支配人の真島吾朗でおまかせ



 一日の仕事を終えた蒼天堀はまだ明るい。自分の背後にある、キャバレーグランドの照明がきっと蒼天堀を一番明るく照らしているのだと思う。遅い時間であっても、行き交う人の群れは忙しない。通りのあちこちから聞こえてくる関西弁もまだまだ夜の蒼天堀を楽しもうと浮かれ切っている。冷える夜風に吹かれ、その寒さになまえもそろそろ帰ろうと足を踏み出そうとしていた。その瞬間、不意に聞き慣れた声が後方から聞こえ、咄嗟に振り返れば、そこにはよく知った職場の上司が同じように夜風に身を震わせて立っていた。

「みょうじちゃんも今帰りか、」

 なまえをみょうじちゃんと呼んだのは、なまえの上司である真島と言う男だった。男性にしては珍しい、長く伸ばした髪を一つにまとめ、黒いタキシードを着こなす隻眼の男。

「はい。支配人も今帰りですか?」
「ま、そう言った所や。にしても、ここ最近はよう冷えるわ、」
「支配人、風邪引かないでくださいね。そんなに胸元開けてたら体冷えちゃいますよ。」
「…首締まっとる感じがしてあかんねや。店にいる時はそないな事気にならんのに不思議なもんやで、」

 白い吐息を散らしながら真島は身を縮こませ、遠くにある街の照明が並ぶ蒼天堀通りを見つめている。なまえもその視線につられ、真島の見つめる通りの方を見た。

「何か温かいもの、食べたいですね。」
「せやな、今日みたいな寒い日は特にな、」
「…支配人、ラーメン食べたくないですか?」
「…めっちゃ腹減ってきたわ、みょうじちゃん狙っとったやろ、」

 いえ、そんなことは、と綻ぶ顔をそのままにしていると、ホンマかいな…、と真島は疑り深い目をこちらに寄越す。しかし、どこにしよか、とちゃっかり、この後の予定にしてくれる真島になまえは、支配人の行きたいお店にしましょうと返した。

「支配人っちゅうんはやめや、やめ、」
「でも支配人は支配人じゃないですか、」
「もう今日の業務は終わっとる。せやから、真島さんでええ、」
「…ま、真島さん?でも、」
「硬っ苦しくてしゃあないわ。それに俺はみょうじちゃん言うとるんやから、みょうじちゃんも同じように真島さんって言うたらええやろ、」

 いや、でも、それは…、と未だ踏ん切りのつかないなまえに真島は、ええな?勤務時間外に支配人呼びは禁止や、と更に追い打ちをかける。困り顔のなまえよりも先を歩き出した真島の背中を追って、なまえはその隣へと近付いて行った。転ばんようにな、と声を掛けてくれた真島は思ったよりも背が高いのだと思い、髪を結ったせいで寒そうな首筋を見つめては時折、正面の通りを見た。
 所々消灯している店が疎らに佇んでいた。通りには街灯の明かりがあるおかげで寂しげではないものの、薄暗がりにある大きな蟹や大小のドラムを携えた赤と白のストライプの彼を見てしまうと、一日の終わりを目の当たりにしているように感じられた。

「しはいに……、」
「あぁ?」
「……真島さん、」
「なんや、」
「寒いですね、」
「ホンマや、」

 二人は白い吐息を千切りながら、街灯の下を歩く。あそこにしよか、と真島に促され、なまえは頷いた。視線の先にあったのは、ラーメンの三文字がプリントされた赤い暖簾の掛かっている飲食店。随分、質素な店構えをしているが、まだ営業している辺りがとても親切だと思った。
 もしかしたら、口に合わんかもしれんが、と真島がこちらを見やる。その心配は無用だと言わんばかりに、舌が肥えるほど良いもの食べてません、と答えた。真島はその一言に驚いたのか目を丸くした後、なら、あそこで決まりや、と寒さに凍える口元を笑みで歪めていた。

「みょうじちゃんがグルメやったら、もう二度と誘われへんからなぁ、」
「どうしてです?」
「そりゃあ、連れてった先が不味い店やったら嫌やろ?」
「まあ、確かにそうですねぇ、」
「仮にそないなってもうたら、二度目は絶望的や。ちゃうか?」
「ふふ、そしたら、今度は私が美味しいお店に連れてってあげます。」
「…それはそれであかんわ、」


 真島は悩ましそうに呟く、俺が連れてった店の飯が不味かったら、次どないな顔でみょうじちゃんに会えばええんや、真島さんもそう言うの気にするんですか、…まぁ人並みにはな、と二人は他愛もない会話を連れて、辿り着いた店先で足を止める。赤く垂れ下がる暖簾、磨りガラスの引き戸を潜り抜け、いらっしゃい、と少し無愛想な挨拶を投げられつつも、その大将がいる真正面のカウンター席に二人は腰掛けた。

