余裕のない立華鉄



 揺らぐ水面がある。ふとした時に小さな波紋が水面を走る。そこは極めて静寂で不動であるべき場所の筈だった。日の目を見た。鬱蒼とした木陰に沈む水面へ温かな陽の光が差し込み、その温もりに胸が染まっていくのを今でも覚えている。

 彼女はみょうじなまえと言う女性だった。立華が社長を務める立華不動産には、ほんの数名だが従業員がいる。不動産業を始めるよりも前から行動を共にしていた尾田、つい最近立華不動産に勤める事になった桐生、そして桐生よりも前にここに勤めているなまえの三名だ。
 なまえは立華の下で働く一社員であり、その担当業務は事務処理に始まり、職場の清掃、物件およびそれに関わる人物の調査、その他雑務と多岐にわたって仕事をこなす人物である。以前から事務業務を任せられるような人手が欲しいと言っていた尾田が見つけて来たのが彼女で、立華も不自由な自分の体のことを考えると新たな人材の必要性に気付かされた。こうしてなまえは立華不動産の事務員として、立華の下で働くことになったのである。


「みょうじ、コイツの処理頼んだ、」
「ええっ、ちょっと尾田さん…!私、他のやってるじゃないですか…!」
「尾田、それは自分の仕事だろ。みょうじにばかり頼らず、ちょっとは自分で何とかしたらどうなんだ、」
「桐生君もいつの間にか偉くなったみたいだけど、説得力がないねぇ。自分の両手に持ってるものは何だ?」

 数枚の書類が尾田の手から離れ、なまえの手元に置き去りにされる。その尾田の声に立華は三人の姿を見ていた。なまえの近くには、自分で溜め込んだ書類の束に頭を抱える尾田と同じく、頭を抱えつつも何とか書類と格闘している桐生がいた。なまえはその二人のフォローをするように書類の束に手を伸ばし、一枚ずつその中身に目を通している。
 このオフィスも賑やかになったものだと立華は三人の姿を見ていたのだが、やけに胸元がざわついた。不穏な気配を感じる、このオフィスにでは無い、彼らを遠目で見ている自分自身に。

「尾田さん、桐生さんの言う通りです。あまりみょうじさんを困らせてはいけません。」
「…あ、……すみません、社長、」

 尾田の後ろで頷く桐生、立華の言葉に自分の書類と真剣に向き合い始める尾田。そして、ちらりとこちらを見たなまえの顔は嬉しそうにも、照れているようにも見えた。しかし、立華が思うになまえのその表情に深い意味は無い。
 彼女は自分や尾田、桐生より感情表現がはっきりとしている人だ。笑いたい時には笑い、落ち込んだ時には顔を曇らせ、書類一枚見るだけでも眉間に慣れない皺を寄せ、目を凝らして読み進めていく。それ程までに素直な表情をする彼女のあの笑みには、立華に対する特別な気持ちと言うより、彼女の良さである素直が滲んでいるように思える。なまえは立華の近くにやって来ると、先程の嬉しそうな顔をしたまま、立華に声を掛けた。

「ありがとうございます、社長。」
「桐生さんから、尾田さんはみょうじさんをよく困らせていると聞いています。」
「ふふ、確かにそう言われればそうかもしれないです。」

 この間なんて…、となまえは立華の知らない、彼女の切り取った時間を口にする。尾田と桐生の名がなまえの話に浮上する、当然だ、自分よりも一緒に仕事をしている時間が長いのは彼らの方なのだから。水面には大きな波紋が広がっていく、そこは次第に翳り、暗い水の底で彼女の心を探っていた。深く息を潜め、彼女の困りながらも嬉しそうな話を聞き、感情の揺らぎを隠す。誰かに想いを寄せるなど自分には縁のないことだと切り離していた、この稼業に就く前からどこか他人事のように思っていたことだった。

 しかし、立華鉄は日の目を見たのだ。その温かさを知ってしまった、陽の当たる水面の穏やかさを知ってしまった、降り注ぐ光をこの身に浴びていたいと思うようになってしまった。
 この手で掴み取って良いのだろうか、誰にでも分け隔てなく与えられる日差しを、裏社会に身を置く自分でも彼女の隣に、日向へ行くことを許されるのだろうか。手を伸ばす事を躊躇っている、一歩踏み出す事を躊躇っている。だからこそ、彼女の唇から紡がれる尾田や桐生の名前にもやもやとしたものを抱えるのだろう。渇望しているものの彼女との距離はあの二人よりも遠い、そんな気がして立華は密かに苦笑した。



 それからなまえは自分の席に戻ると、引き続き桐生と尾田のサポートに回り、三人体制で積み重なった書類退治をしていた。立華も自分の手元にある書類に目を通す、静かな時間だった。誰もが厳格で取っ付き難い文面と睨み合いながら、着実に書類の山を切り崩していく。終わりの尻尾が見えずにいる、不意に桐生が深くソファーの背もたれに寄りかかった。その様を見たなまえと尾田もつられて、同じようにソファーへと体を預けていた。

「…終わらねぇ、」
「でも、ちゃんと減ってますから、」
「誰だよ、こんなに仕事溜め込んだ奴は、」
「尾田さんと桐生さんです、」
「…桐生君、買い出しにでも行くか。」
「ああ、その方がいいかも知れねぇ。」

 あ、ちょっと…!と慌てふためくなまえとまだ消化しきれない紙の束を残し、尾田と桐生は足早に事務所を後にした。大きな溜息を堂々と逃がした後、なまえは立華の方を向き、すみません、と口にした。

