分からなかった。外はしとしとと降り注ぐ雨に濡れ、アスファルトは艶やかに照る。夕暮れ時に出会った男の言葉があったからだろうか、今夜でなければならないような気持ちに駆られた。玄関先の適当な傘をひったくって早る気持ちのまま、家を飛び出した。
遅い時間帯。そして雨という事もあり、駆け抜ける道先に人の姿は無かった。けれど、大通りに出てみれば、例え遅い時間であっても、ギラつくネオンや人々の賑わいは健在である。西公園近く、公園前通りは大通りから外れているせいか、その時間帯に相応しい程に静まり返っていた。
あちらこちらに置き去りにされたゴミ袋が雨を弾き、ビニールの表面には玉のような雫が散りばめられ、それらは何度も自重で下へと落ちる。それはなまえが広げていた傘も同様で、しとしとと静かに降っていた雨が強くその身を傘布へ打ち付けた。弾ける、無数に、至る所で、独特なあの音が隙間なく繰り返された。理由を得た確かな足取りは、西公園の入口から公衆トイレ男子便所奥の個室まで一直線に向かう。やはり雨に帰路を急かされる人が多いのだろう、公衆トイレであってもがらんとしていて人の目を気にせず、なまえはもう一つの西公園へと足を踏み入れた。
寂しげに佇む電柱、淡い白熱灯の光、項垂れるような木々も雨に濡れて沈み、あとはただ薄暗い闇が広がっている場所へ出た。園路はあちこちに続き、青のビニールシートの家屋からも人の気配はしない。ここを住処とするホームレス達もどこかで雨宿りをしているのだろうか、と曲線を描く園路の上をなぞるように歩く。
満遍なく降り注ぐ雨の直線の中を探し続けた。般若の姿はまだ見えない、見つからない。
諦めの二文字はなまえには不要だった、あの男の言葉が嘘だと思えなかったからだ。そしてなまえが足を止めたのは、公園の広場と思われる所だった。中央には噴水があり、他にも公衆電話、自動販売機やベンチといったものが設置されている。奥には地下鉄の入口と思われるものもあり、なまえは辺りを見渡す。左右に揺れ動く視界にそれはあった。
場所は古い地下鉄の入口。そこには、こちらへ背を向けて何やら動いているものが一つ。目を凝らして見れば、暗闇に紛れてしまいそうな黒スーツ、すらっと足の伸びた高い背丈の人影。人影の手には傘が無く、きっと突然のこの雨に降られたのだろうと思うと、胸元がざわつく。
『姉ちゃんは待っとらんでも、他の誰かは待っとるんちゃうんか、っちゅう話や、』
不意にあの男の声が聞こえた。次第に高鳴っていく鼓動と共になまえはその人影に近付いて行った。大きくなる背中、こちらにはまだ気付いていない。人違いと言う不安は無かった、何故だか不思議とあの背中は、あの人影は般若のもので蛇柄の男の言った通りなのだと確信していた。
ぴちゃり、と爪先の浸かる水溜まりも気にも留めず、なまえはその距離を詰めて行く。なまえの存在に気付いたのか、人影は後ろを振り返り、なまえの方を見た。その顔には般若の面が付けられており、視線がぶつかり合う頃には、なまえの進む足はその場で止まってしまった。
雨音が静寂に変わる、二人を遮るのは強くなりつつある雨だけだった。般若もなまえも何も口にしなかった、お互いに通い合う視線の先には、こちらへ歩み寄る般若の姿があった。
彼の黒いスーツが無愛想な雨に晒される。肩や胸元、背中が濡れるのも構わず、なまえの傘の中へと入り込んだ。傘の柄も彼に握られ、しっかりと傘を支えていた。背の伸びた傘の下で般若がなまえを見下ろしている、天井の高くなった傘の下でなまえが般若を見上げている。般若が、自分の目の前にいるこの男が何を考えているのか、何を思って傘をなまえから取り上げ、自分の物としているのか。なまえにはやはり分からなかった、彼の考えていることは微塵も。何も分からないことが嬉しい、となまえは笑みを零す。
彼は得体の知れない、ただの噂話に生きる存在だと思っていた。けれど、こうして再び顔を合わせることが出来て嬉しかったのだ。くすくすと笑いを止められないなまえに般若は何を思ったのか、やれやれ、と言いたそうに頭を左右に振る。
「…待ちくたびれたわ、」
雨音に紛れて、初めて聞く音を耳にした。零れた笑みも自然と止まり、なまえは般若を見る。寡黙な唇は結ばれたまま、しかし今度はその唇が開かれる瞬間を目撃することになった。
「姉ちゃんも人が悪いのぉ、こないなとこで人待たせるもんやないでぇ?」
どこかで聞き覚えのある声をしていた。誰かに、蛇柄のあの男によく似た声と関西弁だった。
「なんや、意外っちゅう顔しとるな。俺はちゃあんと話が出来んねや、ただ黙っとる方がおもろい思うて静かにはしとるがなァ…、」
般若は饒舌だった。なまえが驚き、思考停止している間にも勝手に話を進めてしまう。
「なァ、姉ちゃん。もう知っとるとは思うが、ここ、西公園にはごっつう顔の怖い男が出んねん。」
一体誰のことやろなァ、と間延びした言葉の後に、なまえはやっと理解し始める。なまえが般若と出会うのは二度目ではなく、これが三度目であるということ。蛇柄の男が言っていた事は本当だったということ。そして目の前にいる般若の正体はあの人であるということ。きっと信じられないと言う顔でもしていたのだと思う。答え合わせをするように、般若はなまえに問い掛ける。
「確かめてみるか?」
般若はそう言い残すと、今まで我が物としていた傘をなまえに預け、白い素肌に手を掛けた。眼帯を解き、なまえに背中を向け、面を取る。そして再び眼帯を付け、般若は、般若であった男はこちらを向いた。そこにあった答えはなまえが想像していたもので、何度目かの驚きに硬直しているなまえを他所に、般若であった男は開いた傘の内側で人目をはばかる様に唇を重ねる。
辺りには誰もいない、まるでそれは雨の日の夜に彼によって切り取られた空間のように錯覚していた。また何かを思い出させる感覚に襲われた。鼻先を擽るのはどこかで嗅いだ煙草の匂い。なまえは今、重なる感触に驚きを忘れ、瞳を閉じていく。
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