 がらんとした店内で二人は使い込まれたメニューを見ていた。ここは無難に醤油だろうか、あっさりとした塩も捨て難い、しかし、濃厚な味噌も堪らない。真島はどうだろうかと声を掛ければ、ここのオススメはチャーハンや、などと的外れな返事を返され、余計にぐるぐると葛藤のもやもやが頭の中で回り続ける。
 結局、真島のオススメは食べられそうになく、なまえは味噌ラーメンを選び、真島は塩ラーメン半チャーハンセットを頼むことにした。

 手元にいつの間にか置かれたお冷とおしぼりが、これまた質素な雰囲気を醸し出していて、そうであることが悪くないように感じられ、なまえはおしぼりを取る。真島は席を立ち、店内の壁沿いにある本棚から適当な週刊の漫画雑誌を手に取ると、すぐに席に戻り、分厚いそれをパラパラと捲りながら読み始めた。真島にも追っている漫画があるのだろうか、意外だった。

「今週のは面白いですか、」
「ん、これか。…まあまあやな、実を言うと半分惰性で読んどる。」
「真島さんも漫画読むんですね、」
「まあな。みょうじちゃんも暇なら何か持ってくるとええ。」

 何かありますかね、となまえも席を立ち、バックナンバーもそこそこに並べられた本棚に手を伸ばす。目に止まった何冊かを取り出し、表紙に目をやるとその内の一冊にだけなまえの知っているタイトルがあり、なまえはその一冊以外を全て棚に戻してから自分の席へと帰っていく。腰掛けた椅子がギシッと軋む、そんなことお構い無しになまえは持ってきた雑誌を広げた。
 真島の方は既に読みたいものを読んでしまったのか、軽く流す様にページを捲っている。二人の手元にラーメンが並ぶまで、二人は変に気を遣うことをせず、各々が自由にその時を待っていた。


 へい、お待ち。といかにもラーメン屋の大将が言いそうな台詞を耳にした二人は同時に顔を上げ、目の前のカウンターを見た。器は二つ、ラーメンどんぶりが先にやって来たようで、真島となまえは手にしていた雑誌を急いで片付け、自分達が頼んだそれを手元へと移動させる。温かな湯気が鼻先を掠め、味噌と塩の香りが二人の食欲を煽った。

 空腹に駆られ、真島となまえは割り箸を手に取り、いただきますの呪文を唱え、なまえは手にしていたそれを左右に引っ張り、真島はそれを口に咥え、下に引っ張る。箸の割れる音を合図に二人はようやく熱いスープに浸るちぢれ麺を掴み、何にも遠慮せず啜りあげた。麺に絡むスープを味わいたいとレンゲで一掬い、濃厚な味を堪能する者もいれば、塩のあっさりさに二口目が欲しくなる者もいる。
 まずはお互いの気が済むまで何度も麺を啜り、スープを味わい、熱くなる体を流し込むお冷で冷まし、また気を取り直して次の一口へ。

 ふうふう、と熱さを和らげようと唇を尖らせるのはご愛嬌、ずるずると音を立てて麺を啜る醍醐味、この時ばかりは上下関係を忘れて大人二人が、ただラーメンを好きなように食していた。ラーメン胡椒をかけるもよし、お酢を入れるもよし、追加で餃子を頼むのもよし、こっそりひっそりとおろしニンニクを入れるもよし、後からやって来たチャーハンを合間に挟むもよし。
 こうして二人のラーメンどんぶりはゆっくりと空になっていき、最初はあの雷門と呼ばれる四角い渦模様の高さまであったスープも減り、どっぷりとスープに浸かっていた一玉分の麺も、メンマやチャーシュー、海苔さえも美味しく頂いてしまってそこにはない。満腹でいて満足、この胃の満たされようはとてつもないものだった。

「とっても美味しかったですね、」

 再びなまえが腰掛けた椅子がギシッと鳴る、なまえの声に顔を向けた真島の椅子も遅れて同じように鳴る。

「おう。みょうじちゃんにも気に入ってもらえたようやしな、」
「次は私も真島さんおすすめのチャーハン食べてみようと思います。」
「ほんなら、また仕事終わりにでも連れてきたるわ、」

 こちらを見た真島の口には爪楊枝が咥えられていた。真島が話す度、その楊枝がもぞもぞと動き、なまえはついついその動きを追ってしまう。ええ、是非、と返せば、真島は少し間を置き、もうちょいしたら帰ろか、と勤務中には見ることのなかった真島の穏やかな表情を見せた。それを見たなまえは不意に体が熱くなるのを感じる。先程まで温かいものを食べていたのだ、これはきっとそのせいだと誤魔化す自分とあの真島の顔になまえは残ったままのお冷を全て流し込んだ。

 二人が店を出るまでの間、店内では今日の仕事を労う声や明日からの仕事を憂鬱に思いつつも励ます声が二人の間で飛び交っていた。



| 吐息の白か、湯気の白か |


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