「尾田さんも相変わらずですね、」
「これじゃ、いつまで経ってもこの山が減らない気がします…、」
「それは困ります。みょうじさんには他にもやっていただきたいことがあるのですが、」

 立華の言葉になまえは再び、すみません、と繰り返した。少しだけ挫けてしまいそうな顔をしているなまえを見た立華は席を立ち、一人寂しそうな背中へと近付いていく。そして、先程まで尾田が座っていたソファーに腰を降ろす、そこは彼女の隣だった。

「…社長?」
「仕方ありませんね。尾田さんと桐生さんが戻って来たら、あの二人にはきちんと言っておきますから。」

 なまえには分からなかった、立華が隣に座り、積まれた書類を手にしている意味が。驚きに満ちた瞳が立華を映す、立華はそんななまえに、どうしましたか、と問い掛ける。

「えっと、あの、」
「私とみょうじさんなら、きっと今日中には片付けられる筈です。」
「しゃ、社長にこんなことさせられないです…!だったら、私一人でも…、」
「それでは終わらないでしょう。みょうじさん、私ではいけませんか?」

 不意に口を突いて出てきた言葉になまえも、それを言い出した立華本人も驚き、動揺していた。うるさくなっていく鼓動とは真逆で立華の顔は涼しいものだった。感情の変化を顔に出さないのは随分昔に慣れてしまったせいで、最早それを意識せずとも自らの感情に蓋をするようになっていた。なまえは涼しい顔をした立華とは反対に、次の言葉を選びながらも動揺を滲ませ、瞬きの回数を増やしている。

「い、いけないなんてこと、ありません…、」

 瞳が揺れている。恥じらいながらもキラキラと小さな輝きを秘めた瞳が揺れ、立華の視線と重なった。肯定的な言葉を喜んでいる自分がいた、決して顔には出せない自分が。日向は近い、ただ傍に居るだけでこんなにも暖かさを感じるものなのかと、それは立華にとって初めて知ることだった。
 それを知ると同時にあの二人は、尾田と桐生はこの日向の良さを自分よりも知っていて、その暖かさに支えられて来たのだと気付く。正直、羨ましいと思った。彼らの隣にいる訳では無いが、いつ振り向いても後ろをついて来てくれるなまえとの距離の近さが羨ましいと思った。

「みょうじさんは優しい方ですね、私のような者でも隣に置いてくれる。」
「い、いえ、そんなことないです…、」
「そうでしょうか。みょうじさんも知らない筈ではないでしょう、私達の仕事を。」
「確かに大きな声じゃ言えないような業務内容ですけど、そんなの気にならないくらい、ここの人達は優しい方達ばかりです、」
「それは意外でした、」
「尾田さんなんて私の就職先を見つけてくれたようなものですし、桐生さんは何かと気にかけてくれますし、」


 水面が靄に包まれていく。水の底からではもう彼女の心を探れないと、立華はようやく隣にある日向に手を伸ばした。

「では、私はみょうじさんにとってどんな人間なのでしょう。」

 立華の吐き出した靄に、なまえは言葉を忘れたように沈黙する。聞きたい、彼女の口から自分に対する言葉を、自分をどう思っているのかを。

「社長は、その、」
「言いにくい事ですか、」
「いいえ…!でも、社長は…、」

 狼狽える唇を待つ、日向に手を伸ばしたことを後悔したくない。

「社長は、素敵な方だと思います…。」
「…もう少し深く聞いても?」

 こくりと頷いたなまえに立華は鼓動を高鳴らせていく。感情に蓋をすることを止め、相変わらず口元は寡黙なまま、なまえの胸の内に耳を傾けていた。

「私にはまだ至らない点がたくさんあります。でも、そんな私を雇ってくれて、見守ってくれている社長のことを、…とても素敵な人だと思っています。」

「尾田さんや桐生さんとも違う、その優しさにいつも助けられています。ですから…、」


 それ以上先を言わせていけないと思い、立華はなまえを呼んだ。みょうじさん、とはっきりと凛とした声が部屋に響く。

「もう結構です。」

 彼女の目が勘違いに揺れた。微かに曇った表情を見て、立華はまず自分を第一に落ち着かせ、次に彼女を、と柔らかな表情で告げる。

「ここから先は私に譲っていただけませんか、」

 男女がこう言った話をする時、女性にそれを言わせてはいけない、そんな話をふと思い出す。それは同感で、立華もそうであるべきだと考えていたのだ。水面の靄は晴れ、次第に広がっていく陽の当たる場所が彼女の心であると知った。ならば、次に立華が言わなければならないのは一つ。

「みょうじさん、こんな所で言うのも気が引けますが、」

 今度はなまえが立華を待っていた。既にいつものような余裕はない、あるのは結末を急かす高鳴る鼓動だけだった。

「私は、みょうじさんのことを特別な人だと思っています。」

 あなたの隣に立ちたいと言うのは私の我儘でしょうか、と問う立華になまえは何も言えなかった。けれど、どこか嬉しそうに揺れる瞳が彼女の答えであると察するのは容易いことで、ここでようやく目前に広がる書類の山に手をかけた。

 最後のそれは余裕のない立華の精一杯の賭けだった。この局面で敗退する可能性もあった、今のように勝利する可能性も半々に存在していた。見つめ返す眼差しが眩しい、降り注ぐ陽射しは思ったよりも熱く、心地良い。
 水面は今、陽の光を乱反射させ、穏やかに輝きを放っている。



| 陽に揺らぐ |


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